頗梨采女

第50話

「玻瑠璃よ、わかってほしいことはひとつだ。お前の封印は解かれたので、これから力が完全に目覚めるだろう。その力をどう使うかは、お前次第だ。感情に任せて暴走すれば、この世を地獄に化すこともできるだろう。そうなれば、おれにも止められないかもしれないだろうな」



「晴明殿にも?」


「ああ。だから黄龍は、お前に復讐を思いとどまるように諭したのだ。八雲殿とお前の姉のことは残念であったが、あのような小悪党一匹のために暴走するな。お前の復讐を止めなかったのは、まだ力が封じられていたからだ。だが、今は危険だ。せめて力を完全に制御できるようになってからにしてくれ」



体中の血が、逆流しているようだった。



玻瑠璃の体は小刻みに震えていた。頭がぐらぐらして、平衡感覚を失う。心臓が早鐘を打ち、激しく胸を押し上げる。息も絶え絶えになり体が傾くと、ゆらりと青白いオーラが立ち上って大きく揺らいだ。


晴明はそっと玻瑠璃の額に手を翳した。彼がくるりと円を描くように手を動かすと、玻瑠璃の両方の瞼はゆっくりと閉じられた。


昨夜はよく眠れなかったし、すだまになって体を離脱していた疲労感が頂点に達していた。全身の力が抜け、玻瑠璃は晴明の腕の中に崩れ落ちた。



晴明は玻瑠璃を抱きとめると、ため息交じりに静かに言った。


「頗梨采女になれと言うのではない。お前はかの神の生まれ変わりやもしれぬし、そうではないやもしれぬ。だが同じ運命などたどることにはなるな。お前はお前の運命を生きればよい」


玻瑠璃の瞼が細かく痙攣してそして完全に閉じられると、晴明は玻瑠璃を抱え上げてきざはしを上り渡殿を渡って彼女を部屋まで運んだ。そこにはすでに珠王丸と花霞が控えて二人を待っていた。几帳の陰にはすでに、玻瑠璃のための床が用意されている。


晴明はそこに玻瑠璃を寝かしつけると渡殿から朝日を眺めた。



「晴明様……」


珠王丸は不安げに晴明の背を見上げた。晴明は振り返り、宝珠の精に笑んだ。


「お前が心配することはない。賢いし、強い娘だ。しばらくは不安定で戸惑うことも多いだろうが、完全に目覚めても伝えたことは覚えているだろう。お前は玻瑠璃のそばを離れるな。式も何匹か周りに置いておく。何かあった時はいつでも知らせるように」


「はい。それでその、吉平や次郎には……」


「ああ、玻瑠璃が言いたい時に言うだろう。任せておけ」


「はい」


晴明は手をひらひらと振ると肩でゆっくりと息をついた。


「さぁて、花霞。おれもひと眠りするので、用意を頼む。全く……朝寝とは言葉ばかりで、まったく色めいていないのが残念だな」


花霞ははい、と返事をしてその場から姿を消した。晴明はひとり、ゆっくりと渡殿を戻ってゆく。



珠王丸は去り行く晴明の背にこうべを垂れた。晴明の姿が渡殿の角に消えると玻瑠璃の寝ている几帳の陰にふわりと飛んでゆき、眠る玻瑠璃を疲れ切った表情で覗き込んだ。本来ならば精霊なので疲れを感じることはないのだが、一緒にこの世に生まれただけに、玻瑠璃の状態が常に反映されるらしい。


「玻瑠璃よ。何があってもどうなろうとも、私はお前のそばを離れないよ。そしてお前がなんと文句を言おうとも、私の本体が砕け散ろうとも、私は必ずお前のことを守り抜くよ」


珠王丸はそう言い終えると、宙に浮いたまま玻瑠璃の額にそっと手を翳した。そこから、宇宙のような広く深い膨大なエネルギーを感じる。晴明の清らかな心地よい気もひしひしと感じ取れる。


そろそろとそのまま額に触れると、宝珠の精の冷たい手が気持ちいいのか、玻瑠璃がふわりと寝顔に笑みを浮かべた。






―――夢の中。




玻瑠璃は播磨の生まれ育った懐かしい神家にいる。


かつてお気に入りだった、紅梅かさねの小袿を着ている。


彼女のほかには、誰の気配もしない。庭にあるおしゃべりな紅梅と白梅も、沈黙を保っている。


「おばば殿? 姉さま、どこにおられる?」


玻瑠璃は首をかしげる。


珠王丸さえも気配がない。古く広い見慣れた邸に、玻瑠璃はたったひとりきり。



「!」


不意に彼女の目の前を、黒く細い陰が横切ってゆく。


「待て!」


玻瑠璃はすぐにその影のあとを追う。走って、寝殿の祭壇の前まで夢中で追いかける。


陰を見失った先に懐かしい姿を見つけ、玻瑠璃は驚きと嬉しさで息をのむ。



「おじじ殿!」


祭壇の前に座して玻瑠璃を迎えたのは、数年前に亡くなった祖父・当麻忠顕であった。


ちぃや……」


昔とたがわぬ優しい声音で、祖父は彼女の幼名を呼んだ。


まるで飼い主を見つけた子犬のように、玻瑠璃は転げんばかりに老人の膝に飛びついて、そのごつごつした大きな手をしっかと握りしめた。


「おじじ殿!」


生前そのままの、あたたかなぬくもりに次第に涙が込み上げてきた。玻瑠璃はそのまま祖父の膝に突っ伏して、幼子のようにわんわんと泣いた。


「おお、おぉう、つらかったのぅ。小や、そばにいてやれなんだが、よう頑張った」


「おじじ殿、おじじ殿……おばば殿も姉さまも梅の木たちも、みんなみんな殺されて……私は一人ぼっちになってしまったよ」


祖父はしゃくりあげながらつぶやく玻瑠璃の頭を優しくなでながら、穏やかな口調で言った。

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