相乗
第29話
「ええ?」
「なんだあの複雑な感情。燃えるような赤に近い橙色の気が、すべてを焦がし焼き尽くすくらい激しくて、それなのに氷のようにぞっとするほど冷ややかで鋭い。すごく深い孤独とか寂しさとか絶望とか憎悪……なんだか負の感情がまじりあっていて、あんな色になっているのだと……思う」
光栄の姿が見えなくなると、玻瑠璃はやっと緊張を解いた。吉平は傘をさしたまま玻瑠璃の手を引いて宜秋門の軒下まで移動する。
「うーん。確かに、光栄殿はわざと他人を寄せ付けないようなところがあるし、あのぞんざいな言い方でお父上の保憲殿の不興を買ってしまうけれど。私は光栄殿のことは好きだな。先輩としては誰よりも厳しくて、でも幼いころから兄のように私たちの面倒をよく見てくれて……いまでも私がどじを踏むと悪態をつきながら怒るけれど、そのあとはひそかに手助けをしてくれるんだ」
吉平は少し困惑している。玻瑠璃の過剰な反応が良く理解できない。
「火……火だ。すべてを焼き尽くすほど激しい
「たしかに、光栄殿は火性だけど……」
「あの男、最近、身近な誰かを失ったのだな。誰かな……若い女だよ。左手の黒い数珠は、きっとそのためだ」
光栄の鋭い目を思い出して、玻瑠璃は吉平の腕にしがみついた。
「そんなこともわかるの? そう、光栄殿にはまだ正妻はいないのだけれど、あちこちで浮名を流しているから……その中の誰かかな?」
玻瑠璃は先ほど見たものを思い出す。
光栄の燃え上がる憤りのオーラの向こうに、一人の若い女の霊を見た。小柄で色白で、垂れ気味の大きな黒い瞳。優し気な顔立ちのかわいらしい女。彼女は悲しそうに、波長の合った玻瑠璃に思念を送ってきた。
――このひとのことが心配で心配で、私は去るに去れずにこうして
身分違いの恋であったのだろうか? かなり高貴の姫君のように見える。羽織った袿もかなり高級なものなのだろう。
女はまっすぐに玻瑠璃を見つめた。そして、また彼女の思念が玻瑠璃の頭の中に聞こえる。
――そこのあなた。どうかこのひとを、救ってたもれ。
玻瑠璃は女の霊から目をそらした。光栄にかかわってはいけないような気がしたからである。
彼にかかわってはならない。
なぜならば、彼はとてつもなく強力な火性なのだ。亡き祖父がかつて言っていたような、ずば抜けて強い火性。
玻瑠璃は生まれて初めて、火性の塊のような人間に出会って本能的に危険を察したらしい。
陰陽寮の
「めずらしいな、晴明殿。明るいうちから、出仕なさっておられるとは」
光栄の口調にはいくぶん棘がある。負けず嫌いの彼にとって、誰よりも優れた力を持つ晴明は彼が物心ついたころからの憧れであり超えたい存在なのだ。
晴明はそんな二十も年下の負けず嫌いの弟とも息子とも思える光栄に柔らかく笑みかけた。
「雨の日は星が見えぬゆえ、書物の整理でもせねばな」
「先ほど、宴の松原でお宅のお子たちが、なにやら鬼と戯れていましたが。大内裏では幾分ふさわしくない遊び、注意されたほうがよろしいのでは?」
「ふむ。そうか、そんなことをしていたか。それは注意せねばな」
「ところで晴明殿、吉平と共にいたあの
「玻瑠璃のことか? うん、残念ながら、我が子ではない。あの瞳の色ならば、そう思われても仕方がないがな。まぁ、我が子同然だが」
「ほう? 吉平も次郎もその瞳の色は受け継がなかったのに、赤の他人が同じ色とは。あなたと同じ、灰色の瞳。龍の守護。あなたのお子でなければ、あれは一体何者なのですか」
探るような目つきの光栄に、晴明は空とぼけたのんびりした口調で答える。
「いずれ……あれの力が完全に目覚めたときにまた訊いてくれたらおしえよう」
「なにやら秘密のにおいがするな」
「秘密はお互い様であろう」
二人はふと笑みあった。
「——もし、安倍晴明に娘がいたら、どんなに年が離れていようとも、角が生えていようともしっぽが生えていようとも、どんなに気性が荒く、どんなに
晴明は自信に満ち溢れた光栄にふふ、と笑みを漏らす。
「そうさな。あの娘がお前を望むのであれば、俺は反対はしないぞ。あれが望めば俺は、お前にでも主上にでも東宮にでも、盗人や
「播磨の国から来たと吉平から聞きましたが」
「ああ。代々続く、巫覡の家の直系の見習い巫女だ。かの家の巫女たちは、身分に関係なく自らの意思で夫となる者を選ぶ。お前がもしあの娘を欲するのであれば、まずはあれの関心を引かねばな。無理矢理は困るぞ。天変地異が起きるやもしれないからな」
「関心か。俺の最も苦手なものだな」
光栄の生意気な口調は、幼い頃から直らない。
もう立派な成人だが、晴明にはまだまだ幼子のように思える。目の前で子犬がきゃんきゃんと威嚇しているようなものだ。
晴明の余裕に満ちた微笑を見て、光栄は自分がまだまだひよっこ扱いされていることを悟る。
軽く会釈をすると、光栄はくるりと背後を向くとその場を去っていった。
晴明は光栄から立ち上る赤っぽいオレンジの気をじっと見つめ、独り言をつぶやく。
「——あれほどの強烈な火性の男だと、お前の強い水性を安定させてくれるのだがな、玻瑠璃よ」
陰陽寮の東側を下り、太政官と宮内省のちょうど中間あたりに差し掛かった光栄は、前方から近づいてくるものものしい一団に気づき、それが誰の一団なのかを悟って不快に目を細め小さく舌打ちした。
「——くそっ。ついてねぇな」
立ち止まって端に寄り、うつむいて控えて一応の形ばかりの敬意を示す。
今現在で光栄が最も憎み嫌う男が、彼の目の前で立ち止まって威圧的な口調で横柄に言葉を発した。
「おやおや。春の雨にしとどに濡れそぼった水も滴るいい男は誰かと思えば、なま呪い師よ、お前であったか」
扇をはらりと半開いた陰で光栄を見下したのは、小一条権大納言藤原師尹の次男・斉時である。光栄よりも二つほど年下の二十七歳。その性格の悪さは周知の事実。筋金入りの嫌われ者だ。
その男が墨染の直衣を着ているのは、今年の初めに妹の宣耀殿女御・芳子がたった二十六歳の若さで病死し、その喪に服しているためだ。この男はどこに行っても評判が悪いのだが、光栄のことはほかの誰よりも目の敵にして嫌悪を隠さない。
光栄もまた、この男が死ぬほど嫌いだった。彼は侮蔑に目を細め、口の端をかすかに上げた。
「こ、この無礼者め!
随身の一人が光栄に食って掛かるが、光栄は涼しい表情を崩さない。
「ふん、よい。こやつの怨みを買って、呪い殺されてはたまらんからな。身分は低いが、たいそう優れた呪術師さまさまであられるからな」
扇の陰ででっぷりとした丸顔が傲慢にゆがむ。ほほほほ、という男にしては高い笑い声をあげ、斉時は供を引き連れてその場を去ってゆく。
「ばか殿めが」
吐き捨てるようにつぶやくと、光栄は袖の中にひそませた数珠を、さらりとまさぐった。彼もまた、人知れず喪に服しているのだ。
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