再会

第27話

朝からやわらかな春雨が、ひらきかけた桜のつぼみをはんなりと濡らしている。



大内裏、陰陽寮の軒下で、玻瑠璃と吉平は高欄に腰かけて、さらさらと振り続ける蜘蛛の糸のような雨を見つめている。


「——うーん、やみそうにないけど、このくらいの雨ならばどうということはない。なぁ吉平、予定通りに行こうよ」


「でも……」


玻瑠璃は晴明のお供で大内裏へやってきた。吉平は早朝から出仕していたが、博士の病欠で講義が休校になってしまい、突然お暇を持て余してうろついていたところを父と遭遇し、外に玻瑠璃がいるからお守りをしておくように命じられたのである。


無事に玻瑠璃を見つけることができた吉平は、ある場所に案内してほしいと玻瑠璃にねだられていたが、彼は気が進まなかった。雨のせいだけではない。むしろ、渋る理由は別にある。



「なぁ、のっぽくんは? 今日は出仕していないのか? のっぽくんもいれば、おもしろいのにな」


「あいつはふだんは大内裏にはいないよ。薬園にほぼ入り浸りさ」


「つまらん。なぁぁ、やはり行こうよ、えんの松原!」


玻瑠璃は両足をバタバタと動かす。童姿なのでただの駄々をこねている子供に見える。しかし、ねだっていることはかなり物騒なことである。



吉平は小さなため息をつく。


「懲りないなぁ。僧都殿では死にそうになったくせに」


「あれはほら、穢れにあっていたからだ。今は体調も力も万全だし」


「でも……昼間は、これといって何もない、ただのうら寂しい場所だけど」


「だって、退屈なんだもの。何もないなら何もない確認になる。な? 少しだけでいいから、行こう?」




えんの松原。



吉平が行きたがらないのも、もっともな場所。


大内裏の中のミステリースポットのひとつ。


内裏の西側のちょっとした松林の、広場とも道とも形容しがたい場所。その南には豊楽院という、宴を開くときに利用する建物がある。


西側、内裏へ続く宜秋門ぎしゅうもんのそばには、空海が建てた真言院がある。


ここが朱雀門と並ぶミステリースポットとなっているのは、かつて空海がここで真言を唱え魔封じや物の怪の召喚を行っていたためかもしれない。


そのため、霊道が開きやすいのだ。それに内裏のすぐそばとはいえ、夜になれば深い深い闇に包まれて、何とも言えない不気味さを醸し出すためでもある。


実際、神力や霊力を持たない人でさえ、宴の松原で物の怪に出くわしたなどと言い張る人も多い。




「何もないよ」


「だーかーらー! それを自分の目で確かめたいだけ!」


「でももし、この前の赤い単衣みたいなのに出くわしたら?」


「心配ないさ。今日の私は万全だし、お前もいれば半人前と半人前で、一人前くらいの力は使える」


「うーん、仕方ないなぁ……」


吉平は高欄の上からぴょんと飛び降りた。玻瑠璃は両手を高く上げてそれに続き飛び降りる。


さらさらと降り注ぐ春雨の中、二人は一本の傘に入りくだんの場所へ向かった。




豊楽院のそばまで来ると,玻瑠璃はくすくすと笑いだした。


「ほらぁ、吉平。やはり何もないつまらない場所ではないぞ。鬼の気配がするだろう?」


「は? 何だって?」


吉平はぎょっとする。


「怯むな。恐れる必要はないさ。だって、昼間だもの。陽の気の時間帯では、大した悪さもできないだろう。うーん、強そうな気だが……まぁ、こちらが何もしなければ、何もしてこないだろう」


「根拠は?」


「私の勘だな。一番信用できる」


「はぁ……」


「あ、そういえばほら、前に教えただろう? 初めて京に上った時に、羅城門の楼上に泊まって、鬼と知り合いになったと」


「うん……衝撃的な話だったな」


「琵琶を聞かせてくれたんだ。玄上という、国の宝だとさ。あとできちんと宝物庫に戻しておくと言っていたが、本当に戻しておいたのかな? 鬼にしてはあてやかで優美な、話の分かる風流な奴だった。困ったときは気が向いたら力になってくれるというようなことを言っていたな。ええと、名は……」


玻瑠璃は雨の曇り空を見上げる。吉平はまたさらに驚く。


「お、お前、鬼に名乗られたのか?」


「うん。ああ、確か……野相とか言っていたなぁ」


「は? 野相……公?」


吉平は茫然として立ち止まる。


「鬼が……野相と名乗ったのか?」


「そうさ。鬼なのに晴明殿にも引けを取らないやたら美しい容貌かたちで、年は……うーん、三十路に入ったくらい。古めかしい貴族の格好をしていたな。六尺以上の背丈で、琵琶がそれはもうとてもうまかった」




「玻瑠璃。野相とは誰のことか気づいていないのか?」


「うん? どういうこと?」


「かつて、人間だったんだよ。人間で野相公といえばさ、いたよね、百年ほど昔むかしに……」


「ふぅん。百年前ならば、あの格好に合点がいくな。『勝手知ったる内裏』とかうそぶいていたのもわかる。国宝の琵琶のことも詳しかったしな」


「いや、そこじゃなくて。野相公と言えば、小野篁おののたかむらのことだろう。参議をしておられたから、唐の呼び方で参議を宰相と呼ぶだろう、それで小野宰相で縮めて野相というわけさ。学者の家系で幼少時から大変な秀才として有名だったお方だよ」


「なるほど、ではもとは人であったか。晴明殿とは知り合いのようだったな。よろしく伝えておけとか言っていたな」


「はぁぁ?」


吉平は脱力する。父に鬼の知り合いがいても今更驚かないが、その父の知り合いの鬼にすでに面識のある玻瑠璃に驚嘆する。


「ははぁ、だから奴は典雅な感じだったのか。小野氏と言えば学問の家系、一方では美形の家系。歌人の小町も同じ家系だな」


玻瑠璃は一人納得してうなずいている。


「たしか、五十代でお亡くなりのはずだが、まさか、鬼になっておられたとは……」


「うん。人が死して鬼やすだまになるときは、生前に最も念が強かった年齢の姿で現れるから、野相も若く美しい姿だったのだな」


「公のことが書かれた物語を読んだことがあるが、お若いころに悲しい恋をされたらしいから、たぶんその頃のお姿なのやもしれないね」


「悲しい恋?」


「うん。異腹ことばらの妹君と。昔は父親が同じでも異腹なら結婚もできたようだね。父の岑守殿と妹君の母親に仲を引き裂かれて、妹君は腹に子を宿したまま悲しみのあまり絶食して亡くなってしまったらしい。公はのちに大貴族の婿として左大弁にまで出世なさったけれど、お若いころは苦学生だったそうだね。そのころから、詩(漢詩)の才能には大変に恵まれていらしたらしいが」




ふいに、閃光が鈍色の空を真っ二つに縦に裂く。


そして大音量で響き渡る轟音。


地に振動が走る。




「わっ!」


「ひゃっ! びっくりした!」


吉平と玻瑠璃はほぼ同時に叫んだ。




にわかに、雨雲よりも暗く厚い黒雲が空を覆いつくし、宜秋門の上からくつくつと低い笑い声が聞こえた。


「ふうん、ずいぶんと俺のことに詳しいではないか? 安倍のちび太郎よ」


その声を聴いた玻瑠璃の表情がぱっと明るくなる。


「あっ! なんだ野相! お前の気配だったのか!」


吉平の傘を持つ手はかすかに震えていた。おそるおそる顔を上げて、宜秋門の上のただならぬ気配に視線を注ぐ。


「ち、ちび太郎とは……私のことを、そのように呼んだのは……」




遠い昔。




幼い吉平のことを「ちび太郎」と呼んでいた、背の高い優美なあの男は……

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