邂逅

第39話

「珠王丸の奴……」


玻瑠璃はひとり、夕暮れの西洞院通りをぶつぶつと呟きながら下っていた。


私が、吉平のことを将来の伴侶として意識しているだって?


ふん、冗談もほどほどにしろ、あほ珠王め。



妙なことを言い出して玻瑠璃の頭を混乱させたせいで、珠王丸は本体の宝珠の中に閉じ込めてやった。もっとも、最近ひとりでこっそりと通い始めたところに向かうと小言が始まるという理由も大きいのだが。



玻瑠璃がひそかにひとりで出かけるところ。それは八条梅小路の、姉の美月のところである。



姉が殺されてすでにこの世のひとではないことは紛れもない事実だし、いくら反魂はんごんでよみがえらせた外見だけの姉だとしても、やはり彼女のことがとても恋しかったし、動いている姿を見たかったのだ。


何の別れの言葉も交わせなかった。今わの際にも立ち会えなかった。


予想もしなかった突然の……永遠の別れ。玻瑠璃の頭の中では今でも後悔の念がぐるぐると回り続けている。


歩く、笑う、琴を弾く。動いている姿を毎日見たい。それがただ動いているだけの、屍だとしても。もう美月その人とではなくても。玻瑠璃、とあの優しい声で呼びかけてくれなくても。そっと物陰から、垣間見るだけでも。


そして姉の家に出入りする、清水親長と小夜香の兄である唱聞師の紀隆世の動向を探るという、嬉しくない目的もあった。



辻の物陰からそっと中を覗いてみる。いつものように琴の音は聞こえてはこない。玻瑠璃は首をかしげた。美月はいつも今時分はひとりで琴を弾いているはずだった。


「買い物にでも行ったのか?」


目を閉じ、美月の家に意識を集中する。


人の気配がしない。


きっと、留守なのだ。


仕方なく諦めて帰ろうと身を返した時、目の端に美月がどこかへ歩いてゆく姿が見えた。


「あっ」


玻瑠璃はとっさに美月のあとを追った。




一体、どこに向かっているのだろう? 無表情でうつろな瞳で、何かに操られているかのように迷いない足取りで歩いてゆく。


朱雀大路に出ると、彼女は歩調を緩めることなくまっすぐに下ってゆく。野原にいるようにも思える広大な大路は、ところどころ道としての秩序が乱されていて畑が飛び出ていたり牛や馬が草を食んでいたりする。日が暮れてしまう前に家路に急ぐ人々には、美月の姿は見えていないようだ。


見失わないように、玻瑠璃は必死に美月のあとを追う。


「ああ……ここは」


羅城門。


美月はおじけづくことなく羅城門を抜ける。そのあたりまで来ると、もはや今の時間帯には人影は見えない。京の都の玄関口ではあるが強風が吹けばきしみ揺れる朽ちかけた門の周辺はうらびれて寂しくて、鬼や野党が棲んだりするばかりか葬式を出す余裕のない下層庶民が、家族の遺体を捨てたりもする。


「姉さま……?」


玻瑠璃は思い切って美月の後ろ姿に声をかけた。しかし美月はその呼びかけに振り返ることなく門外へと歩を緩めることなく向かう。


「ねぇさまああああああぁぁぁっ!」


声がかすれるほどの渾身の叫び声にも彼女は振り返らない。楼の下まで走って追いかけたが、街道側に出たところで美月の姿は忽然と消えてしまった。


「——?」


辺りは日が沈みかけ、逢魔が時に差し掛かってきた。人影はどこにも見られない。ぎいぎい、きしきしと、崩壊寸前の楼がかすかに揺れる音が響くのみ。


「ねえさ……」



何度目か姉を呼びかけたとき、門の東側からふらりと一人の男が姿を現した。


縹色の水干に折れ烏帽子という庶民の姿でなければ、どこぞの公達化と見まごうほどの品の良さ。年のころは、二十代の前半か。


「お前……」


男の体から、気がぴりぴりと放出された。薄闇の中にプラズマのように見える。



――あ、ぶ、な、い!



頭の中に誰かの声が響き渡る。びくりと肩が縮まる。身を固くして警戒し、十数歩先の男に全神経を集中させた。


びりびりと薄闇に跳ね上がる気が落ち着いてくると、男は玻瑠璃に向かって不敵な笑みを浮かべて首をかしげた。


「——はて。の子の格好をしてはいるが……の子のようだ。ああ……お前は……ふふ。そうか」


全身に悪寒が走る。小夜香に対峙した時の比ではない。足がすくむ。髪まで逆立つ。


「ふむ……さすがはみわ巫女かんなぎ。なるほど、龍の守護を持つか。まことに残念なことよなぁ。とてつもない力を持つのに、その半分も目覚めぬうちに・・・・・・・・・・・・命を落とすことになろうとはなぁ。はぁ……やはりお前のような稀有な者があの程度の火事で命を落とすことなどあり得ぬと教えてやったのに、あのあほう、孤児の小娘ごときに何ができると鼻で笑ってな。私の助言に聞く耳持たなかったのだ」


玻瑠璃はこくりと生唾を飲み込んで構える。鬼に遭おうが物の怪に遭おうが少しも動じないのに、この男の前では足元から怖気おぞけが走りあがってくる。賀茂光栄に対峙した時とは違って、こちらはなにやら得体のしれない不気味さを感じる。


玻瑠璃は怒りで震えながら、やっと声を絞り出した。


「やはり、お前か。うちを燃やして……おばば殿と姉さまを……」


男——紀隆世きのたかつぐは両眉をつり上げてから嘲笑した。


「おぉ、怖い。犬の子がきゃんきゃんと吠えている。お前の家族には何の怨みもなかったが、仕方がなかったことだ。あの蛇のように狡猾な男はいけ好かないが、なにせ褒美を山ほどくれる。しかも、次から次へと実入りの良い仕事を持ち込んできてくれるしな」


「——姉に反魂の術を施したのもお前だな」


わずかな理性が抑え込んだ怒りの反動で声が上ずって少し震えてしまう。もう少しで怒りが爆発しそうな彼女とは対照的に、隆世は鼻歌でも歌うかのように楽し気に細かくうなずく。


「ああ。死してもなお、あの男が執着するだけあるわな。都の上臈の姫君方にも負けず劣らぬ清らかで美しい乙女よ。あのあほう、動く屍にいそいそと毎晩通っているわ」


ははは、と隆世は昏い天を仰いでゆるやかに笑った。玻瑠璃はぎゅっと両手のこぶしに力を込めて踏ん張った。


さらに玻瑠璃を挑発して、隆世はため息混じりに嘲笑する。


みわ巫女かんなぎの家の後継としての人生を断たれて、死してのちもあんな下衆の慰み者になるとは、気の毒な娘ではあるが。今宵ここでお前まで命を落とせば、神家の血は完全にこの世から消え失せるわな」




ゆらり。



玻瑠璃の全身から紫の怒りのオーラが、プロミネンスのように揺らめき蒼い薄闇の中に立ち昇る。燃え滾る怒りが通常のプロセスを経ないで、彼女の額に集中してカッと一気に沸点を超過した。


小柄な少女の頭部から赤紫に吹き上がるオーラを認めると、隆世は一瞬怯んで口をつぐんだ。そして彼は感嘆のため息をつくと、うっとりと恍惚を目元に浮かべて彼女に言った。


「惜しいことよ。あの火事でお前の屍は見当たらなかった。あの下衆あほうはお前が生きているなら見つけて必ず殺せと言うが、実に惜しい。その神力、それにあと二、三年もすれば、姉以上に美しくなるだろうに。まぁもっとも、数年監禁しておいて殺した後で反魂して、我が物にすればいいだけだがな」


ふふふ、となよやかに笑む隆世に向かって、ついに爆発した玻瑠璃の怒りが額の中心から足元に降りた。それは落雷のように地面の表面を走り、隆世の目の前で小石を粉々に砕いて八方にバーストさせた。


ぴっ。


くだけた小石のかけらが、隆世の頬骨のあたりをかすめる。するとすぐに、赤い線が細く滲み現れた。


「おっ……と」


彼はそれを指先で拭い、涼やかに見つめた。そして悩まし気な溜息をつくと、玻瑠璃に視線を戻して口の端をつり上げた。

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