第52話

「なんだ、次郎。朝っぱらから」


「寝坊だぞ、玻瑠璃! もう日が昇ったのに」


褥の中に座っている玻瑠璃を見て、次郎は両手を腰に当ててあきれ顔で言った。


「お前こそなんだ、もう遊びのお誘いに来たのか?」


「ふん。失礼な。私だって遊んでばかりいるわけではないさ。今日は保胤やすたね先生のところに漢詩を習いに行くのだよ。その前に、兄上からの伝言にきたのだ。うっかり忘れたら、あとで嫌味を言われるからな」


「ふうん。何だって?」


「大内裏から戻ったら一条の若君がたや忠明殿、綱殿とみんなで花見に行くことになったから、出かける用意をして待っていてくれってさ。さっき、式が飛んできたんだけど、玻瑠璃は父上とお話し中だったからって、私が式にたたき起こされたんだ」


「ふぅん。そうか。ありがとうな」


「私も行きたいけれど、保胤先生とはずいぶん前からのお約束だし、その、学問を優先したいから……」


次郎が唇を尖らせてもじもじしながら言った。玻瑠璃はくすっと笑って頬杖をついて次郎を見た。


「ほう、感心だな。だがな、次郎。もしも本当に行きたいなら、私が保胤先生へのお詫びの文を書くのを手伝ってやるぞ?」


「えっ? ほ、ほんとう? う……でも、いや、ダメだよ。漢詩の勉強のほうが……大事だ! 父上には怒られたくないけど、褒められたい!」


自分に言い聞かせるように頭を振る次郎を見て、玻瑠璃はほほえましい気持ちになる。次郎も、出会った頃よりは確実に成長している。


「次郎よ、えらいなぁ。はやりお前は晴明殿のお子なだけあるよ。やらねばならぬことをやり遂げることは大事だからな。誘惑に負けずに意思を通すことは言うは易いがするは難し、だ。お前もきっと、すぐれた陰陽師になるぞ」


「うう……一度断ったら、二度目に誘ってくれると思ったのに……褒められたらもう、勉強をすっぽかすことはできないよ。でもまあ、いいや。保胤先生のお話はどれも面白いから。玻瑠璃も近いうちに保胤先生のところに一緒に行こうよ」


「ああ、ぜひ、次郎」


「それでは兄上からの伝言は伝えたから。玻瑠璃、このところずっと暗い顔ばかりしていたから、ぱぁっと憂さを晴らしてさ、たくさん楽しんできなよ?」


次郎は元気に渡殿を駆けていった。


「あーあ、あんなに走ったら、また花霞にお小言を喰らうのに……」


そう呟くや否や、遠くで花霞が次郎を窘める声がとぎれとぎれに聴こえてきたので、玻瑠璃はぷっと吹き出してしまった。


あまり邸にいることのない次郎が玻瑠璃が悩んでいたことに気づいていたのも、昨夜の玻瑠璃の沈んだ様子を心配した吉平が今朝大内裏で友人たちと急遽花見を計画してくれたのも、二人ともそれぞれに玻瑠璃のことを心配して気遣ってくれてのことだ。



「何を笑っているのさ?」


いつの間にか珠王丸が戻ってきて、きょとんと首をかしげる。


「うん? 今さ、次郎が吉平の式の言伝に来たんだ」


「ああ、なんだか花霞にお小言を喰らっていたな。渡殿を走るなって、いつものやつ」


珠王丸もくすりと笑んだ。


「うん。かわいい奴だな、あいつは」


「うん。長じれば優れた陰陽師になるだろうが、今はただのいたずらっ子だ」


「ああ、そうだな」


「もうすぐ、朝餉を持ってきてくれるって」


「では、支度をするか。珠王、手伝ってくれ」


玻瑠璃は褥から這い出して指をぱちんと鳴らした。すると、褥がひとりでに片付けられて、身支度を整えるための櫛や角田盥や水干がするすると用意され始める。


すでに朝日は昇り始めて、春のやわらかな陽光が廂の板の間に朗らかに降り注ぎ始めて、床にぬくもりを与え始めている。


珠王丸は玻瑠璃の水干を準備した。



花霞が朝餉を運んでやってくる。



玻瑠璃は大きく伸びをした。


今日は絶好のお花見日和であろう。明日明後日には、ほとんどの花が散り落ちてしまうことだろう。



――あんなに落ち着かなかったのに、体中を駆け巡っていた気の激流がまるで嘘のように静まった。



経絡から経絡へ。体中を巡る、膨大な熱い力。



龍の血を引く者。沙竭羅龍王しゃからりゅうおうの血を引く者。


龍族の瞳——灰色の瞳。晴明殿と同じ、灰色の瞳。神泉苑の黄龍とも同じ……



そう言われても、まだ何の自覚もない。



自分でも説明できない何かが近づいてきていることは、なんとなくは感じ取れるけれど……



晴明殿も、鹿島で生まれ万寿殿を知っていると言っていた。


母は鹿島で父と出会い、別れた。


そして玻瑠璃も、鹿島で宿った。



鹿島。



いつか、鹿島に行ってみないといけないと思う。


そうすれば、いくつかの答えが見つかるかもしれない。




(万寿殿にもお会いして、話を聞かねばならない。きっと今ならば、前に話してくれなかったことも話してくれるだろう……)




玻瑠璃は目を閉じる。



微かに、桜のすがすがしい香りが鼻先に届く。



龍族の気。



水脈。




目を閉じると浮かぶのは、播磨の懐かしい海。


神家の海に突き出たつり殿から眺めていた、あの海。


毎日見つめていた懐かしい海でありながら、一日、一刻として同じではなかったあの海。


時には穏やかに、時には獰猛に。


太陽の光を吸い込むと、銀のうろこのようにギラギラと光る紺碧の海。


潮の音、潮の香り。


海の上を吹き抜けて届く風。



手を伸ばせば触れることができそうな、あの懐かしい海。


あの海にも、いつか帰らねば。


鹿島まで続く、あの海にも。



すべては、海から始まっているような気がする。



そう広大な海は、いまや自分の中にはっきりとその存在を確信することができる。


どうしてなのかはわからないけれど……




それが体の中をたぎる、目覚めつつある力のせいなのかは、まだよくわからない。

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