相侮

第28話

雨が止む。



正確に言えば、鬼に話しかけられた時から、吉平と玻瑠璃の上にだけ雨が落ちてこない。


ふうわりと、沈香の深くあてやかな薫りがけぶるように漂ってきて、吉平は声にならない叫び声をあげた。彼がほんの瞬きをする間、二人の目の前にすらりと長身の優雅な男が現れて、嫣然と微笑みかけてきた。




「あ、あなたは……私が幼いころ、よく一緒に遊んでくださった……」


「そうだ、ちび太郎。おっと、今や元服して吉平というのであったな」


「あなたが、お、鬼だったなんて……」


野相公は喉をのけぞらせてあははと笑った。


「幼過ぎて人と鬼との区別もできなかったか。まぁ、俺も名乗らなかったしな。お前は俺のことを『やしゃん』と呼んでいたっけな」


「なぁんだ、やはり知り合いだったか。そうだよな。晴明殿と知り合いならば、その子である吉平とも知り合いであってもおかしくはないな。ところで野相、宴の松原もお前の縄張りなのか?」


「俺は犬か? 出てきたいところにはいつでも出てくるさ。俺の家は大内裏の近所だが、言っておくが、ここで人を食らうと言われているのは俺ではないぞ」


「へぇ? ここで人が食われるのか?」


首を傾げた玻瑠璃の質問には、吉平が答える。




「昔、ある夜に三人の若い女房ばらがここを歩いていた時に、一人の若く美しい公達に出くわしたんだ。その公達は一人の女房を松の木陰に手招きして呼んだ。女房は公達の呼ぶほうへ行って、しばらくの間は二人の会話が聞こえていたんだけど……そのうち、どちらの声も聞こえなくなった。おかしいと思った二人の女房達が覗きに行ったところ、そこには食いちぎられた腕と血だまりだけが残っていた……というわけさ」


「ああ、なるほどね。で、その公達はお前ではないと。でも鬼なのだから、お前も人を食らうのではないの?」


好奇心に満ちた玻瑠璃の問いに、案外冷静なまま野相は答える。


「ふん。食おうと思えば食えないことはないが、美味いものでもないゆえに好んでは食わん。俺はもっぱら、楽のや詩を食らう」


「はぁぁ。さすがに風流だなぁ。琵琶もうまいし」


「吉平が幼いころは、よく舞や楽を教えたものだがな。残念なことに、あまりよく上達しなかった」


野相の言葉に玻瑠璃は吹き出す。くすくすと笑う二人に、吉平はバツが悪そうに赤面する。


「……いまだにへたくそです」


「そうか? 横笛はなんとかいけてるぞ? それで、野相よ、ここでお前は何をしているの? しかも、昼日中からうろついて、よほど暇なようだな」


「お前たちと一緒にするな、小娘。俺は生前から夜ごとあの世とこの世を行き来して、閻魔の遣いなどをしているのだ。今日は近々あの世に行く予定の貴族どもを、何人か観察しに来たのだ」


「へぇ、あの世とこの世を行き来するとは楽しそうだな。それはどのようにするの?」


美しい灰色の瞳が好奇心で輝いている。その無邪気な質問に野相は不敵な笑みを浮かべた。


「井戸やら鐘堂やら墓場やら、いろいろなところに出入り口があるのさ。興味があるのなら、いつか見学に連れて行ってやってもよいぞ」


「う、うん、遠慮しておく。それより……んむっ?」


何かを言いかけた玻瑠璃の口を、野相は人差し指で抑えて止めた。


その涼し気な双眸を左右に動かして辺りの気配を読み取ると、大きなため息をついて二人に言った。


「人が来る。やれやれ……やけにとげとげしい、攻撃的な気だな。陰陽の術を多少操る者のようだ。厄介そうだから俺は去る。ではちびども、また会おうぞ」




一陣の風が起こり、次の瞬間、野相の姿は跡形もなく消え失せた。




「……」


吉平と玻瑠璃は顔を見合わせた。傘をすぼめていたので、再び二人の上に雨が降り注ぎ始めた。吉平はわれに返り、慌てて自分と玻瑠璃の頭上に傘を開いた。




「おい! 吉平っ!」


真言院のほうから一人の若く長身の男が、傘もささずに濡れたまま大股の速足でこちらにやってくる。肩がすこし上がっているので、不機嫌そうだ。


「!」


玻瑠璃は本能的にさっと吉平の背後に身を隠し、彼の袖をぎゅっと握りしめて身を固くした。吉平は玻瑠璃のその行動に面食らう。


「玻瑠璃? なに、どうかした?」


「よっ、吉平っ、あれは誰だ? なんだか、すごく怖い……野相より怖い気だ」


吉平は苦笑する。


「ええ? 怖いものか。あれは……」




「おい吉平! お前たちここで何をしている? お前の後ろに隠れているのは次郎か? 今ここで、何を呼び寄せていた?」


男は二人の目の前で立ち止まり、厳しい表情で二人を睨み下ろした。吉平の肩越しに見えるそのオレンジ色のオーラは激しくフレアアップしていて、今までに感じたことのない激しさと強さに、玻瑠璃は無意識に恐怖で全身が震えた。


「呼び寄せていたわけではないのですが……」


吉平は初めから逆らう気は毛頭なく、ただうなだれた。


「すさまじい鬼の気配だ。お前らが鬼など呼び寄せるのは十年早いわ。死にたいのか? 子供の遊びで相手にしていい奴らではない。おい、次郎、お前もだ!」


男は吉平の背後で身を小さくしている玻瑠璃を覗き込み、切れ長の鋭い目を見開いて感嘆の声を上げた。


「なっ……宝珠? この気! お前、何者だっ?」


吉平は首をかしげて男を見上げる。


「はい? 光栄みつよし殿?」


「こいつは誰だ?」


光栄の問いに吉平は、自分の背中ら玻瑠璃を引きはがして前に押しやった。


「は、はい。玻瑠璃と言います。先日、わけあって播磨の国より父を頼り上京してきました。今は父の弟子ということになっており、安倍家で暮らしています。玻瑠璃、こちらは賀茂光栄殿だよ。わかっていると思うけど……保憲殿の長子で、暦得業生でいらっしゃる」


玻瑠璃は恐る恐る目の前の男を見上げた。一見、優男風。顔立ちは知的に整っているが、眼光が鋭くて隙がまったくない。二十代の後半だろうか? 細身だが長身で、野相より少し低いくらい。玻瑠璃は生まれて初めて、誰かの気迫におされて足が震えるということを経験した。


目が合う。すると光栄の表情が好奇心で少し緩められた。


「ほう。なんだ、晴明殿のお子、お前の妹か、吉平。瞳の色が晴明殿と同じ、発している気も似ている。おい、そんなに怯えずとも、とって食ったりしないぞ」


「……」


玻瑠璃は無意識にただただ「怖い」と感じていた。自信に満ちた、つよい輝きの気をまとった男。野心家の目をしている。陰陽の家系の後継者だが、お坊ちゃん、という感じではない。


限りなく野性味にあふれた魅力的な男だが、女としてはまだまだ未熟な玻瑠璃には、それがまだわからない。わかることは光栄が攻撃的で懐疑的で、決して他者には本心を見せずに心を閉ざしているということだけだった。




あ、袖の中、左手に、黒檀の数珠を握っている……




それは見えないようにだが、光栄の手にしっかりと握られている。


光栄が少しだけ身を屈めると、玻瑠璃は吉平の背に再びするりと身を隠した。


「ふん、嫌われたか? 童姿だが、次郎よりは上のようだが」


「童姿なのに、女だとわかるのですか?」


「わからないほうがおかしいだろう? ところで、母親は誰だ? お前たちと同じではないよな?」


「いえ、父の子ではないのです。私も初めはそうかなと思いましたが……しいて言えば、同族、とのことです。おかしいなぁ。人見知りではないはずなのに……」


吉平は自分の背にぴたりと張り付いている玻瑠璃を肩越しに振り返って苦笑した。


光栄は腕を組み、ため息をついた。


「ふん、まぁいいさ。とにかく、だ。お前たち、宴の松原で鬼など呼ぶな。いくら昼間で陰の気が弱いとはいっても、何もないとは限らない。ばれたらうちの頑固おやじ殿に大目玉を食らうぞ」


吉平が言い訳しようとして口を開きかけたときにはすでに、光栄は踵を返してその場を離れていった。




玻瑠璃は吉平の背に張り付いたまま、光栄の後ろ姿が遠ざかっていくのを確認してほっと安堵のため息をついた。


吉平の腕のあたりの衣をぎゅっと握りしめる小さな手はまだ小刻みに震えている。その震えは吉平に伝わってきて、光栄を幼い時からよく知る彼を混乱させる。


「玻瑠璃? どうしてそんなに怯えてるの? 光栄殿は愛想はないけど私の兄のような方だよ?」


苦笑する吉平の袖を握りしめたまま、玻瑠璃はふるふると首を横に振る。


「鬼より怖い男だ……」

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