暗雲

第31話

一歩一歩、軽い足音が近づいているのに気づいて、グリは足音のするほうを見た。


 ガラスの天井から差し込む日の光は、七色に彼女を輝かせている。


 いままで見たこともないような美しい瞳の、この世の者とは思えないほど美しい令嬢。


 ルエル公爵家令嬢、カミーユ・ド・キュヴィエ。




 金色がちりばめられたブルーグリーンの瞳が自分を捉えたのに気づいて、カミーユも顔を上げて彼を見つめた。


 長い銀の前髪の下の、美しい瞳。


 やはり彼は、カミーユの憧れの大悪魔ベリアルによく似ている。



「なぜあなたはこんなにも」


 カミーユはそっと手を伸ばし、グリの被っているフードをそっと引き下げた。


「私の知るお方に、そっくりなのか……」


 肩にかかるくらいの長さの銀色の髪が、彼の美しい瞳の上にはらりと落ちかかって淡い陰をつくる。


 グリはかすかに眉根を寄せた。


「そのお方とはどなたなのか」


 低い声でそう呟くと、グリはカミーユの琥珀が散った紫がかった濃いブルーグリーンの瞳をじっと見つめる。


 不思議なことにその瞳に見つめられて見つめ返すと、なぜか目が離せなくなる。お互いの瞳が吸い寄せ合うかのように、いつまでも見つめ合っていたくなる。


 ベリアルと目が合って、こんなに近くで個人的に話をしたことなど、今まで一度もないのに。なぜかとても懐かしい感じがする。


「——そのことについても、話そうと思う」


 カミーユも低い声で静かに言った。




 噴水からさらに小道を進むと、白い石造りの東屋がある。二人はそこに向かい合って座った。


「あなたは魔術を使えるし、悪魔を二匹も従えている。ただの令嬢ではないでしょう」


 単刀直入の質問を先にされ、カミーユはふっと笑みを漏らす。


「ああ、ただの令嬢ではないので、敬語は必要ない。私の母はルエル公爵令嬢で、ジゼルの父の妹だった。そして父はアスタロト。それだけであなたならわかるだろう?」


 グリはさして驚く様子もなくああ、とうなずいた。


「なるほど。半人半魔、か。伯爵令嬢があなたを『半魔だから』と言っていたのは、聞き間違いではなかったのか」


 カミーユはこくりとうなずく。


「人にしては魔力が強く、悪魔にしては弱い。中途半端な存在。だから資質を見るために、こちらの世界で二つの課題をこなしてくるようにと、家庭教師のメフィストフェレスに指示された来た」


「だから……あなたの魔力は強力だが異質な感じがするのか。納得した」


「あまり驚かないのだな」


 グリはふと口元に笑みを浮かべて目を伏せた。


「私も、似たようなものだから」


 金色がちりばめられたブルーグリーンの美しい瞳が、再びカミーユのほうにむけられた。


「私は……」


 彼が何かを言いかけたとき彼も、そしてカミーユもほぼ同時に、自分たち以外の何か強大な魔力の気配を感じてはっと短く息をのんだ。




「なっ……!」


 はるか頭上のガラスの天井を見上げて、カミーユは声を上げた。


「来る!」


 グリはそう叫んでカミーユの手首をつかみ思い切り引き寄せると、ローブで彼女と自分を覆った。


 先ほどまでまるで天使たちが降りて来そうなほど神々しくきらめいていたガラスのドームが、突如すべて粉々に割れて、鋭く獰猛な豪雨となって二人の頭上に降り注いだ。


 グリはカミーユに覆いかぶさるように彼女を抱きかかえながら、呪文を繰り出す。カミーユもグリの腕の中から、彼の背中の上に今にも突き刺さろうと垂直に降下してくるおびただしいガラスの破片を見て、魔力を集中させた念を破片の雨に向けた。


 瞬間、彼らの頭上には二重のシールドの魔力の半球が出現し、すべての破片を弾き飛ばした。


「……」


「……」


 二人は頭上を見上げた。



 太陽の光を美しく分散していた温室のガラスの天井はすでになく、ぽっかりと空洞になっている。そのはるか上にはいままでの穏やかな澄んだ青い空が嘘のように、灰色のグラデーションの濃い雲が暗く立ち込めていた。


 グリは上体をひねり、無残な空洞を見上げて目を細めた。


「結界が破られたのか?」


 カミーユもグリの肩越しに同じ方向を見上げて小さくうなずいた。


「おそらくは、流れ弾のようなものだろう。たまたま結界が弱まった隙間を突き破って飛んできたのかもしれない」


 グリはカミーユを見下ろす。


「では、狙われたわけではないと?」


「少なくとも、半魔の私が魔物に狙われる理由はないから、もし狙われたとしたらあなただろう」




「あのぉ……なんか、お邪魔してすみませんけど……」


 壊された天井のひねりあがった鉄枠の先端に、明るい紫色のローブを全身にぐるぐるに巻き付けた、小柄で華奢な少年がいつの間にか立っていた。カミーユとグリは同時にその少年の名をつぶやいた。


「アンセルム……」


 それは中級魔術師の少年・アンセルムだ。


 カミーユのもとに魔塔主からの招待状を持ってきたあの少年魔術師。



「ええと……今の空から降ってきたものに関して、魔塔主がグリ様にお伝えしたいことがおありのようです」


「ジネブラ様が?」


「ええ。大至急、魔塔主様のもとへお戻りください」


「……またどこかへ討伐に行けとおっしゃるのか」


 グリがため息交じりに小さく呟いた。


 そんなつぶやきは遥か頭上のアンセルムには到底聴こえないはずなのに、彼は大人びた苦笑を浮かべてゆっくりと首を左右に振った。


「我々は魔塔に属する魔術師ですので……主の命令は絶対でしょう?」


 グリは微かに舌打ちをする。そしてゆっくりと立ち上がると、カミーユの手を引っ張り上げて彼女のことも立たせた。



「まだ何も話してはいませんが、残念ながら行かねばなりません」


 カミーユは薄い苦笑を浮かべた。


「しかたない。行くとよい」


 グリはじっと数秒間、カミーユを見つめた。そして彼らの遥か頭上に唇を尖らせて所在なさそうに待っているアンセルムには聞こえないように、彼女の耳元でそっと囁いた。



「マクス」


「え?」


「マクシム。私の本当の名前だ」


 カミーユは目を見開いて、そして笑み返した。


「では私のことはカムと呼んでくれ、マクス」


「ああ」


「また、な」


「戻ってきたら、知らせる」




 ふわり。


 カミーユの髪が重力を無視して宙に軽く舞い上がる。


 次の瞬間にはすでに、目の前にグリ—―マクスの姿は跡形もなく消えていた。


 カミーユは一瞬だけ面食らい、そして唇の片端を上げて笑んだ。

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