十六夜月

第37話

十六夜月が東から顔を出す。



銀の光が濡れたようにけざやかに青闇の庭園を照らしている。


その夜、晴明はわざと結界の邸の東の対の屋あたりの結界の強度を下げた。雑魚の物の怪たちは入れないが、ある程度の妖術を使う者の呪が効くように。




――吉平さま……よしひらさま……




女の甘い囁きがどこからともなく、安らかな寝息を立てている吉平の耳をくすぐる。



――吉平さま、おいでませ……



吉平はまるで糸で吊られているかのようにするすると褥から身を起こす。小袖に袿を羽織った姿で、彼は妻戸を開けて裸足のまま庭に降り立った。



――こちらでございますよ……さぁ、おいでませ……




「——おそらく、その女は吉平がどこの何者なのかは知らぬはず。一条の若君がたの友ならばどこぞの高位貴族の子弟、たぶらかしておいて損はないとぐらいにしか思ってはいないだろうな」


操られて邸を出て行く吉平を、玻瑠璃と共に物陰から観察しながら晴明は声を潜めて言う。


「名を知り、一度気を吸った者ならば術を用いて誘い出すことができるということでしょう?」


「ああ。お前のことも呼び出したが、名が違ったために術がかからなかったのだな」


「うっかり、吉平を止めることができなくて」


「気にするな。基本を忘れていた吉平が悪い。だからこうして、おしおきで囮にしている」


自分の息子を術者を捕らえる囮にするなんて。しれっとおしおきだと言う晴明を見上げて、玻瑠璃は苦笑した。



もしも吉平が安倍晴明の子だと知っていれば、小夜香も手を引いたはずだ。晴明にとっては吉平の身固めをして術を遮断することはたやすいことだ。しかし、息子を囮にしてもいざとなれば救うことも、小夜香を罠にはめてとらえることも同じくらい容易いことだろうと玻瑠璃は思う。


何も知らない小夜香は、思いがけなく見つけた上質な気を今夜吸い尽くしてしまおうとしているようだ。もしそうなれば、吉平は一生、生ける屍のように呆けたままの状態となるか、あるいは命を落とすことになるだろう。




吉平はふらふらとまるで夢遊病者のように、声に導かれるままに大路を下ってゆく。明るい月夜では明かりを持たずとも簡単に後をつけることができる。


青灰色の雲がゆっくりと流れてきて、銀色のいびつに身を削ぎ始めた月の前をぼんやりと横切ってゆく。


「うぅん……一条邸に行くのではなさそう……」


玻瑠璃は首をかしげる。


「ああ。どうやらこの少し先のれ寺の古堂にでも向かうかな」


晴明がすまして答える。今、二人の姿は普通の人には見えていない。もっとも、夜間は滅多に人影はないが、晴明のかけた隠形の術は人だけでなく術者やあやかしたちからも、姿どころか気配さえも完全に見えなくしている。



はたして、晴明の予想通り吉平は三条近くの古寺の敷地へふらふらと入って行った。枯草をかき分けて吉平が古堂までたどり着くのを見て、玻瑠璃ははっと息をのんだ。


ぼろぼろに朽ちた床板の濡縁に立った夜目にも妖しく美しい女が、吉平に手招きしていた。


「あれか。なるほど、あやかしではないな」


女の白い手が吉平を捕まえて自分のほうに引き寄せるのを見ても少しも焦る様子もなく、のんきにふんふんとうなずいている晴明の袖を引いて、玻瑠璃は苛ついた口調で抗議した。


「何を暢気な。晴明殿、もうよろしいでしょう。早く吉平を助けねばまた気を吸い取られます!」


「まあまあ、落ち着け。見てみろ」


晴明は顎で濡縁を差す。


古堂の濡縁を操られるように上がって行った吉平は女の腕の中に抱きとめられた。女は吉平の顔を両手で包んで上を向かせると、片手で小さな顎を掴んで赤い唇を吉平の唇に近づけた。


すうぅぅ……


白い揺らめきが、吉平の口の中から出てくる。


「あれが吉平の気だ」


「確かに……」


小夜香は艶やかな笑みを浮かべ吉平から気を吸い上げようとするが、ふと眉をしかめ動きを止めた。


「ん?」


異変に気付いた玻瑠璃は首をかしげる。晴明はくすりと笑い刀印を結んで隠形の術を解くと、低い声で玲瓏と言い放った。




「おい。残念だが、もうその者の気は吸えぬぞ」


小夜香が晴明と玻瑠璃の気配を察知するよりも早く、晴明は素早く印を結び彼女を金縛りにかけてしまった。


「なっ……?」


目の前の極上の獲物にすっかり気を取られていた彼女は突然強力な力で捕縛されて、驚愕を隠せずにひどく取り乱した。


「なっ、何者!」


月の光が降り注ぐ荒れ庭にたたずむ二人の陰を認めて小夜香は誰何すいかしたが、すでに遅かった。捕縛されて彼女がかけていた術は解け、吉平の体がぐらりと前のめりに倒れた。はっと息をのみ、駆け付けた玻瑠璃は吉平の体を抱きとめた。


晴明は小夜香にゆっくりと歩み寄ると、彼女の額に手を翳して目を細めた。


「ふん、なるほど。お前も・・・唱聞師なのか。気を消すのがうまいようだが。なにゆえこのようにまだ幼き者の気を奪い尽くそうとする?」


小夜香は手負いの獣のように晴明を睨み据えた。


「なんと。常人の何倍も清らかで強靭な気を持っているかと思えば、安倍晴明の子であったか。どうりで、力が全身にみなぎるはずだわ」


晴明は翳したてのひらから小夜香の思念を読み取る。


「ほう? お前は紀隆世というまじない師の妹か。兄は藤原朝成を操り一条殿を呪わせ、お前に一条殿とその子女を惑わさせ意のままに操ろうとしている。お前たちの狙いは……まぁ、大体の察しはつくが」


小夜香は大きく肩で息をつき、敵わないことを悟ると無駄な抵抗は諦めて態度を変えた。黒い瞳を潤ませて晴明を見上げた。


「お美しいかた、晴明様。どうか、お助けくださいませ。すべてはわが兄の命ずるがままに仕方なくしていたことでございます……」


はたから見ている玻瑠璃までもが動悸を乱すほどの艶冶えんやな様子だが、晴明はくすりと笑っただけで美女の媚に少しも動じる気配はない。それどころか鼻先が触れ合うほどの距離で、切れ長の神秘的な灰色の瞳でじっと彼女を見つめ返して反対に彼女をひるませてしまった。


「ふん。そのような媚は常人には効果的だろうが……私には試すだけ無駄だと思うが」


そして彼はにっこり笑むと、印を結んで小さく呪を唱えた。


抵抗しようとしても何もどうすることもできない小夜香は、呪をかけられている間も命乞いをし続けて涙まで流したが、晴明は冷ややかな表情を一切変えることはなかった。



「あっ……」


玻瑠璃は小さく声を上げた。


小夜香が気を失い、その体が手折られた一輪の花のように晴明の腕の中に崩れ落ちた。


「殺したのですか?」


玻瑠璃の問いに晴明はふっと口の端を引き上げた。


「まさか、こんなひよっこを。まあ、見ていてご覧」


気を失っている小夜香の額に翳した晴明のてのひらには、まあるい光が吸い寄せられてやがてそれは瓜ほどの大きさにまでなった。彼はそれを手首を返してのひらにのせ、紙風船のようにぽんと宙に突き上げた。


光はふわふわと舞い上がり、重力に従って再び落下してくる。晴明は人差し指を立ててそれをその先三寸上あたりで静止させた。


「それは……気?」


「ああ。この娘の、な。それに今までたぶらかして奪ってきた、多くの人々の気がまじりあっている」


晴明は宙で静止している気の玉を指先で操って、色別に分け始めた。黄色がかった白い気の光を分けると、吉平のほうへ投げてよこしてきた。それは特別何もせずとも、自然にひょいと吉平の口の中に飛び込んで消えた。


それに呆気に取られている玻瑠璃のほうには、鶏の卵より少し小さいくらいの青白い光の玉が飛んできて、彼女の口の中にひゅっと入って行った。


「これはお前のさな」


「あっ、その、ゆ……油断して、無理やりっ……」


玻瑠璃は赤面してもごもごと言い訳をした。


晴明は月の浮かぶ夜空を仰いで、少年のようにあははと笑った。彼は次々と気の光を色別に分けてはそれらを夜空に飛ばした。暉は流星のように、あちこちに飛び去る。きっと持ち主のもとへ飛んでいくのだろう。


「照れずともよい。失敗の経験も大切だからな。お前の吉平も、身をもって学んだであろう? ——ふむ。このひときわ大きな気の玉は伊尹殿か。これで最後だな」


拳ほどの大きさの光の玉を一条邸の方角へ指先で飛ばしてから、晴明は小夜香を見下ろした。


彼の指先の上には、手鞠ほどの大きさの藤色の光の玉が浮いている。



「さぁて。これはこのいたずら者の気なのだが。このまま戻してもまた悪さをするであろうな。かといって、戻さぬわけにもいくまいな。この娘が呆けたままになっては、兄の呪い師が何をしでかすやら」


晴明の言葉に玻瑠璃はため息をついて目を伏せた。


「身内を害される辛さを、私は十分に思い知りました。だがこの者を清めても、兄がまた悪事に利用すれば同じこと。できるなら、そうはさせたくない……」


「ふむ。ではこの娘の記憶を消して、お前の女房にでもしておいてしばらくは様子を見てみるか」


「えっ?」


驚愕する玻瑠璃の思念を先読みして、晴明はくつくつと笑う。


「なぁに、心配無用だ。ついでに吉平のこの娘に関する記憶もきれいさっぱり消し去っておくからな」


「は? いや、別に、そんなことはどうでも……」


玻瑠璃は焦りながら首をぶんぶんと横に振った。


「兄の呪い師がどう出てくるか、様子を見よう。それまではいい子でいてもらう」


晴明が短く呪を唱えると、小夜香の気の玉は薄紅色に変化した。彼はそれを彼女の口の中に放り込んだ。それから彼女を肩に担ぎあげると、吉平を支えている玻瑠璃を振り返った。


「さぁて、帰るぞ。吉平はお前が担いでくるように」


「はい?」


「珠王丸にも手伝わせるとよい」


「……」


深いため息をつき、玻瑠璃は渋々と立ち上がって、気合で吉平を背に担ごうとした。しかし、吉平はびくともしない。だんだん苛ついてきた彼女は、唇を尖らせた。


「無理に決まってるでしょう? 珠王! ちょっと手伝ってくれ!」


玻瑠璃の袂から飛び出てきた珠王丸は、吉平のわきの下に手を入れて持ち上げた。


晴明はそれを確認すると、小夜香を肩に担いだまま苦笑して歩き始めた。


「玻瑠璃よ、そうして一生、苦労する羽目になるのだな」


そのひとりごとは、玻瑠璃の耳には届かなかった。



十六夜の月は、もうだいぶ傾きかけていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る