覚醒
第41話
鬼の視線は、地上の小柄な少女にくぎ付けになっている。
玻瑠璃の額の中心が白く発光している。彼女の灰色の瞳はいまや
「——これはまずいな。そろそろ遊びは終わりにしておいたほうがよさそうだ」
隆世の声は先ほどまでの余裕が消え、得体のしれない恐怖に昂って上ずっている。彼は自らの体から放出している気を右手の先に集中させて、刀身が二尺(六十センチ)ほどの太刀の形にした。そしてそれを力任せに玻瑠璃に向かって投げつけた。
ご神剣を抜いて構える玻瑠璃に向かって隆世の気の太刀が飛んでくる。
その時、突如大きな雷鳴が鳴り響き、瞬きするかしないかのうちに分厚い黒雲を千々に切り裂いて一匹の巨大な
「ああっ?」
霧散した気の剣を見て驚きの声を上げた隆世のことなどまるでお構いなしに、黄龍は白金の七光する鱗を優雅にくねらせて天に向かってゆく。
楼上の野相公の鼻先三寸をヒゲの先端がかすめて行って、彼はひゅう、と口笛を吹いた。
天空を裂く、鋭い咆哮。大地に反射して振動を起こす。
いきなり飛来した天の遣いに隆世が怯んだ刹那、黄龍の巨体の陰で印を結んでいた玻瑠璃が両手を天に突き出した。
一筋の落雷が、隆世の体を貫いた。
「ぎゃああああああぁぁぁぁぁぁっっっ!」
野相公はにやりとほくそ笑んだ。
「おやおや。思わぬ状況で、力が目覚めてきたようだ。
隆世の体からは白い煙が立ち上り、肉の焦げた匂いがむわんと漂う。彼はがくりと地面に膝を折った。
黄龍は用事が済んだとばかりに、悠然とらせん状に身をくねらせて天に昇って黒雲の合間に姿を消して行った。
空気の鳴動が轟々と響いて地に細かな振動を起こしている。
野相公は楼上からふわりと音もなく地に降り立って、地に倒れた隆世を身を屈めて覗き込んだ。彼は体中の骨という骨が砕けたような激痛に呻き、もはや反撃するための気力も体力も使い果たしていた。
空一面に立ち込めていた隅のような黒雲は、黄龍と共にすっかり消え失せていた。本来のこの時刻の色である、薄色(紫系)の階調の空が穏やかに広がっている。
玻瑠璃はご神剣を右手に握り締めたまま、呆然と立ち尽くしていた。彼女の髪も瞳の色も元に戻っている。頬や額、手足のあちこちには、隆世の術で切り付けられた傷が無数に滲んでいる。
逢魔が時の薄い翳りの中で……
静寂の中、風の立てるかすかなかすれた音だけが聞こえる。
野相公は歌でも歌うような楽し気な口調で玻瑠璃を振り返って言う。
「おい、どうした? 玻瑠璃よ、こいつにとどめは刺さないのか? 姉を呪い殺した憎き相手であろう?」
彼は隆世の肩に足をかけてあおむけに蹴り返す。
「……」
玻瑠璃ははっと我に返り、ご神剣を握りなおして躊躇う。隆世を殺せば祖母と姉の直接の仇を討つことができる。きっと今ならば容易にそうできる。
しかし……祖母も美月も、すでに亡く、仇を討ったとて喜んで感謝してくれるわけではない。そのうえ、今度は小夜香がたった一人の肉親を失うことになるのだ。
「玻瑠璃!」
葦毛の馬を駆り、やっと晴明が到着した。彼がひらりと飛び降りると、その馬も先ほどの吉平の馬同様に馬の形の半紙に戻って地面にひらりと落ちた。
「おお晴明よ、ずいぶんのんびり来たじゃないか」
野相公があきれ顔で小首をかしげる。
「たわけ。おれは貴船にいたのだ。今そこで神泉苑の黄龍とすれ違ったのだが、まさか奴はここに来ていたのか?」
「ああ、そのまさかさ。呼んでもいないようなのに、この娘の助っ人にむこうのほうから勝手にやってきたようだったな。それでこのへたばっている唱聞師に一発くらわして、それで気が済んだのかあっさり帰って行ったな」
肩をすくめる野相公を一瞥し、晴明は倒れている吉平にまずは歩み寄る。
首筋に二本の指をあてて規則正しい脈拍を確かめると安堵のため息をついて、彼は野相公を振り返った。
「吉平は玻瑠璃を助けようとしてあっさりこうなったわけか。やれやれ。それで……」
晴明は吉平をその場に置いたまま、ゆっくりと玻瑠璃に歩み寄った。
「……」
ひんやりとした大きな手にそっと腕を掴まれ、ご神体の剣を右手から抜き取られると、玻瑠璃は大きく深く呼吸をして目を閉じた。
「——つかれ、た」
かすれた声でぽつりとつぶやく少女の、解けてばらばらに乱れたやわらかな髪をそっと優しく撫でつけて、晴明は目を細めてうなずいた。
「うん。疲れたな」
玻瑠璃はその優しい声色に安堵して、晴明の胸に額を預けた。大きな手に頭を撫でられていると、父親とはこのようなものかとくすぐったい気持ちになる。
「それで……
晴明は倒れている隆世に無関心な視線を投げる。
「ああ。神龍にのされて失心しているがな」
野相公が肩をすくめながら答える。
晴明は微かにうなずいてから玻瑠璃に静かに話しかけた。
「さあて。片づけるとしようか?」
彼はそっと玻瑠璃から離れると、印を結んで呪を唱え始めた。するとすぐに、羅城門の陰から夕闇の中に一人の女の姿が浮かび上がった。そのたよりなげな影は、静かにゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。
「あ……ね、ねえ……さ、ま……」
その影の正体に気づいた玻瑠璃は、とっさにそれに駆け寄った。美月だ。正確には、
「姉さま、姉さま? 玻瑠璃だ、玻瑠璃だよ。ねぇ、お願いだ、こちらを見てよ……」
しかし、美月は何の反応も示さない。かつては感情が豊かに現れていた黒い大きな瞳は生気が失せてぼんやりと泥水のように淀んでいて、どこを見ているのかわからない。玻瑠璃は姉を抱きしめ、赤子のように大泣きする。
「どうして? どうして何も言ってくれないの?」
いくら抱きしめても、彼女の鼓動は聞こえないし、体もひんやりとして体温が感じられない。
「この者はもはや、お前の姉ではない……鬼なのだ」
「ならば、野相のようになることはできないのですか?」
「ああなるにはいくら巫覡の血を引く家の娘でも、歳月も魔力も足りぬな。それに、そうなってこの世にとどめることは、お前の仇がしていることと何が違うのだ?」
「……」
玻瑠璃はうつむいてぐっと歯を食いしばる。絞り出したように、両目から涙がほろほろと滴り落ちた。
「呪術でこの世に縛られたままでいるが、この娘はすでに陰府(あの世)の住人なのだ。もとに戻してやらねばな?」
晴明はそう言って、再び呪を唱えだす。
「あ。ああ……」
玻瑠璃が抱きしめていた華奢な体はだんだんと掠れていった。薄まって頼りなくなり、まるで砂のようにさらさらと風にさらわれて消えていった。
「あぁ……ねえさま……」
大粒の涙が流れ続ける灰色の瞳をしっかりと見開いて美月が消えるさまを見つめ続けた玻瑠璃は、へたりとその場に崩れ落ちた。彼女の膝の上に、どこからともなく現れたひとふさの遺髪がぽとりと落ちてきた。
おそらくはそれが、反魂の術をかけられていた本体なのだろう。
震える手で遺髪をそっと救い上げると、玻瑠璃はそれを胸に押抱いてむせび泣いた。
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