外法

第33話

安倍家の西の対。



南庭に面した東の渡殿には、玻瑠璃と吉平とそして一条兄弟がいる。


綱は弓の稽古に、忠明は施薬院のボランティアに行ってしまった。


一条兄弟によると、例の唱聞師が彼らの邸に出入りするようになったのは、もしや父の一条大臣・藤原伊尹が原因ではないかと言った。



伊尹はとある人物から長年にわたって深い恨みを受け続けていた。



その人物とは、藤原朝成ふじわらのともなりという。



伊尹と朝成がともに若かりし頃——十三年ほど前になるか――に、彼らの出世をめぐるトラブルのひと騒動があったのだ。



大貴族の子弟である伊尹は、黙っていてもとんとん拍子に出世できる立場にいた。一方で、中流貴族の子弟だった朝成は蔵人の頭(秘書長のような官職)になることを狙っていて、ライバルが伊尹だと聞くと、自分よりもはるかに若い伊尹にプライドをまげて辞退してくれるように頭を下げに行った。


「今回は役職を私に譲ってはいただけないでしょうか。あなたはまたすぐに出世できるでしょう。しかし私は長年この機会を心待ちにしてきたのです。どうかなにとぞ、よろしくお願いいたします」


プライドの高い彼にとって、自分よりはるかに若い少年に頭を下げるなど、普段ならっ決してしない。伊尹はそんな朝成の願いを一度は二つ返事で承諾した。しかし、すぐ後に気が変わってその役職を受けたので、千載一遇のチャンスを逃した朝成は出世を逃してしまった。



いうなれば朝成のただの逆恨みに過ぎない。


しかし彼は伊尹をうそつきの気まぐれぼんぼんとして深く恨んだ。その後不遇のうちに没落してしまったようだが、朝成は伊尹を呪詛していたとも、酷く怨み生霊となって憑りついて命を狙っているとも噂されている。


「実際、父上は最近になって、朝成が枕元に立つのでよくうなされるようになったとおっしゃっている。おかしいとは思わないか? 十数年も前のことなのに、今頃になってなど」


挙賢の意味深な言葉を、義孝が次いで言った。


「それで私たちは考えたんだ。もしやその唱聞師が朝成殿に雇われて父上を呪詛し、一方では父上に取り入って自らかけた呪詛を封じる呪をかけているのではないか、とね」


吉平はぽん、と右手のこぶしで左手のひらを打った。


「ははぁ、なるほど。自分で書けた呪を自分で解く。自作自演か。長引かせればそれだけ多くの報酬が二重に入る。賢いな。けど、なんだか得体のしれないものを、一条大臣ともあろうお方がそうやすやすと信用なさるものかな?」


玻瑠璃は苦笑する。


「ああ、それはおそらく、大臣おとどがなにやら惑わしの術でも掛けられているのではないだろうか。一条家ほどにもなればそんな市井の怪しい術者を邸に入れるなら、間違いなく晴明殿を呼びつけるだろうからな」


「その通りだ。父上は多少軽薄なところがおありだから、いづこでかそのような怪しい術をかけられたのかもしれぬ。ところで玻瑠璃、お前の姉上はあの親長という男に殺されたというのは、まことのことか?」


義孝は玻瑠璃を見る。


いちから戻って以来、玻瑠璃の顔色はさえない。珠王丸も彼女の精神状態を心配しているのだが、彼自身が彼女の機嫌を損ねてしまっているので実体の宝珠の中に閉じ込められてしまって出てくることができない。


「そのことだけど」


吉平が言う。


「忠明があの近所を聞きまわってくれたんだけど。あの家は最近まで空き家だったのをあの親長という男が買い取って、女を一人住まわせているとのことだった。なんでも、父親の赴任先の播磨の国で見初めたので連れ帰って妻にしたと言っているらしい。名を美しい月とかいて美月だそうだ」


「ほら、うちの噂と一致するだろう?」


挙賢が言う。


「もう一人のほうの男——紀隆世きのたかつぐとかいったか」


冷静さを保とうとしているが、玻瑠璃の声は微かに震えている。


「ああ。播磨の出らしい。そいつは外法を操ると聞いた」


「外法か……」


外法とは人を呪殺したり不幸に陥れたりする黒魔術のことだ。


「もしやあの男、その唱聞師に命じて姉さまを反魂はんごんで黄泉返らせたのではあるまいか」


「は……反魂だって?」


吉平は青くなって叫ぶ。


「はんごん?」


挙賢が首をかしげる。


「死んだ者の魂を呪術によって黄泉返らせるものだ。ただし、意思はなくただ術者に操られるのみだ。死んでまで、魂を弄ばれるとは。姉さまの魂を、あの外道から取り戻さねばならない」


玻瑠璃は唇をきつく噛んだ。





挙賢と義孝は一条邸への帰りの牛車の中で、ひそひそと小声で話しをしていた。


「あの子、玻瑠璃。とてもきれいな子だね。晴明殿と同じ、灰色の瞳をしているのにあれで親子ではないなんて、不思議だなぁ」


「だが兄上。確かに瞳の色は同じなのだが、どちらかと言えば同族・・と言った感じだと思うよ。うまくは言えないけれどね。とてもきれいだって言うのは、認めるよ。外見だけでなく、魂も気も、とてもきれいだった」


――弟の義孝は、本人もよくわかってはいないが、何か不思議を感じ取る力を持っていた。


「吉平ははじめ、男装していたからあの子のことを男子おのこだと思い込んでいたそうだよ。まあ、あの晴明殿が初めてとった弟子だ。常人離れしていることは疑いあるまいな」


「私はあの子の気に見とれたな。とても美しい気だった。怒りのせいで、炎のように燃え上がってはいたけど……」


「ふうん、珍しいね義孝。お前が初めて会った人にそんなに興味を示すなんてね」


「そういう兄上だって、興味があるから協力を申し出たんだろう?」


「ああ、そうだよ。なぜなのかわからないのに、こんなにもそわそわと落ち着かないのは、初めてなんだ。あの子がどうやってあの邪悪な外法使いを打ち負かすのか、すごく興味をそそられるよ。それに、うちの事情も関わってるしね」


「うん……すごく危ない気もするけどね」


「いざとなれば、晴明殿がいるだろう」


「そうだな」




挙賢は先ほど、玻瑠璃と吉平にある提案をした。




「なぁ、どうだろう。私たちにも協力させてくれ。もう一つの噂が真実ならば、その唱聞師は父上付きの若い新参女房のもとへ通っているらしい。その新参女房がうちへ来たのと唱聞師の噂が都で上がり始めたのが、ほぼ同じ時期なのだ。それから間もなく、唱聞師がうちの邸に出入りし始めた」


「それはあやしいな」


吉平のつぶやきに挙賢は頷いて続ける。


「しかも、その女が来てからというもの、父上のご様子がおかしくなり始めたし、うちの中の雰囲気もどこか変になった。きみたちには私たちの友人として頻繁に訪ねてきてほしい。その新参女房を見張っていれば、例の唱聞師をそのうち見かけることができるだろう」


玻瑠璃は今日遇ったばかりの人のよさそうな少年の思慮深い澄んだ双眸を見つめた。


「なぜそこまで協力してくれる?」


「私たちにとっては実の父上が惑わされておられるのだ。どうにも気がかりなうえに、お前が姉にされたことを考えればなおさら何かせずにはいられない。何とも卑劣で外道な奴らではないか」


挙賢が肩をすくめると、義孝が神妙に口を開く。


「兄上のおっしゃる通り。うちの中の空気がよどんでいるような感じがするのだ。妙な妖気が立ち込めていて息苦しい。放っておいてはいけない気がする」


玻瑠璃は義孝の澄んだオーラを見て口元に笑みを浮かべた。あどけなく男子とも女子とも区別のつかぬ優し気な美しい顔立ちで、異能を持つ者のようなことを平然と言ってのける。この君は自らの能力にはまだ気づいていないようだ。


「そういうことならば協力してもらいなよ、玻瑠璃。一応気に立ち込める妖気の正体も探ってやろうよ。あの市の近くの家も綱に頼んで見張ってもらおう」


吉平はまるで小さな子供に言い聞かせるように丁寧に優しく言った。玻瑠璃はこくりと首肯したが、三人の少年を順番に見つめて言った。


「だが万が一、お前たちに危険が及んだらすぐに手を引くからな。もちろん、お前たちも手を引くんだ」



挙賢は心が躍っていた。こんなにわくわくしたのは、初めてかもしれない。あの少女は、きっと何かすごいことをやってのけるに違いない。


一方、弟の義孝はひとり冷静に思案していた。彼は父に使える妖しい雰囲気の若い新参女房のことを考えていた。


(あの女——確か、名を小夜香さやかとかいったか。邪悪な気を纏った女。あの女は、危険だ)



時刻は、昼と夜のはざまの逢魔が時に差し掛かった。


辻や築地の陰のあちこちからは、常人の目に見えないものたちが義孝の清らかな気に惹かれてちょろちょろと牛車のあとをつけてくる。あるモノは牛車の中に入り込もうと飛びついてみるが、何か強い力のはじかれて道端に転げ落ちる。


玻瑠璃が見立てたように、彼には確実に何らかの神力が備わっていた。


だがそれは、彼自身もまだまだ気づくことはない。

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