花夜叉1

第34話

淡い紅の桜の花がほころび始めた。



一条邸は安倍家から一ブロックほど西にある。ちなみにその二間となりには多田源次満仲の邸があり、綱はそこに住んでいる。



昼八つ(午後二時)を少し過ぎたころ、一台の地味な網代車が安倍家の西の対にとめられた。


ひそかにこれに乗り込もうとした吉平と玻瑠璃の背後から、晴明は声をかけた。


「行くなとは言わんが、危ないことはするなよ。お前たちには式をつけておくので、万が一のことがあればおれのもとへ飛ばせ。玻瑠璃は珠王丸を解いておくように。あれ・・の力が必要になるやもしれないからな」


気配なく現れた晴明に驚いた二人は悲鳴をあげそうになったが、かろうじて抑えることができた。黙って外出しようとしたことを晴明がとがめに来たわけではないとわかった二人は、ただただ首を縦に振り続けた。


「おれもやはり親ばかな性質たちでな。お前たちを危ない目には遭わせたくないのだよ」


晴明はほう、とため息をついた。だがその様子から見ると、どうやら相手は晴明が出てくるほどの者ではないらしい。だからこそ、この「冒険」には何も小言は言わずに送り出してくれるようだ。それだけ告げると彼は夜の出仕に備えてまた昼寝に戻って行った。




一条邸の車宿りに着くと、挙賢の乳兄弟だという同年代の少年が出迎えて、二人を挙賢の部屋に案内してくれた。


「……うぅむ」


玻瑠璃は敷地に入るや否や、この邸に掛けられた妖しい呪術の痕跡を感じていた。まったりとした不快な妖気がそこらじゅうに漂っている。


彼女が顔を不快にゆがめるのを見た義孝は、やはりか、と心の中で独りちする。彼は玻瑠璃に小声で言った。


「感じるのであろう? 私はこの不快な気はあの小夜香という新参女房のせいだと思っている。あの女は確か十九か二十ほどで、身元が怪しいにもかかわらず父上を一目で魅了して取り入ってそば近くに召され始めた。父上はあの女を片時もお離しにならないで寵愛しておられる。だがその頃から同時に、生霊のようなものに苦しみ始められた」



「なるほど。その小夜香とかいう女房に会うことはできるのか?」


「ああ、会えるよう取り測ろう。だが、吉平は気を付けたほうがよい。恐ろしいぞ。玻瑠璃も安全なのかは、謎だが」


挙賢が苦笑する。義孝もただ困ったように肩をすくめて苦笑を浮かべている。吉平は首をかしげる。


「なぜ私は気を付けたほうが良いと? 恐ろしいとは、どのような意味で?」


吉平よりもひとつ年下の挙賢は、まじめに吉平の目をじっと見つめて言った。


「誘惑されるからだ」


「はい?」


「その女は、父上ばかりか兄や叔父上たちまでもことごとく虜にして骨抜きにしているのだよ。そればかりか、私や義孝までも誘うのだ。だが私たちは信心深い母上のおかげか、惑わされて堕ちたことはないのだが。吉平も誘惑されるかもしれないよ」


「……」


吉平は絶句する。十三歳の義孝まで誘惑してくるとは……


玻瑠璃はフンと鼻で笑う。


「あっそう。私は平気さ。女だもの。同じ女になど、誘惑されるものか。吉平だってまだまだ子供だから、どうということはないさ!」


彼女の断言に吉平はムッとする。


「失礼な。私は少なくともお前よりは大人だ!」


「いや、でもな、玻瑠璃、吉平。女だろうが子供だろうがあまり意味はない。現に女房達も何人かは小夜香の言いなりだし、私も何度も危ない目に遭った」


義孝はまるで人ごとのように淡々と語る。玻瑠璃と吉平は引きつった笑みを口元に浮かべ、少し動揺し始める。


「だ、だが、どのようなものなのかまずは見極めねばならない、よ、な……」


「なんだお前、先ほどの強気はどこへ行った?」


「うるさいぞ吉平。お前は単純だから気を引き締めておけよ」


「ではここに呼ぼうか。小夜香はそうの琴の名手なので、私たちの友人に一曲披露させるというような名目で」


挙賢はさっそく一人の女房を呼ぶと、寝殿に小夜香を呼びにやった。ほかの女房達には琴の準備や几帳を立てることを命ずる。



やがて一人の若い女房が廂に控えた。


「お呼びでございましょうか、若君がた」


小川のせせらぎのように、優し気でさわやかな声色。顔をあげた彼女を見て、吉平も玻瑠璃も呆気に取られて口をぽかんと開けてしまった。


陶器のように真っ白くすべらかな肌、黒曜石の濡れた瞳。ぬばたまの絹糸のごとき艶やかな黒髪に、三日月のような麗しい柳眉、鮮やかでなまめかしい赤い唇。


妖艶という言葉がふさわしい、その名の通り夜気を帯びた色気を放つ美女である。挙賢に命じられて筝の琴の前までするすると移動するところを観察すると、かなり小柄な女のようだ。十四歳の玻瑠璃と身長がそう変わらない。



だが玻瑠璃は大きな違和感を覚えた。



小夜香の気が、少しも見えない。



人は生きている限り気を発している。しかもそれは結構状態や感情の動きによって色が変わる。玻瑠璃ほどの神力を備えた者にそれが可視化できないということは、相手が相当の強力な魔力の持ち主で自らその気を隠しているか、あるいは……生きていない者であることを意味する。



「……」



じっと見つめ続けていると、小夜香と目が合ってしまった。



まずい。



玻瑠璃は瞬時に自分の気を隠し、神経を集中させて心の中を読まれないように思念を閉ざした。美女の目がつまらなそうに玻瑠璃から反らされた。


しかし小夜香は素早く標的を変えて吉平に微笑みかけると、無防備な状態だった彼を一瞬で魅了してしまった。


無意識のまま、吉平は目の前の美女から視線を外せなくなった。


それは誘導だ。


玻瑠璃は惑わされないようにと気を引き締める。


「お名は……」


歌うように、囁き声で彼女はつぶやいた。


「私は……吉平。こちらは……」




(しまった!)




玻瑠璃はとっさに吉平の口を袖で抑えたが、一足遅かった。吉平は自分の名を告げてしまっていた。


ぼんやりとしたまなざしで玻瑠璃を見た吉平は、玻瑠璃が自分で自己紹介をしたがっていると勘違いした。心の中で悪態をつきながら、玻瑠璃は平静を装って愛想笑いを浮かべて言った。


「私は、伏丸ふせまると申します」


「吉平様に……伏丸様……」


女は妖艶に微笑んだ。



玻瑠璃は心配そうに吉平を見る。


彼の目にはすでに目の前の美女しか映っていなかった。



小夜香は挙賢の命令通りに見事な琴を披露した。楽の音に特別な術は施されてはいなかったようで、聞きほれていた人々が変になることはなかったが、玻瑠璃だけは落ち着かない気持ちでいっぱいだった。


三曲ほど演奏させると、挙賢は小夜香を退出させた。


「何か術を施されるかと気が気ではないな。それで玻瑠璃、何かわかったか?」


挙賢の言葉に玻瑠璃は頷き、ため息をついた。


「あの女、術の使い手だ。気を閉ざして心の内を読まれないようにしていた。私もとっさに同じことをしたけど……それより、おい、吉平!」


玻瑠璃は吉平につかみかかった。


「な、なんだ?」


「お前っ! 本当に陰陽学生か? 見知らぬ相手、しかも得体のしれない危険な相手に名を告げてどうする? それに気安く目を合わせただろう? 念のために、ここにいる間は決して独りになるなよ?」


吉平は玻瑠璃に言われたことはもっともだと思ったので、正直に頷いた。


普段、父から言われていることとほとんどたがわなかったからだ。


玻瑠璃は一条兄弟に向かって言った。


「確かに、お前たちの父君はあの女に操られているようだね」


「ああ、やはりそうか」


挙賢が頷いた。


「私があの女にちょっとカマをかけてみるから、その間、吉平を独りにしないように見張っておいてくれ。寝殿のほうを隠形おんぎょうで探ってくるから」


「いいけど。独りで大丈夫なのか?」


義孝の質問に玻瑠璃はにやりと笑んだ。


「いや、かえってそのほうがいい」

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