火性の男

第30話

「光栄殿は、昔はとてもお優しい人だったんだよ。常に優しい気をまとっていて、今のように他人を強いて遠ざけようとはしなかったんだ。十年ほど前までは、保憲殿とも普通の父子で、とても仲がよろしかった」


玻瑠璃と吉平は雨の中、家路をたどっている。玻瑠璃はもともと先に戻っていてよいと晴明から言われていたし、吉平も講義がなくなったせいで一日空いてしまったのだ。


「お前たちだけで大内裏にいても、ろくなことがないようだ、先に戻れ」と、晴明の式神の紙人形が二人のもとに伝言を届けてきた。


雨はまださらさらと降り続いている。吉平は傘をさし、玻瑠璃が濡れないように斜めに傾けながら歩いている。


「そんな人が、どうしてあんなやけくそに怖い感じになるのさ? もしかして、あいつの後ろにいる、悲しそうな顔の女人が何か関係があるのか?」


「うん、これは……賀茂家とうちだけの秘密だけど。光栄殿は十代の時、ある女人と恋に落ちたんだ。そのかたは大貴族の姫君で、ゆくゆくは入内じゅだいが決まっていたんだ。だから猛反対のうえ、強引に仲を引き裂かれて。結局、その姫は入内して皇子をお二人お生み参らせて、今年の初めにみまかられたよ」


「ははぁ……それもう、相手が誰なのかすぐにわかるね。宣耀殿の女御か」


「二番目の兄の斉時殿がかなりひどいやり方で仲を裂いたのだって、保遠殿がおっしゃっていた」


「保遠殿? あのちょっと頼りなさそうな……暦学生で、光栄殿には弟叔父おとおじにあたる、あのかた?」


玻瑠璃は陰陽寮でよく見かける、二十歳の青年を思い出した。穏やかな表情をしているが、青白くて生気がない。たぶん勉強のしすぎであろうが、いまにも倒れそうに見える。自分の兄の慶滋保胤よししげのやすたねの養子になり、賀茂ではなく慶滋を名乗っている暦学生だ。


「うん。当時私はまだ五つくらいだったから、全く覚えてはいないけどね。保遠殿は今の次郎くらいだったから、大人たちの話を漏れ聞いて知っていたみたいだね。なにせ相手が相手だから、賀茂家断絶の危機だと保憲殿も青ざめていたとか」


「そうか……なぁ、吉平よ」


「なに?」


「身分違いでは、都では結ばれないのだな」


「うーん。女人のほうが身分が低ければなんとかならないのかもしれないけれど、大貴族が相手となればほぼありえないね。まつりごとも絡んでくるから」


「ふぅん。かなしいな。みわ家ならば、夫はどんな身分でも誰も何も言わないのにな」


「お前の家は特殊なほうだよ」


「大貴族に生まれなくてよかった」


「違う意味で、家族は苦労しそうだけど……まあ、とにかく、そういうわけで光栄殿はそれ以来あんなふうさ。大親友だったおかたも今では出家されて都にはいらっしゃらないしね。玻瑠璃の言うとおり、やけくそって感じ。誰も信じない、誰も愛さない。今年の初めからは、特に……」


吉平はため息をつく。玻瑠璃はぼんやりと、光栄が袖に隠していた数珠を思い出す。


「袖の中に、数珠を隠し持っていたな」


「やはり……ひそかに、喪に服しているんだね」


周りの温度を数度ほど下げる、冷ややかな怒り、憎しみ、怒り、失望、孤独の燃え盛る気。深い深い悲しみと、限りないむなしさ。感知するこちら側まで胸が締め付けられて苦しくなる。


「今日は初対面でいきなり怒られてしまったけど、光栄殿はいいかただよ。慣れてくればそれがきっとわかってくるはずだから」



吉平は玻瑠璃に笑みかけた。


「うん……」



玻瑠璃は胸を押さえた。


吉平には、わからないのだろうか? あの、どう猛な、手負いの獣のような瞳。


怖くて怖くて身震いが止まらないのに、心臓を乱暴にわしづかみされるような大きな不安。喉が引きつって声も出ないほどに感じる、あの強烈な火性……



  ――どうかこのひとを、救ってたもれ。



高貴な亡霊は、手をすり合わせて玻瑠璃を見つめて懇願した。しかし、見えていない、聞こえていないふりを通した。



ふるりと身震いした玻瑠璃に気づいて、吉平は眉根を寄せた。


「玻瑠璃、寒いの? やはり、雨の中を歩くのはよくないね。さぁ、早く帰ろう。花霞に温かい薬湯を煎じてもらおう。今日はもう、出かけてはいけないよ?」


玻瑠璃ははっと我に返り、傘をさしかけてくれている吉平を見上げる。背丈は二寸(六センチ)ほど高いが、その柔らかな笑顔は清らかでまだ少しあどけなく、とても愛らしい。忠明のように軽々と玻瑠璃を抱え上げることはまだ難しいくらい華奢ではあるが、重く大きな傘をずっとさしかけていてくれるところを見ると、やはり玻瑠璃よりは力があるのかもしれない。


先ほど遇ったあの男とは対極の、憎しみやむなしさとは無縁の笑顔。その無垢さゆえによこしまなものに付け込まれないようにと、父の晴明がひそかに勧請した小さな白い龍が、頭上で彼を守っている。




じっと見つめていると、吉平は居心地が悪そうに首をかしげた。


「うん? なに?」


玻瑠璃はふと口元をほころばす。吉平の気は、清浄で無垢で美しい。本来であれば強すぎる火性の光栄は金性の吉平にとっては最悪の相性なのだが、吉平をつぶさないように壊さないように、細心の注意を払って接しているようだ。


「いや、何でもない。今日は次郎は出かけているんだったな。なぁ、帰ったら何をして遊ぼうか?」


「お前はいつも、遊んでばかりだ。父上に叱られるぞ」


「お前こそ、いつもいつもまじめくさって、つまらないことばかり言う。遊びながら覚えられることは、たくさんあるのに」


「なんだ、私はまた子守か。次郎に手がかからなくなってきたと思ったら、今度はお前だよ」


吉平は唇をとがらせる。その表情がかわいくて、玻瑠璃はついくすくすと笑みを漏らす。


「お前は私の兄気取りだな」


「お前よりは年上だもの」


「ほんの一つじゃないか」


「一つでも、上は上だ。兄上と呼んでも……いいけど?」


「呼んだらお前、照れて真っ赤になるくせにそういうことを言うか」


「なっ! そんなわけあるかっ!」


「うーん、そうだなぁ。覆物で五回連続で私に勝ったら、呼んであげてもいいぞ?」


「よし。それでは今日は必ず勝つ!」


吉平は左の握りこぶしを顔の前に挙げた。玻瑠璃はまたくすくすと笑う。



その日の春雨は、結局ひねもす降り続いた。

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