花宵 2

第44話

この寺には普通の鐘とは明らかに違う点があった。


弘法大師空海の師である慶俊という僧が、この寺の鐘を地中に埋めて呪をかけた。


優れた真言を操る彼は、自分が唐に留学している間、埋めてある鐘を決して掘り出してはならないと弟子たちに言い残しておいた。しかし、どんなすごい鐘が埋められているのかゆかしがった弟子たちが、待ちきれず師の言いつけを破って、彼の帰国を待たずに鐘を掘り出してしまった。


その鐘はいてみるとどういうことか、ガラガラという奇妙な音しかしない。もしも十分な期間を経て正しく掘りだせば、定刻ごとに自ら鳴り響く、手間いらずの自動制御オートマティックの鐘になるはずだったのだ。


この鐘の収まる小さな鐘堂が、実はこれもまたあの世とこの世の出入り口となっている。このような出入り口は巨大な魔方陣である京の都の中には数か所あって、他にも化野あだしのの寺や一条戻り橋のたもと、朱雀門や羅城門もそれにあたる。


今宵、野相の気配はこの鐘堂のあたりに感じられた。



玻瑠璃は鐘堂の前に舞い降りて辺りを見回すと、大声を張り上げた。



――おぉい、野相よ。みわの玻瑠璃が用があってお前に会いに来た!



辺りはしん、と静まり返っている。



――野相! いないのか?



返事はない。


時折、青白い人魂がぼうっと発光してふらふらと横切ってゆく以外は、ほかのあやかしの気配すらしない。玻瑠璃は唇を尖らせた。



――なぁんだ、つまらん。



玻瑠璃が鐘堂にくるりと背を向けると、すぐ後ろに立っていた野相公の胸のあたりに鼻先を押しつぶされ、思わずよろめいた。



――わっ?






野相公は玻瑠璃の両腕をつかんで支えながらにやりと笑んだ。


「何か用か? 小さいの」


玻瑠璃は彼を見上げた。



――なんだ、呼んだ時に出てこないで?



「ふむ。呼ばれたので仕事を途中にして、あの世から来てやったが……なんだ? お前」


野相公は全身が葡萄色のグラデーションで半透明になっている玻瑠璃を見下ろした。


「お前こそなんだ、今宵は普通に袿など着て。大方の察しはつくが、すだまになぞなってふらついていると、元の姿に戻れなくなるぞ?」



――ふん。言われなくともわかってるさ。そんなことよりも、おしえてほしいのだ。あの龍が来て雷を落とした時から、自分が自分ではないように落ち着かなくて仕方がないのだ。何かはわからないが、体の底からもの凄い気が湧き出てきて、それが全身を駆け巡って暴れるみたいなのだ。晴明殿はこのところ滅多に家にいないほど多忙なようで、訊きたくとも訊けないし。お前なら何か知るかと思って訊きに来た。



「あぁあ」


野相公は玻瑠璃の頭上に手を翳して目を閉じた。


ゆらり、あやかしと玻瑠璃の気が溶け合って、陽炎のように闇の中に揺らめく。


「確かに。お前の気はかなりすさまじくなってきたな。慣れてくれば制御できるようになるだろうが……ふむ。ちょっと、ついて来い」


彼はふわりと宙に浮きあがり、玻瑠璃を振り返ると顎で合図した。


玻瑠璃は頷いて、かみのほうへ飛んでゆく野相公のあとを追った。




――お前まさか、晴明殿のもとへ私を連れてゆくのではあるまいな?



いぶかしむ玻瑠璃を振り返り、野相公は天を仰いで笑い飛ばす。


「そんな姿のお前を連れていけば、俺もとばっちりを食らうだろうが。晴明以外に、今あってみたいと思う奴がほかにもいるだろう?」


彼は大内裏の東南のうっそうと茂る黒い森の、黒曜石の鏡面のような巨大な池めがけて降下した。



――ん? ここは……神泉苑じゃないか?



「いかにも」


かつて都が造営されるまでは大湿原であったところを整備する際に、どうしても埋め立てられなかった湿地帯。


神龍の棲む大池があり、その周辺にはうっそうとした森が広がる。そこは「禁苑」(天皇の庭園)として、鷹狩や還元の宴を開く都会のオアシスとなった。それだけでなく、都を干ばつが襲えば、陰陽師や有験うげんの僧たちが雨乞いの儀式を行うこともある。


ある時は弘法大師空海が東寺の有験の僧として、西寺の僧守敏しゅびんと雨乞いの法力争いをしたのもこの神泉苑だった。彼は見事雨を降らせることに成功して勝負に勝った。


ここにはつい最近まで牛や馬が放牧されていたところもあったが、今は家畜はいないようだ。



二人は大池に突き出た大きな一枚岩の上に立っている。池の水面は下弦の月明かりを映し出して、銀色に煌めき揺らいでいる。


今が盛りの里桜は絢爛に咲き誇り、うら昏い紺青の闇に青白く発光するように浮かび上がり、あたりを柔らかく照らし出している。



「あの唱聞師からお前を助けたのは、ここの主よ」



――は?



「ここに棲む黄龍こうりょうだ」



――ああ。覚えているよ。礼を言わねばならないと思っていたところだった。きっと巨椋池おぐらいけ雨龍あまりょうにでも私のことを頼まれていて、それで助けてくれたのだろうけど



「ほう。巨椋の雨龍とはまた懐かしい。奴を知っているならば話は早いな。では、呼ぶぞ」




野相公は池に向かって詩を吟じるかのように、澄んだ声を張り上げた。


「龍王黄伯よ。出でよ。お待ちかねの客人を連れてきたぞ」


彼の言葉が水面に微かな細かい波紋を作る。映りこんだ銀の月がゆらゆらと乱れ、池の中心に大きな渦が生まれたかと思うと、やがてそれは水面の月光をすべて吸い込むと渦の中心に光の柱を生み出した。



――あっ



光の柱はやがて人間の背丈の高さまで縮まって、徐々に人の形になった。



ひとりの細身の若い男が現れた。

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