離
第42話
「それはそのまま
晴明は隆世を振り返った。
その時、ひとりの若い女が薄闇の中から走り寄ってきて、地面に倒れる唱聞師に取りすがった。
「兄さまっ!」
その声を聴いて、玻瑠璃は涙にぬれた顔を上げた。信じられないというように眉根を寄せ、声の主を見てから晴明を振り返って言った。
「なぜですか? 小夜香の記憶は消したはずなのに、なぜあの唱聞師のことを覚えているのです?」
それには晴明が苦笑して答えた。
「ああ、だが余程念が深いのであろう。結局、ひとの記憶を都合の良い部分だけ消し去るということはできないということなのかな」
隆世は妹の声を聴いて意識を取り戻し、自分に取りすがって泣いている小夜香を見て驚いた。
「小……夜香……? お、まえ、いまま……で、どこ、に……?」
小夜香は兄の上半身を抱きかかえ、晴明を仰いで懸命に命乞いをした。
「お願いでございます! 晴明様、どうか……兄を、隆世をお許しください! 代わりにわたくしが罰を受けます。この命も捧げます。私には幼い時より、この兄しかいないのです……!」
晴明は取り乱す小夜香をそっと引きはがして、隆世の上に屈みこんで淡々と言った。
「相手が、な。悪かったのだ、紀隆世よ。小娘だと侮りすぎたな。確かに、あれの力はまだ半分も目覚めてはいない。だが、お前に一撃をくらわせたものの姿を見たのだろう? ああいうものを召喚することのできる娘なのだ。完全に目覚めれば、自らの意思で自在に操るだろうな。もしももう少しでも怒らせていたら、お前の命はなかっただろう」
晴明の気に震えの止まらない隆世は、その話の内容を聞いて瞳に怯えを浮かべた。
「なのでな。都での悪さはこのくらいにしておいて、ただちに播磨へ帰るのだ。そしてもう二度と、あのような品性のかけらもない下衆にかかわらず、自らの欲望のために外法を操るのではなく、民に役立つような呪い師としてまっとうに生きよ。もしそれができないと申すのであれば、ここでおれが息の根を止めてやってもよいし、あれあそこにいる退屈そうな鬼に食われてもいいだろうよ」
野相公は横目でじろりと晴明を睨み、「そんなまずそうな奴喰わん」と呟いた。
隆世は胸を抑えて苦し気に息をつき、痛みに耐えながら晴明に問う。
「あの娘は……一体……? あなたの子……なのか?」
晴明は呆れ顔で苦笑する。
「やれやれ、皆同じことを言う。先ほど、神泉苑の黄龍が飛来したのはあの娘の危機を察したからだ。龍が助けに来る、そういう娘なのだ。お前ごときが害を加えることはできぬな」
ため息をつく晴明の傍らに歩み寄った玻瑠璃は、まだ涙にぬれる瞳で隆世を冷ややかに見降ろした。
「お前が黄龍に裂かれて死んでいたら、私が反魂で黄泉返らせてお前をこき使ってやったのに」
隆世は弱々しい苦笑を浮かべた。
「は……それは、ざん、ねん、であった……な」
彼らの背後では野相公がぽん、と手を打った。
「さぁぁ、もうつまらぬ。俺は帰るとしよう!」
そう言い残すと一陣の風のごとくたちまちのうちに青い闇の中に消えていった。
野相公が消えたあたりの闇に、玻瑠璃は無言のまま目礼した。
晴明は地面に落ちていた馬の形に切り抜かれた半紙を拾い上げると、呪を唱えて手のひらの上でふうと息を吹きかけて飛ばした。それはひらひらと宙を舞い地面に着くと、一頭の葦毛の馬に変化した。
「小夜香よ、兄を連れて播磨に戻りなさい。この馬を使うとよい」
晴明は馬の手綱を小夜香の手に握らせた。そして指をぱちりと鳴らすと、玻瑠璃の懐から珠王丸が姿を現した。
「珠王丸よ、この男を馬の背に乗せてくれ」
「はい。晴明様」
宝珠の精は素直に頷くと、宙にふわふわと浮いたまま隆世を持ち上げて馬の背に乗せた。
「お礼のしようがございません。ほんとうに、心から感謝いたします」
小夜香は涙を流しながら何度も何度も頭を下げると、晴明がひらひらと手を振ったのを合図に兄を乗せた馬の手綱を引いて、夕闇の中街道を下って行った。
「ああ、やれやれ、こちらも仕方がないな……」
晴明は懐から半紙と小刀を取り出して、何やら器用な手つきで切り取り始める。完成したものを手のひらに載せ、先ほどと同様にふうと息を吹きかけて飛ばした。
ひらひらと青闇の中に舞った半紙は、地面に着いて牛が引く網代車に変わった。ご丁寧に、牛飼い童までついているがそれは晴明の式神の一匹らしい。
まるで幼子を抱きかかえるように玻瑠璃を持ち上げた晴明は、彼女を牛車に乗せた。そして気を失って倒れたままの吉平も同様にしてから、自らも乗り込んだ。
「あの二人……もう悪事は働かなくなるだろうか」
膝を抱えてうつむいている玻瑠璃のつぶやきに、吉平に膝枕をした晴明は微かにうなずいた。
「ああ。本人に断りを入れなかったが、ついでにあの男の邪気を人並みにまで抜いておいた。名を変えて
「私は……大きな間違いを犯すところでした。怒りに任せて、小夜香のたった一人のゆかりの者を殺さずに済んでよかった。それに晴明殿のおかげで、
玻瑠璃は二つ折りにした半紙に包んでいる美月の遺髪を、いとおしそうに見つめた。
「これを遺してもらえたから……私は復讐の妄念にとらわれずに、穏やかな気持ちでいられるのです」
晴明は穏やかな笑みを口元に浮かべた。
牛車は少しも揺れることはない。地面の上を動いている気配もない。振動という振動が、まったく伝わってこない。
立待の月陰、朱雀大路を幻のように音もなく上る牛車を、銀色の月の明かりが穏やかに照らしていた。
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