七
千々に
第38話
玻瑠璃は高欄にもたれて、ぼんやりと庭の五分咲きの桜を眺めている。
うららかな春の陽だまりの中。どこか嬉しいような不安なような、そわそわと落ち着かない心細い気持ちになるのはなぜなのかはわからない。
玻瑠璃の背後には一人の若い女が控えている。晴明によって邪悪な記憶をすべて消された小夜香だ。その涼やかに整った白いかんばせからは妖艶さが失せて、穏やかな清らかさに満ちている。彼女は晴明によって、もうかなり前からここ安倍家で玻瑠璃に仕えているという暗示がかけられている。
「おぉい、はーるーりーっ!」
渡殿のかなたから吉平が手を振りながらにこやかにやってくる。それを興味なさそうに一瞥すると、玻瑠璃は再び庭の桜に視線を戻した。
「なんなの? 呼んでるのにさ……」
唇を尖らせて子供っぽく拗ねる吉平に、玻瑠璃は物憂げに迷惑そうな視線を向けた。
「——何の用?」
感情のこもっていない低い声での平坦な質問に、吉平は少し怯む。
「な、何のって……ねぇ、何か怒ってる?」
思い当たる節が皆無の小首をかしげる吉平を小突きたい衝動をこぶしを握り締めてぐっと堪えながら、玻瑠璃はちいさなため息をついた。
一条邸の満月の夜から十六夜月の
のんびりとした顔を見るとそのことを思い出してしまい、無性に腹立たしくなるのだ。
「そう言えば、珠王丸がいないね」
「ふんっ。ここだよ、ここ!」
玻瑠璃はふんぞり返るように振り返り、鼻息荒く自分の懐を指さした。
「なぁんだ。またけんかしているのか。ねぇ、仲直りして出してあげてさ、みんなで桜狩にでも行こうよ」
「——よい。ここから眺めいていれば十分だ」
「でもさ。祇園の
「悪いが、今日は出かけたくないのだ。たった今から物忌みに入るから、ひとりにしておいてくれないか」
「物忌み」とは、占いによる凶日には外出せず他者との接触も避けて部屋にこもってやり過ごさなければならない日のことだ。場合によっては一日だけのことも数日にわたることもあった。
玻瑠璃の言葉を吉平はまるっきり信じてはいなかった。しかし、彼女の冷たい態度から何かを察した彼は、しょんぼりと首を垂れて何も言わずにとぼとぼと渡殿を引き返して行った。
「玻瑠璃さまの、北風のようにお冷たいこと……」
小夜香は淡い苦笑を薄い唇に浮かべた。玻瑠璃は小夜香を責めたい衝動をぐっと堪えて、記憶のない彼女には何の咎もないと自分に言い聞かせてにっこりと笑みかける。
「あのね小夜香。何か菓子を持ってきてくれる?」
「はい。ただいま」
小夜香はすっと立ち上がると奥へ消えた。すると珠王丸が玻瑠璃の懐の中の珠から出てきて、宙にふわふわと浮いたまま玻瑠璃を
「吉平が何も覚えていないのは、あいつのせいではないではないか。運ぶ時は私が手伝ったから、大した苦労はしなかっただろう? 何をいつまでそんなに苛ついているのさ?」
「……」
玻瑠璃は自分でもよくわからないくらいに、無性に苛ついていた。悪女だった小夜香が今では別人のように甲斐甲斐しく玻瑠璃に仕えている。そこに吉平や次郎がやって来ては「小夜香、小夜香」となついてくる。それを見て不機嫌になる玻瑠璃を見た晴明が、楽しそうに「目について腹立たしいようならば、小夜香はお前ではなく吉平付きに変えようか?」とわざと言ってくる。
そこで玻瑠璃がますます不機嫌になって晴明とは口を利かなくなり、何も知らない吉平と次郎に当たり散らす。それを見た晴明が苦笑して「それではおれ付きにするか」と呟くと、今度は花霞の機嫌が悪くなり、世間ではすでに七分咲きの桜の花が、安倍家では五分咲きで成長を止めてしまったのだ。
だが結局は、中身も外見も悪しきところがなく心優しい女になった小夜香のことは、玻瑠璃は嫌いではなかった。だから彼女をそのまま自分のそば仕えにすることに決めた。
くるりと宙で胡坐のまま一回転した珠王丸は、あっと小さな声を上げた。
「玻瑠璃、もしかして……お前、やきもちを焼いているの?」
玻瑠璃は唇を尖らせた。
「は? 一体、何に対して?」
「うん、あの小夜香という娘の、女らしいところとか? だってお前にはないものだもの」
「ふん。女らしくなんて、私にだってできないこともないさ。しないだけだ」
「ふふん……ではもしや、吉平のことが好きだから、あいつが小夜香小夜香というのが気に食わないのか」
「何を言っているんだ? 好きは好きだが、それでなぜ小夜香が気に食わないくなると?」
「いや、そういう好きではなく」
「好きは好きだろう? 嫌いでなければ、好きということだろう? 次郎ものっぽくんも綱も挙賢も義孝も、みんな好きだが」
「違う。吉平のことを、男として好きだということさ」
「は? なんだ、冗談はやめろ。私のほうがあいつよりもよほど男らしいぞ?」
玻瑠璃はあははと豪快に笑い飛ばした。しかし珠王丸は肩をすくめて苦笑した。
「だが実のところ、お前は男ではない。妖艶な美女にたぶらかされて操られてしまうくらいまだまだ頼りないが、将来は腕の立つ陰陽師になるだろう。なにせ、あの晴明殿の子なのだからな。ああ、もしかしてお前……」
珠王丸はさかさまに回転して玻瑠璃の鼻先でくすっと笑った。
「吉平が小夜香に誘惑されてしまったのが気に入らないのか?」
玻瑠璃は木の皮をかじったような渋い表情をした。
「——お前の言う意味が、よく分からない」
「だからさ、お前はあいつを伴侶として考えているのかってこと」
「はぁぁぁ?」
「ふふふ。まぁもっとも、お前のような水性の強すぎる者には、
「う……あの男は嫌だよ、怖いもの」
「それだよ。お前が賀茂光栄を怖がるのは、あいつが男だからだろう? でも今回、小夜香に誘惑された吉平にも、そう感じてしまったから腹が立ったのではないのか?」
「なんだか難しいぞ、珠王……」
「ふむ。ではこうしよう。吉平がお前の目の前で小夜香をほめたり、楽し気に話しかけているのを見るとどう思う?」
「それは……面白くないな」
「あいつがお前と同じ年頃のどこぞの姫君に懸想したり、そのひとへの思いをお前に語ったり、その人を思って物思いにふけったりしているのを見たら?」
「……そんなもの、次郎にでも語れと言うし、見ていたくもない。そんなこと語られてもよくわからないし」
「お前たちは最良の相性ではないが、互いに補い合えるよい相性なのだ」
「はぁ?」
「あいつを伴侶として考えるのもよいだろうな」
「まさか。私の好みは……」
「うん? お前に異性の好みなんてあったか?」
「ううぅ……し、強いて言えば、私よりも強い奴だ!」
「では賀茂光栄かはたまた晴明殿か」
「うぬぬ……」
ますます渋い表情になる玻瑠璃を見て、珠王丸はくすりと笑って肩をすくめた。
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