花宵 1

第43話

桜の花が、下弦の月の鈍い銀の光の下で満開に咲き誇っている。




寒さが緩み始めた穏やかな春の宵。


枝々はすこし重たげに、心持ちうつむき加減で恥じらう乙女のごとく月の光を浴びている。夜風にゆらぎ、はらはらと脆くこぼれては銀の光を反射させてきらきらと青白く輝いて見える。夜桜は昼の可憐さなどみじんも見せず、妖しげな色香を放っている。


脇息にもたれたまま、玻瑠璃は転寝をしている。夕餉のあとの満たされたまどろみ。


ついうとうとと首が揺れ始めてがくりと大きく前のめりになった瞬間、彼女は息を飲み込んで状態を素早く起こした。するとなにかに引っ張り上げられるような妙な感じがして、ふわりと体が宙に浮きあがった。




――あっ




彼女は、脇息に寄りかかって眠る自分を天井近くから見下ろした。


珠王丸に持ち上げられている時のような自然な重力は、全く感じない。ただただ身は軽く、なんの抵抗も感じない。まじまじと自分の両手を見つめてみる。彼女は半透明の葡萄色をしていた。




――しまった。また生きすだまになってしまったのか。




玻瑠璃はため息をついた。



ひらひら、ちらちらと桜の花びらが銀のうろこのごとく、うたた寝の玻瑠璃の髪に、袿の肩に袖に散り降りてくる。


体の中に戻ろうと近づいてみたが、透過するだけで戻ることができない。何度かあらゆる角度から試してみたものの、何をしても戻れない。途方に暮れて自分の頭上をくるくる回っているときに、彼女ははっと目を見開いて柏手を打った。




――そうだ。せっかくだから野相公に会いに行ってみよう。ちょうど訊ねたいことがあったしな。




水の中を泳ぐ魚のように、彼女は自分の部屋を抜け出して空高く上がった。


「あっ! ちょ、ちょっと! 玻瑠璃? そんな姿でどこへ?」


玻瑠璃の夕餉の膳を下げに行った珠王丸がちょうど戻ってきて、部屋を飛び出す生き霊の玻瑠璃を見て驚いて叫んだ。空高く舞い上がろうとした玻瑠璃は、軒の高さで舌打ちして振り返った。しまった。こいつを宝珠の中に閉じ込めておくべきだった。




――ちょっと、野相に会いに行ってくる。




「それでは、私も行くよ」




――いや、お前には私の体を見張っていてほしい。




「この邸にいる限り、妙なものは入り込めないから見張る必要はないじゃないか?」


玻瑠璃は首を横に振り、左手を前に突き出して拒否した。




――いいや。ついてこないでくれ。お前には聞かれたくないことを訊きに行くのだ。




「私はお前の分身ではないか。なにを聞かれたくないなど……」




――お前だって、私に話していないことがたくさんあるだろう? 私にだってあるのだ。




玻瑠璃の冷ややかな拒絶に、珠王丸はうつむいて言葉を失った。彼女は、間違ってはいない。



玻瑠璃は自分の両てのひらをじっと見つめる。




――あの日、あの唱聞師とにらみ合って……実は殺されるかもしれないと感じていたんだ。それが吉平が目の前で弾き飛ばされたのを見てカッと頭に血が上って……額が焼け付くように熱くて頭が割れるような激しい痛みを感じて……気が付いたときには目の前に龍が立ちはだかって、あいつの頭上に雷を落としていた。あの時からずっと、この身をびり貫いて流れ巡りみなぎり渡る、今までに感じたことのない強く激しい気を感じるんだ。私の意思とは関係なく、何かが、荒波のように押し寄せては私の心を乱している。私はこの正体を知りたいのに、晴明殿もお前も、何も教えてはくれない。




「でも……」


何かを言いかけた珠王丸は、油断している隙に刀印を結んだ玻瑠璃によって、本体の宝珠の中に封じ込められてしまった。




――ふうん。生き霊になっていても、珠王を封じ込めることはできるのだな。




不敵な笑みを唇の端に浮かべると、玻瑠璃はふうわりと花月夜の紺色の空へと飛び立った。






全力で走っている時よりも速いスピードで、玻瑠璃は屋根屋根を見下ろして鳥のように飛んでゆく。大きな貴族の邸宅の庭には、ぼんやりと淡く満開の桜が浮かび上がって見える。




目指すは、六道珍皇寺。



墓地で火葬場の鳥辺野とりべのへと続く、あの世とこの世の境目の、六道の辻にある。「六道」とは仏教でいう、ひとがさまよい巡る六つの世界のことだ。生前から地獄で閻魔大王の冥官として働いていたと言われる小野篁おののたかむら公——野相公にとっては、なじみの深い場所である。


彼は昼は役人として朝廷に仕え、夜は珍皇寺の井戸から冥界に下って閻魔大王の死人の罪状定めの補佐を務めていた。鬼籍に入り朝廷の役人ではなくなった百数十年後の今でさえ、冥官としての仕事は続けている。


朝廷では参議(宰相)まで上り、そのため小野宰相——野相公と呼ばれる。


小野篁という男は、一筋縄ではいかない我が道を行く男だった。


遣唐使に任命されたとき、上官がそりの合わない人物であったため、口論して仮病を使って遣唐船に乗らず職務放棄し、天皇の逆鱗に触れ官位剥奪の上に島流しにされたこともあった。


無鉄砲な愚か者と思いきや優美な風流人で書の腕前は後世の人々が手本とするほどであり、詩歌、特に漢詩の才能は秀逸で「ひのもとの白楽天」としてかの菅公(菅原道真)と並び称される。武術にも長けていた。男性の平均身長が百六十センチほどの時代において、彼は百九十センチ近い長身の美丈夫だった。彼の孫のひとりに、美女として名高い小野小町と呼ばれる歌人がいる。


気性は激しく、それは切れ長の涼し気な目の眼光の鋭さに現れていた。意に染まぬことには従わない。好き嫌いがはっきりしていてやりたくないことは絶対にしない。そのため、「野狂」という二つ名も持つ。



野相公は生前から、昼の仕事を終えると六道珍皇寺の境内にある井戸を通って地獄へ下り、夜は閻魔大王のもとで働いていると言われていた。確かに、この井戸は冥界に通じていた。しかし大柄な彼にとって井戸からの出入りは多少窮屈であった。だから彼はもっぱら鐘堂を出入り口として使っていた。

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