十三夜

第26話

やわらかな夜気におぼろげな十三夜月が、低い位置に顔を出す。



東の対の、玻瑠璃の部屋。几帳を立てかけた内側に、玻瑠璃は安やかな寝息を立てて眠っている。


枕元には珠王丸と花霞が座して眠る玻瑠璃を安堵の表情で見つめている。


几帳の外側の上座には目を閉じて晴明が座していて、下座にはうなだれた次郎ができる限り身を縮めて座している。その二人の中間には几帳を向いて吉平が。




「——大体の話は分かった。次郎も玻瑠璃も軽はずみであったな」


晴明が目を開けて次郎を見て静かに言うと、次郎はますます小さくなった。


「ごめんなさい……」


「悪かったと認めるか。それならば罰として自室に戻り、十二神将・八神将・五大明王に尊勝陀羅尼経を、良いというまで書写するように。これを機に、己の軽率な行動が他者にどのような影響を及ぼすのかを深く考えろよ。俺の許可が出るまでは外出禁止だ。賀茂家にも行ってはいけないぞ」


「はい……」


次郎はうなだれて肩を落とし、そのまま深くうなずいた。しおれた花のようにこうべを垂れ、のろのろと自分の部屋に戻って行った。




晴明は吉平の真意を探るような深い視線に気づいて、上の息子に淡い苦笑を見せた。


「少しくらい厳しいほうが、あれにはちょうど良い。もうそろそろ分別をつけてもよい年だ。それに、物の怪に出くわした時に、尊勝陀羅尼経くらいは唱えられないとな。それで? お前が玻瑠璃を助けたのだって?」


「はい。でも……正確には私が、というよりは玻瑠璃の守り刀が、ですね」


「ほう? あの刀は玻瑠璃が生まれたときに祖父の当麻殿が呪をこめて守護を施し、祖母の八雲殿が神家のご神体の神力を込めたもので、そん所そこいらの守り刀ではないのだ。ということはお前、あの刀と同調できたのだな。」


「はい? 同調、ですか?」


「うん。吉平よ、霊力が込められた刀とはな、誰が使っても不思議の力を発揮するわけではないのだ。使い手を、自らが選ぶのだ。刀と波長が合わなければ、相手にされないのだよ。僧都殿のあの赤い単衣は邪悪なものだが、大した力はない。玻瑠璃もいつもの状態ならば自力でどうにかできたであろう。だが穢れにあっていて無理だった。お前が間にあって、ほんとうによかった」




吉平は小さく息をつく。穢れ、すなわち気枯けがれ――気が弱まっている状態では、自分より弱いモノにも負けてしまうこともあるのだと、今回初めて知った。


「父上。あれの正体は、何なのでしょうか。なにやら、獣臭い不快なにおいが漂っていたのですが……」


吉平の問いに、晴明は片眉を吊り上げる。


「ああ? あれか? その昔、唐の時代に我が国に遣唐船で連れてこられたサルが、その正体だな。天竺てんじく(インド)の大道芸人のものであったが、唐で売られてこの都に連れてこられた。しかし、ある日逃げ出して迷い込んだあの邸の主につかまって、食い物を盗んだ咎でさんざんに打ち据えられて死んでしまった。それでそのまま、あの邸に憑りついているというわけさ。サルが死んだときに、誰かが赤い単衣にくるんであの榎の根元に埋めたのだろうな。自分を殺めた人間には玻瑠璃にしたようにして復讐を果たし、以来、邸に住まおうとする者を脅しているうちに、あそこまで廃れさせたのだな」


「今までどうしてどなたも清めようとはなさらなかったのですか? 父上も、なさろうと思えば簡単に清められるでしょう?」


「法力のない坊主どもが何度か試したようだな。俺は、以来もないのに余計なことはせぬ」


「はぁ……なるほど。また寝殿の中へ逃げ込んでいきましたが」


「うん? もういないぞ。お前がはらってしまったゆえ」


「えっ? 私が?」



吉平は驚きの声を上げた。声が裏返ってかすれる。晴明は灰色の目を細めて、人間としても陰陽師見習いとしても確実に成長してきている上の息子に柔らかく笑みかける。


「ああ。玻瑠璃の守り刀と同調して、きれいさっぱり祓ってしまったのさ。よくぞ玻瑠璃を守ってくれた。あの子も、明日になれば元気になるだろう。ご苦労だったな」


晴明にしては珍しく、息子を手放しで褒めた。吉平はなんだかこそばゆい嬉しさで胸がいっぱいになる。吉平の越えるべき目標であり厳しい師でもある父に褒められれば、嬉しくないはずがない。


「——では、おれはそろそろ出仕する。留守を頼んだぞ」


立ち上がりかける晴明に、吉平は「はい」と短く答えた。




春の宵。


おぼろげな十三夜の月。


そのけさやかな明かりの陰には、満天の星々。




晴明は内裏の陰陽寮の天文台へ向かう。


吉平は父を見送ると玻瑠璃の部屋の前の渡殿に出て高欄に座り、夜空を仰いだ。


手を夜空へ翳し、じっと見つめる。


なんだかいつもよりもはっきと、自分のオーラの色が見える。彼はほう、と深いため息をつく。玻瑠璃の守り刀を手にしたときの、全身みなぎったしびれるほど強烈な力。つかを握りしめた瞬間、猛り狂うあらあらしい黒龍が体内を駆け巡って暴れだした。


あれほどの龍を、つねに懐に納めて持ち歩いているとは。




彼は改めて、あの小柄な少女の霊力のすさまじさに感心する。術師として特別に修業をしたわけではないのに、並みの陰陽師もかなわないほどの力を持つとは。


先日の小野宮邸でのように、見よう見まねで破邪と祓をやってのけた。


代々の巫女の家の血を引く、見習い巫女。いや、それよりもはるかに強い力は、もうひとつの謎の血を引くためなのではないか……




「あっ!」


彼は突然小さく叫んだ。


「どうした? 吉平」


背後から珠王丸がふわふわと宙に浮いたまま現れる。全く気配がしなかったのはいつものことだから、そちらにはもう驚かない。


「栗! 栗を忘れていた!」


手土産に持ち帰ってきた、煮つけた栗。一体、どこに置いたっけ?


「あ、それなら花霞が回収したよ。明日、玻瑠璃に出すって言ってたよ」


珠王丸が宙でくるりと回転しながら言った。吉平はほっと安堵する。


「ならよかった」


「栗は玻瑠璃の好物だから、きっとすごく喜ぶと思うよ」


「そうか」




さらさらと西風が微かにそよいで、灯台の炎をゆらめかせて通り過ぎてゆく。


吉平は南庭の池のほとりの桜の大樹——花霞の本体——を眺めてなにやら小さく何度かうなずくと、穏やかに微笑んだ。


「そうか。もうすぐで咲くのか」


珠王丸は感心して目を見開いた。


固いつぼみたちの、嬉しげな囁き声が聞こえるらしい。まだまだ半人前でも、やはり安倍晴明の血を引いているだけはある。


部屋の中、几帳の内側では玻瑠璃が穏やかな寝息を立てている。


珠王丸は吉平の隣にふわりと座して、月光のもとで桜のつぼみたちが囁く声に一緒に耳を傾ける。


そして彼は思う。もしかしてこの安倍晴明の長子は、玻瑠璃に並ぶほどの神力を操れるようになるかもしれない。




「夕餉になされませ」


二人の背後から花霞が微笑む。もちろん、珠王丸には人の食べ物は必要ないので、それは吉平への言葉だ。


「ん。では次郎の部屋でともにいただこう」


吉平は桜の精に微笑み返した。



十三夜の月は、緩やかに南中へ上り続けていた。

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