第31話

夢の中。



まどろみ。これは……光あふれる、コロイド状の水の中。



青、


あお、


蒼、


藍、


碧、


アオ、


青い……水の中。





玻瑠璃は体を横たえたまま、とろりとした水の中でゆらゆらとたゆたっている。


薄く目を開けてみると上方から光の柱が幾すじも差し込んできて、きらきらと輝いている。




きれい……



ふうわり。


何かにそっと押し上げられ、彼女の体は徐々に水面近くへ浮上してゆく。


心地よさにうっとりと目を細めていると、どこからともなく不思議な声が聞こえる。男の声とも、女の声ともわからない、不思議な声。



   ――龍王の娘よ、帝王の母よ



はっ。


覚醒。


西の対、最近見慣れてきた天井が見える。




「また見たのか?」


珠王丸が宙に浮いたまま、玻瑠璃の顔を覗き込む。褥から上半身を起こして深呼吸すると、玻瑠璃はこくりとうなずいた。


僧都殿で赤い単衣に張り付かれ窒息して仮死状態になった時から、繰り返し見ている夢。悪夢? 吉夢? よくわからない。


「やはり、晴明様に夢占ゆめうらをしていただいたら?」


「いや、いいよ……」


再び深く息を吐きながら、玻瑠璃は頭を横に振った。


「このところお前、調子が悪そうだ。せっかく、人並外れた火性の男に遭えたというのに。あのすごい気! お前の懐の中で私は身震いしたよ」


「ああ、あの男の気はすさまじいな。あの目を見ると足がすくんだよ。危ないな、逃げないとなと思うのに、同時にすごい引き寄せられるんだ」


珠王丸は宙でくるりと回転する。


「ふぅむ。それは夫候補として、引かれているのやもしれないな」


「わからない。私は誰かを恋い慕ったことがないからな。いままで身近な男と言えば、おじじ殿と姉さまの初恋の君の正成殿くらいしかいなかったからな」


「今は周りは男だらけだぞ」


「確かに。でもなぁ、晴明殿には父親のような安堵感、吉平と次郎には兄弟のような安心感、綱やのっぽくんにも親近感は感じるけれど、誰もあいつみたいな怖さは感じないんだ」


「うぅん。私も人ではないから、的確なことはわからないが……」


「お前、気が付いたか? あの男、私を見てすぐに、宝珠、と言ったんだ。もしもお前の気配を見た・・としたら、すごい神力の持ち主だとは思うけれど、あまり呪術は得意なほうではなさそうだったな。それに、あいつ、あの鬼も……」


「野相公か?」


「うん。あいつも訳の分からないことを言っていたな。覚醒とか、同族とか……なんか引っかかるんだ」


「あ、は、玻瑠璃、それは私にも何とも言えないな。私はただ、お前のことを守護するだけだもの……」


玻瑠璃は宙に浮きうろたえて左右に目を泳がす珠王丸を半眼で冷ややかに見つめた。


「ふん、精霊は嘘はつけないものな、珠王よ。お前は何か知っていて、私に話していないんだよな」


「……」


「あっ、こら、珠王!」


制止も聞かずに珠王丸は実体の宝珠に戻ってしまった手のひらの上の宝珠を忌々し気に見て、玻瑠璃はちっと舌打ちした。




「玻瑠璃、いる?」


東の対の渡殿。


高欄にもたれかかりうつらうつらとうたた寝しかけながら三分咲きの桜を眺めていた玻瑠璃のもとに、ちょっとご機嫌な様子の吉平がやってきた。隣にすとんと座ると、彼は嬉しそうに言った。


「いま西の対に忠明と綱が来ているんだ。一緒に市に行かないか?」


「いち?」


「うん、市。都に来てからまだ一度も行ったことないよね? 面白いから、行こうよ。知り合いにばったり会うこともあるんだ」


宴の松原以来、玻瑠璃が少しぼんやりしていることが多いと花霞に言われた吉平は、気分転換に市見物に連れ出そうと考えた。


玻瑠璃ははっと吉平を見て、心配させてしまっていることに気が付いた。そして柔らかく微笑むと、素直にこくりとうなずいた。


「うん、行く」


「うん、行こう」


吉平はそっと安堵の吐息をついた。



一行は東の市へ向かう。




平安京は完璧に近い魔方陣都市だ。


北側に大内裏、南側には羅城門。その二つを朱雀大路が結び、都を東西に分けるメインストリートとなっている。羅城門から大内裏へ向かって右側を左京、左側を右京と呼ぶ。これは大内裏におわす天皇が朱雀大路に向かって都を見る方向による。


右京は湿地帯が多いためにまだあまり住宅地化は進んでいない。住居はあるにはあるが、土地が安いからと仕方なく住む裕福でない者たちのものや、うらぶれた雰囲気がかえって風情があるからというもの好きの貴族の別荘などだ。沼や荘園、手つかずの湿地帯がその大半を占めている。




左京の大内裏付近は高級住宅街や官庁街、公の施設が集まっている。朱雀大路沿いには外国からの来賓を持てなる東西の鴻臚館こうろかんや、王城の入り口を両脇から守護する東寺とうじ西寺さいじがある。最近は鴨川沿いにも住宅地が拡大しているので、ますます右京はうらびれてきている。



東の市は六条から八条にかけての左京の櫛笥くしげ小路から油小路にかけての場所にある。周囲を塀に囲まれていて、開閉門時間が決められている。西の市は七条辺りにあり、東の市の三分の一程度の規模である。


これらの市は朝廷の役所によって管理されていて、許可なく自由に物を売ってはいけないとか、決められた品物しか売ってはいけないとかの決まりごとがあるが複雑で難しいぶん、いろいろなものが公正な価格で手に入る。だから庶民ばかりでなく、僧侶や貴族も見物に来る。


物の売買だけでなく、僧侶の辻説法、大道芸にばくち打ち、闘鶏、蹴鞠の庶民版、絵描きに占い……なんでもありの一大アミューズメントプレイスなのだ。




「何を買おうかな」


浮かれる吉平に綱が横から呆れた目で言う。


「そう言っていつもお前は食い物にしか興味ないよね」


吉平は出鼻をくじかれてむっとする。


「なんだよ、いいじゃないか別に。お前だって同じだろう!」


「へへへ。まぁな」


数歩前を姿を忠明と隠形で見えなくしている珠王丸と歩いていた玻瑠璃が首だけ振り返って呆れ、そのあと忠明を見た。


「なんだお前たち。好きな女人もいないのか? のっぽくんは恋人に櫛でも買うのだろう?」


「うん、そうだなぁ。櫛、いいね。それで玻瑠璃は何か欲しい物はないの?」


「あはは。私も……菓子など、かな。ふたりのこと、言える立場ではないな」




市の門外の前まで来ると、吉平は後ろから呼び止められた。


「よう、吉平!」


吉平は声のほうを振り返り笑顔になる。


「あ。挙賢たかかた義孝よしたか


忠明と綱はぺこりと頭を下げる。


吉平とて本来ならば彼らとは対等に話をできない身分であるが、ご近所同士、物心つく前からの幼馴染として、非公式な場では幼い頃のまま親しくしている。







見るからに質の良い絹の狩衣姿の少年たちは、優雅に微笑んだ。


一条大納言藤伊尹とうのこれただの三男挙賢と四男義孝。伊尹は亡き九条殿師輔の長子なので、小野宮左大臣実頼はふたりの伯父に、小一条大納言師尹は叔父にあたる。彼らは今上帝の姪である皇族出身の母を持ち、同腹の姉は東宮の女御となっている。


挙賢は十四歳、義孝は十三歳。すでにふたりとも元服を済ませている。なんとも品のある、美しい少年たちだ。


「あれ? 丹波君と渡辺君と……見かけない子が一緒だね」


挙賢が玻瑠璃に微笑んだ。


「ああ、これは玻瑠璃と言って父の弟子で、うちでともに暮らしているんだ」


吉平に腕を引かれ、玻瑠璃は彼らの前に出される。


挙賢が玻瑠璃の瞳を見つめて新鮮な驚きに目を見開いた。なにか言いかけて口を開いた彼に、玻瑠璃は先回りして伝える。


「私は晴明殿の子ではないぞ」


はは、と挙賢は素直な笑顔を見せる。


「そうか。よろしくね。私は挙賢、こちらは弟の義孝。吉平の幼い頃からの友達だよ。きみ、すごくきれいな子だね」


玻瑠璃は一条兄弟に会釈した。そして視線を上げた瞬間、人懐こい兄の傍らにいた弟のほうと目が合った。


きれいなの子なのは、この弟のほうだ……


玻瑠璃はそう思う。兄も弟も、整った上品な顔立ちをしている。兄のほうは明るく陽気で人懐こく、凛々しい感じ。弟は、物静かで思慮深そう。男なのか女なのかわからない、中性的で透明感のある美しさ。まるで人ではなく、精霊か何かのような浮世離れした美しさだ。


目が合った時、彼はかすかに微笑んだ。玻瑠璃も軽く笑み返した。


「またあなた方は。供を巻いてきたみたいですね」


忠明の問いに挙賢は首をすくめた。


「いや、離れてつけさせているよ。私たちとて、常に黙ってこっそりと抜け出してくるわけではない。母上に何かよきものを、許可を取って探しに来たんだ」


「では、一緒に見て回ろう」


吉平の申し出に、二人の少年は嬉しそうに首肯した。

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