花夜叉3

第36話

気を大量に吸い取られたせいか、玻瑠璃は意識なく深い眠りについていた。珠王丸に守られているという安心感もあったのかもしれない。他の少年たちもそれぞれにぐっすりと眠っている。



だから、甘ったるいきつい香りが闇に紛れて漂ってきたことにも、全く気が付くことはなかった。



敵地で気を大量に消耗することの危険さなど、晴明のような手練れにはよくわかっている。しかし玻瑠璃のような未熟者には、あまり想定できない出来事だった。



満月が南中にぽかりと浮かぶ。時折、薄い灰色の雲がかかって月の光の明度を下げる。



玻瑠璃の張った結界の中、規則正しい寝息を立てて少年たちはぐっすりと眠っている。月に薄雲がかかり艶やかに光る渡殿の板に影がさす。


ふいにとろりとした妖気があたりに立ち込めて、むせかえるような甘く青臭い妖艶な香りが漂い始める。




 ――よしひらさま……よし……ひら……さま……




大麻を燻す香り。


女の甘い声色が吉平の名を囁くように呼ぶ。


吉平は半目を開いてしとねの上から上半身をふらりと起こす。彼に意識はない。多分本人はぐっすりと寝入っていて、夢さえ見ていない状態のはずだ。しかし彼は名を呼ばれるがままに、小袖姿(ねまき姿)のままふらふらと部屋を抜け、玻瑠璃の張った結界の外に出て行った。



誰も目を覚まさない。



 ——ふふ。吉平さま。おいでませ……



吉平は声に操られるように渡殿へ出た。そして階を降りて庭へ向かう。雲がさらさらと流れると、青白く月影に濡れる庭にはひとりの嫋やかな女がひとり立っていて、階を降りてくるぼんやりした吉平を見て妖艶に微笑んだ。


女は吉平へ白い手を伸ばした。



 ——こちらへ……さぁ、おいでませ、吉平さま



小夜香は差し出した手を取る吉平の手を握り、彼を自分へ引き寄せた。そしてそのまま吉平の手を引いて庭を横切り、寝殿へ向かう。昼間、玻瑠璃を襲ったのと同じ塗籠に吉平を連れてゆくと、内側からつっかえ棒を渡した。



ふふふ……



小夜香の歌うような微かな笑い声が、青い夜の闇に溶けていった。





翌朝。


空が白んで朝日が昇っても、吉平はなかなか寝床から出てこなかった。


玻瑠璃は機長の隙間から入り込んで、褥の中の吉平を大げさに揺らした。


「おい、吉平! ひと様のお宅で寝坊などと、お前にしてはありえないぞ。いつも小言を言うのはお前のほうじゃないか。おい、具合でも悪いのか?」


「う……ん……?」


吉平は腕で顔を隠したまま寝返りを打った。寝乱れた襟元からはだけた首元を見て、玻瑠璃ははっと息をのんだ。


彼の首筋には、いくつかの紫色のあざが浮かび上がっていた。


「吉平? お前……まさか、昨夜……」


玻瑠璃は自分の胸元に手を当てる。朝の身支度をするときに見た、自分の胸元に浮かんだあざと同じではないか?昨日小夜香に襲われたときに、彼女にきつく吸われてできたもの。それと同じようなあざが、吉平の首筋にも……


「……」


玻瑠璃は嫌な予感に青ざめた。吉平がやっと目を覚ます。彼は枕元に座る玻瑠璃を見ると、あくびをしながらのそのそと上半身を起こした。


「なに? 玻瑠璃……今、一体何刻なんだ……?」


はっ、と玻瑠璃は息をのんで我に返る。少し狼狽うろたえながらも平静を装い、吉平の腕をばんばん叩いた。


「お、起きろ。もうみんな起きて、朝餉を一緒にいただこうって、お前を待っているんだ」


「は? もうそんな時間? うわっ、日が昇ってる! 寝過ごしたか!」


「そ、それよりもお前……昨夜は……私の張った結界の中で、ちゃんと寝ていた……よな?」


「うん? ここで目が覚めたならそうだろう? 夢も見ないほどぐっすり寝たはずなのに、なぜか疲れが取れていないけど……」


玻瑠璃は確信した。自分と同じようなあざに、目の下の深いくま。吉平も自分と同じように、あの女に大量に気を吸い取られたに違いない。


「——た、大変だ」


青ざめた玻瑠璃に様子にきょとんと首をかしげて吉平が訊いた。


「なにが?」


玻瑠璃は吉平の肩をばしばしとひっぱたいて癇癪声で言った。


「起きろっ! いますぐ! 大至急、うちに帰るぞっ!」


「えっ? え……朝餉は?」


「うるさい! そんなもの帰ってから食べればいい!」


吉平の手首をつかんで全身の力を込めて引っ張り上げる。


「おい、珠王! 早くこいつの支度を手伝ってくれ! 私は挙賢たちに家に帰ると伝えてくるから!」


「あ、ちょっと、玻……」


吉平が最後まで呼びかけを終えないうちに、玻瑠璃は渡殿へ消えた。


玻瑠璃の様子がひどく焦っておかしいことに気づいた挙賢と義孝は、なにも質問せずにすぐに牛車の用意をしてくれた。


玻瑠璃はまだ寝ぼけ気味でふらついている吉平を強引に引っ張って牛車に乗せると、自分も乗り込んで一条大路を西に向かわせた。





「晴明殿っっ!」


車宿りに着くや否や、しじ(踏み台)も用意されないうちに中から飛び出て、玻瑠璃は吉平を引きずったまま急ぎ足で寝殿へ向かった。


晴明は階の上で早朝の澄んだ空気に輝く桜の花を眺めていたが、必死の形相の玻瑠璃とげっそりとやつれた吉平を見て目をすがめた。


「お前たち……」


「晴明殿っ! 吉平が……!」


玻瑠璃に引っ張られるままの吉平は、まだ何が何やらわからない様子だった。本人にしてみれば状況をまったく理解していない。普段の朝よりも体が重くかんじられるだけで、なぜ玻瑠璃がそんなにも血相を変えて自分を連れ一条邸を出てきたのか何もわからなかった。


晴明は二人を交互に観察する。


「ふむ。だいぶ弱っているようだが」


玻瑠璃は頷いて話し始めた。


「一条邸の若い新参女房で小夜香というものが妖術を用いて伊尹殿をはじめ一条邸の人々を操っているのです。私は昨日、その女に気を奪われかけたせいで夜は死んだように眠ってしまいました。しかしその間に吉平が気を奪われたようです」


「お前のことだから、結界は張って寝たのであろう?」


「もちろんです。でも吉平が問われて、うっかり名を名乗ってしまったのです」


はぁ、と晴明はため息をついた。


「なるほど。それでは、いくら結界の中にいても呼ばれれば意味がないな」


「今宵、また吉平の気を奪いに来るはずです。だから身固めをお願いしたいのです」


「身固め」とは、呪詛を受けたり間に憑りつかれたりした者を災いから守る呪術の一種である。


「ええ? 私が気を奪われたって? 名乗りって・・・・・ああ、お前が嘘の名を名乗った時? あの小夜香という女房に? 一体、いつのはなし?」


吉平は首をかしげた。


「その妖術使いはあやかしの類ではなく、人なのであろう?」


「はい。あやかしではないと感じました」


「吉平の守護に付けている白龍は、あやかしからは守ってくれるが、人からは守ってくれないからな」


「近頃あちこちの貴族の邸に出入りしているという、播磨国の唱聞師の紀隆世きのたかつぐという男にゆかりの者のようです」


「ああ、噂の呪い師か。おれの身内に手を出すとは相当の自信家のようだな。そろそろ、おしおきが必要か」


晴明はにやりと口角を引き上げた。玻瑠璃はおそるおそる晴明を見上げる。


「あ、あの、晴明殿? 吉平の身固めをまずは……」


「うん? いや。それは後回しだな」


「はい?」


「吉平には今宵、おとりになってもらうよ」


「えええ?」


吉平と玻瑠璃は同時に目を見開いて間抜けな声を上げた。


晴明は美しくにっこりと微笑んで、ほころび始めた薄紅の桜に再び視線を移した。

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