逢魔が時

第40話

西の対の吉平のもとへ、小夜香が渡ってきて不安げな様子で訊いた。



「あの……吉平さま。玻瑠璃さまはもしやこちらにお見えでしょうか?」


吉平は次郎の文読みに付き合っていたところで、首を横に振った。


「え? 昼から一度も見かけていないけど……いつからいないの?」


「はい。もう三刻(六時間)ほど、お見掛けしていないのですが……」


「それはずいぶん経つね。花霞も知らないって?」


「はい。花霞さまもお見掛けしていないらしくて。殿はまだお戻りではないですし……どなたもご存じないとすれば、何かあったのかもしれません」


「うーん。何か物珍しいところでも見つけて、時間を忘れているのかな。珠王丸が一緒だから、心配ないとは思うけど……」


「それが、珠王丸さまとも口げんかされているご様子でしたので、たぶん宝珠の中に封じ込められたままのはずです」


「ああ……それなら、心配だな。探しに行かないと」


吉平が円座わろうだから立ち上がったとき、まだ降ろしていなかった格子のむこうの渡殿の欄干に、一羽の紫色のカラスが止まって吉平に向かって言葉を発した。


「おいちび太郎。羅城門だ。早く行って時間稼ぎをしろよ。あいつ、例の唱聞師と龍虎のにらみ合いの最中だぞ。いまの封印されたままのあの娘の力では唱聞師には到底かなうまい。俺は晴明に知らせてくるから、お前はすぐに向かうんだ」


カラスは両方の翼をばたつかせて、野相公の声でぎゃあぎゃあと叫んだ。声音は次第にいら立ちを帯びてくる。


「早く行けと言うのに! くそっ、ここの結界は相変わらずキツいな。ちび、西の中門の前に馬を用意したからそれで行けよ。普通の馬の何倍も速いぞ」



カァァァァ! と叫ぶと、カラスは暮れなずんできた空へと飛び立っていった。






「……」


口を開けたまま固まっている吉平の袖を、次郎が立ちあがって鷲掴みにして激しく揺さぶった。


「なにしてるんだよ兄上っ! なんかよくわからないけど、玻瑠璃が危ないみたいだ、早くあのカラスの言うとおりにして!」



がくがくと揺さぶられて我に返った吉平は、庭に飛び降りて草履を履くと不安げな表情の次郎と小夜香を一度振り返ってから中門へ向かった。


そこにははたしてカラスの言う通り葦毛の大きな馬が一頭、鞍と手綱をつけて待っていた。全身から白いオーラを放っている。なるほど、式神が変化したようなものの一種であるようだ。


馬など乗ったこともない吉平は、勢いと半ばやけくそで綱が馬に乗っていた時のことを思い出しながら見よう見まねで馬の背に飛び乗って手綱を握った。


「あっ……うわぁぁぁぁぁっ!」


吉平がまだ腹を蹴らないうちに、馬は勝手に走り出した。驚いた吉平は必死に黄色いたてがみをぎゅっと掴んで目を閉じ、必死にしがみついた。


なるほど、野相公の言うように馬は通常では考えられない速さで朱雀大路を下ってゆく。しかも、全速力なのに背に乗っている吉平には何の振動も感じられない。それどころか、地面を蹴っているはずの蹄の音さえ聞こえない。


こわごわと薄目を開けてみて、吉平は驚愕の悲鳴をはっと飲み込んだ。


彼と彼を乗せた葦毛の馬は、大路を行く人々や牛車などあらゆるものにぶつかるどころかすべてを通り抜けて、一陣の風のごとく飛ぶように走っているのだ。馬と自分の体が半透明になっていることは驚くほかない。


鬼のあやかしの術なのか……とにかく、人のなせる業ではないようだ。





おどろおどろしい灰色の雲が羅城門の上に立ち込める。



暮れなずむ空は蓋をかぶせられたように真っ暗に翳ってしまい、そこだけが異世界のようだ。




若い唱聞師しょうもじは自らの気を鞭のようにうねらせて、ぴしり、ぴしりと地面を叩きつけながら玻瑠璃の体を切り裂くタイミングを狙っている。


先ほどからその鋭い気の凶器に打たれまいとあちこち避けながら、玻瑠璃は肩で息をついて喘いでいる。


彼女の頬や首、手足には、薄い刃物が滑ったような細かい切り傷が無数に赤く滲んでいて、疲労と怒りと憎悪と恐怖に息が乱れて、両肩が小刻みに震えている。


もう半刻(約一時間)ほどにらみ合いが続いていて、隆世の鋭い気から玻瑠璃はかろうじて逃げ続けていた。おそらく、唱聞師が本気を出せば玻瑠璃をしとめるのは容易いだろう。しかし彼は獲物をなぶる猫のごとく、玻瑠璃を少しづつ追い詰めることを楽しんでいた。


自分を睨み据える小柄な少女を見て、紀隆世はうっそりと微笑を浮かべる。


「まだ泣きださないのか? もういい加減、降参したらいいだろうに」


彼は宙に差し出した手をくるりと返した。手のひらの上に、玉を形作った黄色い気の塊が出現する。


「最近、あの女を物陰から見ている童がいると聞いて来てみれば、みわ家の生き残りの末娘であったとはな。あの女を囮にしておびき寄せてみれば案の定、容易く捕らえることができたというわけだ」


「うるさいっ!」


玻瑠璃は真言を唱えて地面を裂いた。しかし隆世はひらりと飛びのいてそれをよけた。


「おお、小賢しいことをしてくれる。古神道だけでなく真言も操るか。苦しませずに一気に楽に捕らえてやろうという老婆心を無下にするとは」


唱聞師は楽し気に笑う。


玻瑠璃は声がかすれるほど叫ぶ。


「わが祖父は唱聞師にして数度もの奥駆けを成し遂げた修験者すげんざ! 祖母はみわの大巫女かんなぎだ! 双方の血を受け継いだ者として、お前のようなくされ外道になど死んでも屈するものか!」


「ははは。やれやれ、よく吠える犬の子だ。ますます気にいった。俺が死ぬまで、ぼろきれのようになるまでそばでこき使ってやろう」




「うわぁぁぁぁぁっ!」


叫び声とともに、吉平が羅城門から馬に乗って飛び出してくる。馬は明らかに宙を飛んでいる。生身の馬ではない。勢い余った吉平は馬の背から放り出され、宙を回転して地面にどっと転げ落ちた。


ひらひらと、一枚の紙が彼の上に降ってきた。それは馬の形に切り抜かれた白い半紙だった。


「あっ、玻瑠璃!」


彼は呼び起きて玻瑠璃に近づこうと走り出したが、彼は見えない力に跳ね返されて玻瑠璃に近づくことができない。どうやら唱聞師が結界を張っているようだ。


「なんだ……これっ!」


吉平は結界やぶりの印を結び呪を唱える。しかし、それに気づいた隆世はめんどくさそうにため息をついて手のひらを吉平に向けた。


「なんだ……高名こうみょう陰陽師殿のお子か」


隆世のてのひらから、気が放出された。それはまっすぐに吉平へ向かう。彼は真正面から隆世の気の攻撃を食らってしまい、ちょっとした雷に打たれたような衝撃で三尺(九十センチ)くらい後ろに吹き飛ばされて地面に打ち付けられた。


「よっ、吉平っ!」


彼は気を失ってしまったようでびくとも動かない。玻瑠璃の絶叫に隆世はおかしそうにくすくすと笑う。


「ふっ、ははは。いや、殺してはいないよ。あの恐ろしい陰陽師殿に恨みを買いたくはないからな」



吉平が地面に倒れるのを楼上から見ていた野相公は深いため息をついた。


「情けないな、ちび太郎め。まったく時間稼ぎにもならないうちに気を失うとは。仕方がない、そろそろ俺の出番か」


野相公が宙にダイビングしかけたとき、彼は地上からただならぬ気の増幅の気配を感じて、飛び降りることをとっさに思いとどまった。



ざわ……



周囲のすべての気を吸い上げるような、恐ろしく強力な磁力のような凄まじい気のパワー。



ざわざわ……



くくり紐が解けて、玻瑠璃の長い髪がざわざわと揺らめき宙に舞い上がる。全身からは怒りの赤からいつの間にかいつもの青白い色に戻ったオーラが、ほむらのごとく立ち昇り始めている。


彼女の灰色の瞳が、黄金色に爛々と輝く。



遠く、遥か頭上からでもその様子ははっきりと見て取れる。野相公はあっけに取られてしまった。


隆世は無意識に怯んで数歩後退ずさった、その時、上空で灰色の雲が避けたかと思うと、一筋の雷が玻瑠璃と隆世の間に落ちて地を引き裂いた。



「まさか……」


野相公は驚きと感嘆を込めて呟いた。

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