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第6話

さらり。衣擦れの音。


 今まで見たことのないような美しい少女が入ってきた。


 ダークシルバーの艶やかな髪は緩やかなウエーブを描き、華奢な肩や背中に流れ、腰ほどもある。小さな逆三角形の輪郭、抜けるように白い肌、小さな鼻に血のように真っ赤な小さな唇。そしてその瞳! 長いまつ毛に縁どられたそれらは、見たことのない美しさ。複雑なブルーの光彩は、瞳孔に近い周辺に琥珀色が散っているのだ。




(なんて美しいのかしら……)




「――おい」


 ついぼんやりと見とれていると、どこからか声が聞こえてきた。


「おい、聞こえてるのか?」


 はっと我に返る。


(え? どこから聞こえてくるの?)


 低いが、女性の細い声だ。抑揚がなく、冷たい感じ。




 頭の中で聞こえている……




 あたりを見回して、ジゼルはやっと異変に気付く。


「なに? これ……」



 祖父も祖母も、給仕人たちもメイドたちも、執事も動かない。


 動かないまま、固まっている。


 まるで、時が止まったかのようだ。


 そしてあ、と小さく叫ぶ。


 ドア付近に立っている美しい少女は冷酷な笑みを口元に浮かべ、ジゼルをじっと見つめていた。



「あなたは……」


 緊張で声が震える。


「お前が私の従姉妹のジゼルか」


 少女は赤い唇を動かした。


「ええ……」


 ジゼルは戸惑いつつもかすかにうなずいた。


「そうか。私はカミーユ。よろしくな」


 カミーユと名乗った少女は静かにテーブルを回りこみ、ジゼルの反対側の席に着いた。


「あの、これは……魔術かしら?」


 ジゼルは周囲を見渡してしどろもどろに尋ねた。額に、つ、と冷や汗が伝う。


「まあ、そのようなものかな」


 カミーユはけだるそうに答えた。


「まずはお前と話をしてみたくて、ちょっと時間を止めた」


(ちょっと、って……!)

 

 すごいことをこともなげに言って、カミーユは空のグラスの縁を爪ではじいた。こぉん、と音がして、グラスにはいつのまにか赤い液体が満たされる。彼女はそれを細い指で持ち、赤い唇に運んでこくりと一口飲んだ。


「クランベリージュース。お前も飲む?」


 ジゼルは呆然としたまま冷や汗を浮かべている。



 こんな魔術を目の当たりにするのは初めてだった。魔塔の下級魔術師、いや、中級の魔術師でも時を止めることは不可能だと思う。それこそ、魔塔主でも可能かどうかあやしい。彼女はこくこくと首を縦に振った。喉がからからに乾いている。


 カミーユがけだるげに美しい顔をかしげる。するといつの間にかジゼルの目の前のグラスにも赤い液体が満たされた。


「さきほど、お前がおばあさまから聞いたことは、真実を基にした作り話だ」


「えっ?」


「私の母が父に惚れてこの家を捨てたのは真実。私の父の爵位が公爵なのも真実。でもうちは帝国北部の公爵家ではない」


 ジゼルは震える手でグラスを取ると、赤い液体を一口飲んでみた。甘酸っぱい。確かに、クランベリージュースだ。


「お前以外の人間たちの記憶を操作して、私の滞在理由を表向きそんな感じに思い込ませたんだ」


「どうして、そうする必要があるの? それになぜ、私以外、なの?」


「本当のことを知ればみんな混乱するから。お前にだけ真実を告げるのは、私の課題に協力してほしいから」


「課題?」


「まあ、順を追って話せば、私はお前の血のつながった従姉妹で間違いはない」


「そ、そう……」


「私の母は確かにこの家の、この人たちの娘でお前の父親の妹だった。今までお前が私の母の存在を誰からも聞かされなかったのは、母がここを去るときに、父がすべての人たちの母に関する記憶を操作したから」


「お父さまも、魔術師なの?」


「魔術師ではない。父の名はアスタロトだ」


「え? 大悪魔と同じ名前?」


「いや、本人だ」


「ええ?」



「父は地獄の大公爵と言われているアスタロト。人間の母は悪魔の父と恋に落ちて、人間界を捨てたのだ。人間が魔界に棲むとなれば、千年経って悪魔になるまでは二度と人間界へは戻らないという契約書を交わす。だから母は二度と人間界には戻ってこられないが、魔界でのんきに暮らしている」


「ええええ?」


「つまり私は半人半魔なのだ。悪魔としては魔力は弱いが、人間としてならばかなり強い。ただ、今は大きな問題に直面している」


 半人のせいで魔力が弱いこと、なかなか上級にならないこと。


 成人して婿を迎えないといけないが、このままでは魔力が低すぎてろくな嫁ぎ先はないと言われていること。


 師からふたつの課題を人間界でこなしてくるように言われたこと。


 カミーユは何の感情も込めずに、ひとつずつ淡々と説明した。


 すでに説明の途中から頭痛を覚えたジゼルは、ひととおりの説明を聞き終えると両方のこめかみをぐりぐり押しながら考えをまとめた。



「つまり……あなたは半分悪魔で……でも、人間なのか悪魔なのか天使なのか……何に向いているのか資質がまだはっきりしない、ということね?」


「そういうことになる」


 こくり。カミーユがうなずく。


「私は、何をすればいいの?」


「人間界のことは母や師からいろいろと聞いている。しかし、完璧とは言えない。お前には私が人間らしく見えるように手伝ってほしい。その代わり、私がお前の望みをかなえてやろう」


「私の、望み?」


 ジゼルは胸を押さえる。まさか?


「お前は、第一王子の妃になりたいのであろう? 赤毛の支配的な女と桃色髪の腹黒い女を出し抜いて。課題のひとつめは、お前で進めることにする」


「えっ? で、でも、悪魔と契約なんて……その、た、魂をあなたにあげないといけないとか、血文字の契約書とか、交わさないといけないのかしら?」


 ジゼルは青ざめて椅子の背もたれにぴたりと背をつける。カミーユはふんと小さく鼻を鳴らす。


「私は半人前のしかも半魔だ。本格的な契約など結べない。それに私の目的はお前の魂ではなくて、課題を達成することだ」


「あ、はは。なぁるほどね……」


「ちなみに、魔塔主ジネブラは我が師メフィストフェレスの旧友で、困ったことがあれば彼女を訪ねるようにと師から言われている。つまり、彼女と、そしてお前だけが私の正体を知っているということになる」


「そう……」


「それから私もお前の行く第一王子のサロンの新たな一員ということにしておいた」


「えっ? では、これからは一緒に行けるの?」


「そういうことになる。おばあさまが話した事情はほかの人間たちが事実だと思い込むように暗示をかけてある。サロンへは王子に招待を受けたということで」



 

 ジゼルは大きく目を見開いてやっと喜びを表した。身を乗り出して顔を輝かせる。


「なんてすてきなの! お買い物やお茶や徹夜のおしゃべりもしましょうね!」


「は? なぜそんな無駄なことを……」


 カミーユは意味が分からないとばかりに少しだけ眉根を寄せた。


 キラキラと目を輝かせたジゼルは、両手をぐっと握り締めて椅子から立ち上がった。


「そうと決まれば……明日は二週間後の狩猟大会のと、一か月後の舞踏会のためのあなたのドレスを作りに行くわよ!」


「あ? ああ。必要とあらば?」


「私のことはジスと呼んでね。あなたのことはカムと呼ぶわ!」


「はあ……うん……まあ、いいか」




 そういうことで、カミーユの人間界での生活は始まったのである。

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