水鏡

第48話

春の朝らけ。



蒼い闇が徐々に薄まって、やがて薄紅にはんなりと染まってゆく。


朝日よりも早く牛車が車宿りに着くと、昨夜から眠れずに気もそぞろな玻瑠璃が夜勤明けの晴明を出迎えた。


花霞は玻瑠璃の顔を見て何かしら勘付いたらしく、晴明の着替えを手伝うとすぐに下がって行った。



晴明は大きな目の下にくっきりと黒いクマを作った玻瑠璃の思いつめた表情を見るなり、気の毒になってつい苦笑を浮かべた。そんなに悩んでいるならば、もう少し早く話してやるべきだったかとすまない気持ちになった。


彼は玻瑠璃を寝殿の南廂に招いた。招きはしたが、あけぼのの空をじっと眺めたまま何も言わずに佇んでいる。


玻瑠璃は廂に座り、朝日を浴びながらじっとその背中を見つめている。初めて会って時のように、彼の思念はひつつも読めやしない。



「——ついておいで」


晴明は振り返らないまま、独り言のようにそう言って階から庭に降り立った。式神か何かにつぶやいたのだろうかときょとんとする玻瑠璃を振り返り、晴明は穏やかな笑みをその美しいかんばせに浮かべた。


「どうした、何を固まっている? お前の知りたいことを、教えてやるぞ」


玻瑠璃ははっと我に返り、慌てて彼の後ろに付き従った。




晴明は軽い足取りで庭の東の隅のほうへ向かう。


そこには泉が滾々と湧き出ていて、それは遣り水として邸の周囲をなぞるように流れ、南庭の池に注いでいる。


晴明はその源泉に屈みこむと、そっと指先を清らかな冷水に浸した。


「我が家のこの泉は、昔からこうしてここで湧き出ていたわけではない。おれがこの邸を拝領した時に勧請したもので、水脈を通してあらゆる場所に通じているのだ」


「水脈?」


「ああ。そうさな。たとえば、近江の鳰海におのうみ(琵琶湖)。貴船に鴨川、桂川。深泥池みぞろがいけ、神泉苑、広沢池、巨椋おぐら池。遠くは摂津に播磨、熊野、富士、那須に鹿島にまで……まあ、水があればどこへ出の通じている、というところか」


「播磨?」


「ああ。みわ家にも通じているぞ」


「……」


水を救い上げながら淡々と語る晴明の言葉に、玻瑠璃は以前、珠王丸から聞いたことを思い浮かべてなるほどとうなずいた。


安倍家の下には、水脈が通っている。だから、龍が通るのも何の不思議もない。



「この泉に朝一番にこうして手を浸すことは、おれの毎朝の習慣だ。夏でも真冬でも、いつでもな。こうすることで、いつどこで何が起きているのかあるいは起きそうなのか、あらゆる報告を受けることができるのだ」


彼は泉から手を上げると懐紙で拭い、立ち上がって玻瑠璃を振り返った。


「——昨夜、神泉苑の黄龍こうりょうがお前に教えてやらなかったことなのだが」


「えっ? なぜそれを……あ、今、その泉から?」


「いや、大内裏にも水は流れているからな。昨夜のうちに知っていた」


玻瑠璃は少しの驚きのあとに、ため息とともに苦笑を浮かべた。


「なんだ、すべてお見通しというわけか……」


晴明は微笑んだ。


「お前の知りたがっていることだが、みながもうそろそろ明かしてやれとあちこちでうるさくてな。今朝も黄龍が念押ししてきた」


「は」


玻瑠璃はかすかに皮肉な笑みを浮かべた。


「まあそう苛立つな。お前の疑問に答えるからには、まずはお前が生まれる少し前のことから話さねばなるまいな」


「それは鹿島でのことですか?」


「そうだ。今から十四、五年ほど前にな。常陸の国の鹿島の宮に、稀にみるほど優れた神力を持つ娘が巫女として仕えていた。名を水鏡と言ってな。神家の娘で、たぶん母の八雲殿よりも強い神力だった」


「おばば殿よりも?」


玻瑠璃は驚き呆れて目を丸くする。


「ああ。なんでも、夢の中にタケミカヅチ命が現れて、我に仕えよと命じたから鹿島に奉仕することにしたと、本人が言っていた。跡取りには姉がいたので、八雲殿は水鏡の意思を尊重してやったらしい。だが一年も経たぬうちに娘は子を孕み播磨に戻ってきた」


「私を?」


「そう。お前を。知っての通り、神家の娘はどんな男を夫に選んでも反対されることはない。だが水鏡は決して腹の中の子の父を明かそうとはしなかった」


「なぜ……?」


「手に宝珠を握りしめて生まれた子を見て、八雲殿も当麻殿も大変驚いた。もしや、子の父は人外の者やもしれぬと」


「……」


晴明はやわらかな春の明け空を背後にあわい笑みを浮かべた。


「お前の母が鹿島でお前の父に会ったことは明らかだ。だが水鏡は自分の親にさえ相手の素性を明かさない。そのうえお前は手に宝珠を握って、しかも灰色の瞳で生まれてきた。当麻殿はおれが子の父かと思ったようだが、おれは身に覚えがないのでな」


「たいていの者は……疑うでしょう」


玻瑠璃は唇を尖らせて晴明を見上げた。


晴明は空を仰いではははと笑う。


「おれでないなら、たとえばタケミカヅチ命とかも考えたらしい」


「まさか! それこそありえない!」


「ふん。当時の俺は大陸から戻って二、三年ほど経ったばかりのころで、吉平がやっと一つか二つになるかならないかの頃だった。ある夜、おれの夢の中に青帝青龍王せいていせいりゅうおうが現れて、厳かに告げた。鹿島にて、強い神力を持つ巫女の腹に沙竭羅龍王しゃからりゅうおうの血を引く者が宿ったと」


「———は?」


「まぁ、聞け。それでおれは急ぎ鹿島へ向かった。お前の母を見つけることは簡単だった。水脈が教えてくれたからな」


「……」


玻瑠璃は呆然として晴明を見つめた。

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