第32話

一条兄弟も合流して、彼らは市の門をくぐった。道行く人々は老若男女貴賤を問わず、人々はこの少年たちに目を奪われた。特に玻瑠璃と義孝の人離れした美しさはまるで式神か護法童子のようで、なかには手をこすり合わせてひそかに拝む老人もいた。


 

玻瑠璃は都に来て初めて目の当たりにした市の喧騒に心奪われる。これでもか、というほどの生活感にあふれている。その活気に魅了されつつも気おされて、胸がわくわくしてきた。


「ねぇ、玻瑠璃」


綱が後ろから彼女の袖を引く。振り返り「ん?」と首をかしげると、彼はまだあどけなさの残る笑顔で、そのまた後ろをのんびりと歩いている吉平と忠明を親指で指し示して内緒話をするように小声で言った。


「何か気に入ったものがあれば、教えてくれよ。ここに来る前に三人で話したんだ。お前が欲しいものがあれば、俺たちで贈ろうって」


玻瑠璃ははっと息をのみ、目を見開いた。三人の少年たちを交互に見やる。


「お前たち……」


吉平と忠明は一条兄弟とおしゃべりしている。綱を見やると、彼は小さくうなずいた。吉平も心配していたが、綱も忠明も同じだったようだ。なんだか胸が詰まって、視界がじんわりとにじむ。初めて、人間の友人たち・・・・・・・を得た感動にしばし言葉を失う。綱はそんな玻瑠璃の背をぽんぽんと優しく叩いた。 



「ありがとう」と礼を言おうと口を開きかけたとき。



それは、ほんの一瞬のことだった。



玻瑠璃は吉平と忠明の背後の雑踏の中に、ひとりの女を見かけて目を見開いた。そして次には、すさまじい勢いで雑踏めがけて走り出した。



「あっ、玻瑠璃っ?」




少年たちの驚きの叫びも彼女を引き留めることはできなかった。今、たった今、ほんの一瞬だけ、目にした人物。ほんの一瞬ではあったが、決して見間違うはずはない。

萌黄の袿を壷装束にして市女笠を手にした、白くたおやかな横顔。



それは、玻瑠璃の目の前で無残な最期を遂げた姉の美月であった。




「姉さまっ! 待っ……姉さまぁぁぁ!」




玻瑠璃は必死に人込みをかきわけて、萌黄の壷装束の女を追った。


彼女のすぐ後ろを綱が、そして少し遅れてほかの少年たちが追う。


速い。


綱は普段から鍛錬している武士なのでなんとか追いついていけるが、吉平たちは二人のあとを見失わないように追いかけるのがやっとだ。




姉さま? いや、そんなはずはない。


玻瑠璃は走りながら考える。美月は喉をかき切られ、息絶えた。天井や几帳に、彼女の血がしぶいて飛び散った。確かにあの夜、姉は絶命したのだ。だが、あの壷装束の女は? あれはどう見ても美月だ。あの火事から生きて助かったとでも?


いや、まさか!



女は門を出ると東大宮大路を下り、歩を緩めることなく歩き続ける。まるで行き慣れた道を行くように。あちらは歩いているのに、こちらは走ってもなかなか追いつけない。


玻瑠璃は見逃してなるものかと、執念で追いかける。




「な、なにが起きたというのだっ!」


 息を切らしながら挙賢が叫ぶ。


「よ、よくわかりませんがっ、姉さま、とか叫んでしましたっ……」


死にそうな青ざめた顔で、忠明が空を向いてひいひいと息をつきながら答えた。そもそも、大貴族であろうが文官であろうが下級役人であろうが、普段は彼らは全力疾走することなどめったにあり得ないのだ。


「でもっ……なんかおかしいよね。なぜ走っているのに、歩いている女人に誰も追いつけないの?」


義孝の単純な疑問には吉平が答える。


「あやかしかもしれない。そもそも、玻瑠璃の姉君は、半月ほど前に亡くなっているんだっ……」




「あああ?」 


吉平の言葉に三人の少年たちは素っ頓狂な声を上げる。



綱は玻瑠璃を見失わないように必死で彼女のあとを追っている。毎日鍛えている彼でさえも、追うのがやっとだ。彼は前を走り玻瑠璃の速さに正直驚いている。


「はぇえぇぇぇぇぇぇ……!」


やがて女は梅小路の辻を曲がり、一軒の小さな民家へと入ってゆく。玻瑠璃は辻の築地塀の陰に身をひそめ、その様子を見つめる。綱が追い付いて息を整える。


「あっ……」


玻瑠璃は小さく叫ぶ。小柴垣を抜けた女を、戸の前でひとりの男が出迎えた。男は女の背に手を回し、親し気に彼女を家の中に促した。


「……」


玻瑠璃の指が、築地塀の泥をがりがりと引っ搔いて小刻みに震える。


「玻瑠璃……あれは……」


隠形を使ったままの珠王丸が呆然とする。見鬼の綱には珠王丸の姿は見えている。


綱は初めて見る玻瑠璃の憎悪に満ちた蒼白な表情を見て心配する。その灰色の瞳は、怒りでぎらぎらと光っている。そこでやっとほかの少年たちが追い付いて、玻瑠璃と綱の背後で苦しそうにあえぐ。




「あの男……」


忘れもしない。半月前、幸せな播磨での玻瑠璃の暮らしを突然に奪った人物。祖母を切り殺し、姉を凌辱して切り殺し、邸に火を放った男——清水親長。


「う……わっ!」



ゆらり。



玻瑠璃の全身から、憎悪と怒りが深紅のオーラとなって立ち上る。その気迫に虚を突かれた綱は、その場にすてんとしりもちをついた。




 

ふたりが家に入って間もなく、中から親長はもうひとりの男を伴って出てきた。二十代の前半くらいだろうか、全く隙のない、眼光鋭い色白の優男。


珠王丸はその男を見るなり、玻瑠璃の暴走し始めた深紅の気配を隠した。


「あれ? 小一条殿の随身と、もうひとりは……近頃あちこちの貴族の邸に出入りしている、怪しい唱聞師しょうもじだな」


挙賢が息を整えながら言うと、弟の義孝もうなずいた。


「ああ……あの浅黒さ、目つきの悪さ、間違いなく清水親長、小一条の大叔父の随身だね。色白のほうは……まがまがしい気をしてるなぁ。うん、例の唱聞師に違いない」


「唱聞師……」


吉平が眉をひそめる。


「ああ。たしか、播磨の国のの何某とかで……死人を生き返らせるとか、ひとを呪殺するとか、あくまで噂だけどね。実は、うちにも時々来るんだ」


義孝の言葉に玻瑠璃は反応して振り返った。


「本当か? あいつは何のためにお前たちの邸に現れる?」


「うーん。よくわからないが、父上が何かさせておられるようだ。別の噂もある。女房達の噂では、最近うちに入ってきた、新参者の若い女房のもとへ通ってくるらしいって。どちらが本当なのかはわからないけど」


十三歳にしては客観的な観察眼を持っているし、口調も幼さは感じられない。とても次郎と一つ違いとは思えない落ち着きぶりである。この少年の気はまるで山奥の小川の水のように清らかで、彼自身はどこか神々しい。



「あ」


玻瑠璃は息をのむ。後から出てきて二人の男たちを見送っている先ほどの女。間違いない。美月だ。


彼女はお辞儀をして、男たちを恭しく見送っている。親長と唱聞師は小柴垣のそとでそれぞれ別方向に歩き出した。そして美月は再び家の中へ姿を消した。



「なんか……まがまがしい雰囲気の奴らだな」


綱の言葉に少年たちは無言でうなずいた。神力かなくても、誰が見ても邪悪な雰囲気の男たちだ。


「あの唱聞師のほうは報酬のためならば、何でもするというぞ」


義孝が口を引き結ぶ。


「あの唱聞師はお前たちの家によく現れるのだろう? ではあの随身のほうは?」


玻瑠璃は義孝に訊いた。彼は肩をすくめる。


「いや、あの随身は大叔父の共として以外は来たことがないと思うよ。奴らが知り合いだとは、初めて知ったし」


弟の言葉に挙賢がうなずく。


「なるほど。私はあの随身の名前は知らなかったけど、そうか。清水親長とはあの男のことだったか。私の乳兄弟によるとすごく嫌な奴で、仲間内でも悪評が高いらしい。最近、西京に通うところができて、それがあの男には似つかわしくない美しい女人で、あちこちで自慢しているって。たしか、名を望月の君とか……」


「なん……だって?」




望月。



絶対に、美月のことだ。玻瑠璃は唇をきつく噛む。赤く血色のよい可憐な唇がゆがみ、白くうっ血する。


「玻瑠璃」


吉平が心配そうに玻瑠璃の華奢な背に触れた。彼女の怒りのオーラは吉平にも見えている。


「そんなはずはない……吉平、そんなはずはないんだ。姉さまは……姉さまは、あの夜、私の目の前で……」


玻瑠璃は振り返り、吉平の袖に縋りつく。


やがて家の中から琴の音が聞こえてくる。玻瑠璃の体がびくりとはねる。


十三弦の琴の、懐かしい音色。やや癖のある弾き方。あれは、あの演奏は、美月そのものだ。


「あれは……まぎれもない、姉さまの琴。なぜ……? どうなっている? 姉さまは半月前に、あの男に喉をかき切られて死んだのに……」




玻瑠璃のつぶやきに、一同は言葉を失った。

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