花夜叉2
第35話
玻瑠璃は精神を集中させた。
自分という存在が「無」になることを想像する。「人」としての
すると周囲の人々は彼女の姿を見ることができなくなる。隠形の術の一種だが、実際に姿が消えるわけではない。気配を消すことで、人には無機物のように思えるのだ。術を操る者には子供だましだが、たいていの人間たちにはまず見破られる心配はない。
「なんだ? これは……」
東の対の屋から神殿へ近づくごとに黒く淀んだ妖しい気が濃く感じられてきて、どろりと手足にまとわりついた。息苦しく冷や汗が額を伝うのに、そこに仕える女房達は格別気に留めるでもなく平然としている。
廂の間から母屋に踏み込んでみる。そこはこの邸の主・伊尹の住まいである。彼の北の方(正妻)で挙賢たちの母、今上帝の姪にあたる恵子女王は北の対に住んでいるので、そこは伊尹だけの気ままな空間である。
若君たちは東の対の屋に、姫君たちや何人かの側室たちは西の対の屋に住んでいる。挙賢たちの
伊尹は気に入った女房に手を付けてそば近くに仕えさせることもよくあるらしく、小夜香のこともその一人だと誰も格別に気に留めていないようだと、義孝が大人びた口調で言っていた。
玻瑠璃が住む安倍家とはまるで違う生活環境だ。邪悪な空気が大蛇がとぐろを巻くようにそこかしこにはびこっている、絢爛で豪奢な邸。
「うう……悪寒が止まらない。なんと不浄で不快な空気だ……あっ!」
塗籠(窓や扉のない部屋)の前まで来た時、そのなかから白く華奢なてがすうと伸びてきて、玻瑠璃の腕を取って中に引き入れた。
「……!」
密室。
玻瑠璃は必死に抵抗してもがく。しかし部屋の中には視界が遮られるほどの真っ白な煙が充満していて、青臭い怪しげな香も相まって方向感覚を奪われる。その香を不覚にも深く吸い込んでしまい、しまったと思った時にはすでに遅く、玻瑠璃は不本意ながらも意識を手放してしまった。
甘い……くせのある、大麻の香り。
細くやわらかな指先が、ふわふわと玻瑠璃の頬から顎の線をなぞってゆく。
ぼんやりと意識が戻ってくるのだが、もがいてももがいても手足がなまりのように重くて動かせない。
ふふふ……
くすくす……
玲瓏な静かな笑い声。
ふぅ……と甘い吐息が玻瑠璃の唇をかすめ、細い首筋に柔らかく触れた。それはむずむずとうごめきながら、玻瑠璃の首筋を這う。時折、しめった軟体生物のようなものがちろちろと華奢な首を舐める。
「お美しいかた。その強く美しい気を、私に吸い取らせてくださいませ……」
歌うような艶やかなささやきが鼓膜に注がれて、ぬるりと舌が耳の内側や耳輪を這う。最後に固いものが耳たぶを甘噛みして離れると、細い指が小さな顎に当てられて下に引っ張られた。
金縛り。身動きができないので抵抗することがままならない。
「……っ!」
くちゅりと微かな音がして、赤い唇に押し広げられた玻瑠璃の口の中に、赤い舌先が侵入してくる。それは玻瑠璃の舌先を吸い上げてとらえると、巧みに翻弄した。抵抗もできずにされるがままに弄ばれていると、小夜香の手は玻瑠璃の水干の襟の紐を解いて、小袖と素肌の間にするりと滑り込んできた。
「!」
驚いた玻瑠璃はびくんと体を震わせる。が、実際は全く身動きすることができていない。冷ややかでなよやかな手が小袖の袷を大きく引き開いて、首筋、鎖骨、そして胸の小さな頂をかすめ撫でた。
玻瑠璃は声にならない悲鳴を上げる。
小夜香は楽し気にくすくすと笑いながら囁く。
「女の御身でこのような童子姿とは……お美しいのに、もったいのうございます」
小夜香は再び玻瑠璃の唇をふさぐと、するすると気を吸い取ってゆく。玻瑠璃は次第に力が抜けて、気が遠のいてくる。
「……やっ……やめ……」
喘ぎながらもやっと声を絞り出す。呼吸が苦しくて、胸が上下に動く。
小夜香は玻瑠璃の懇願もくすくすと笑いながら受け流し、細い首筋や胸元に真っ赤な舌を這わせて楽しんでいる。
「なぜ抗われますの……? 快楽を、味わいなされませ。本能のままに……私に溺れなされませ……」
華奢な指が玻瑠璃の袴の紐を解く。
するりと衣擦れの音がして、袴の内側に滑り込んだ手が細い桃の内側をゆっくりと這い上がってくる。
「い……やっ、やめ……ぃやだぁっ! じゅ……じゅ、おう、たす……」
刹那、玻瑠璃の首にかかった紐の先の小さな袋の中から閃光が放たれて、彼女の上に馬乗りになっていた小夜香は板の間に弾き飛ばされた。その隙に金縛りが解けた玻瑠璃ははだけた小袖の襟元を抑えながら、つっかえ棒を外して転げるように塗籠を出た。
珠王丸が誰もいない曹司(部屋)の戸を開けたので、そこに飛び込む。
精神的な衝撃で震える手で衣を直そうとするが、思うようにならない。扉につっかえ棒を渡した珠王丸は、玻瑠璃をふわりと抱きしめて優しく背を撫でた。
「もう無事だ、あの女は当分目が見えないはずだ」
壁にもたれて放心状態の玻瑠璃の衣や髪を直しながら、珠王丸はそっと声をかけた。
数回深呼吸をして高ぶる感情を落ち着かせようとしながら、玻瑠璃はまだ震える手で自分を抱きしめる。
「ああ、助かったよ……」
蒼白で極度に疲労して見えるのは、気をずいぶん吸い取られたためだ。
「あの女、妖術使いだな。お前の気を吸い取った」
「めまいがする。頭が重い」
「もう少し早く呼び出してくれないと! お前の意思で封じられていたら、いくら私でも自由に出てくることはかなわない。もしも気をすべて吸い取られてしまったら、お前は生きたまま屍になっていたんだぞ?」
珠王丸の𠮟責に、玻瑠璃は心から反省してうなだれた。
「すまなかった」
珠王丸は玻瑠璃を抱きしめた。ほのかな光が彼女を包み込み、宝珠の気で満たした。その浄化作用によって、頭の痛みも和らいで気が落ち着いてくる。玻瑠璃は珠王丸を抱きしめて、しばらくの間放心していた。
何とか歩けるようになって青白い顔で戻ってきた玻瑠璃を見て、吉平はかなり驚いて駆け寄ってきた。
「ちょっと、玻瑠璃? いったい何があったの?」
玻瑠璃は弱々しく苦笑した。
「大事ないが、少々、気を吸い取られた」
「なっ! お前、私に注意しておきながら! 危ない目に遭ったのか?」
珍しく大声を出すあまり迫力のない吉平に、玻瑠璃は素直に謝った。いつものように言い返すだけの気力がないだけだったが。
「まあまあ。玻瑠璃、こちらへお座り。何があったのだ?」
挙賢は
玻瑠璃は少し狼狽えた。
まさか、女に犯されかけたなどといくら玻瑠璃でも平気で言える気がしなかった。
「あ、いや、ちょっと油断して気を吸われただけだ。私の気力がもう少し回復したら、お前たちが襲われないよう結界を張ってやるから……」
義孝は玻瑠璃の挙動不審な様子を見て、彼女が小夜香に何をされたのか大方理解したらしい。彼は目をすがめたが、玻瑠璃のために何も訊かないことにしたようだった。
一方の挙賢と吉平は、よほど恐ろしい目に遭ったのだろうとだけ思っているようだ。
その夜、玻瑠璃と吉平は挙賢たちの東の対の屋の一室に泊まることになった。それぞれに几帳で区切り、玻瑠璃は吉平の隣に珠王丸と共に寝る。挙賢と義孝は玻瑠璃が結界を張った御帳台の中で安らかな寝息を立てている。
満月の夜だった。
甘やかなきつい香りが東の対の屋を包むように漂っていた。
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