狐辰

第25話

忠明とともに帰宅した吉平は、玻瑠璃がさぞや徒然としているだろうと、栗の実を甘葛あまずら(甘味樹液を煮詰めて作ったシロップ)で煮つけたものを手土産に東の対の屋を訪れた。


「ただいま戻ったよ、花霞。玻瑠璃は起きている?」


 花霞は困ったように首をかしげる。


「それが……次郎さまがお散歩に連れ出されて、桃の花を見に行くとのことでしたが……珠王丸からの知らせによれば、どうやら僧都殿へ向かわれたようです」


「は? 僧都殿だって?」


「そそ、僧都殿?」


 吉平と忠明はほぼ同時に目を見開いて驚きの声を上げた。花霞はため息をつく。


「心配ですわ。身の穢れにあっているときに、鬼や物の怪に遭いでもすれば……お力も、だいぶ弱りますし……」


「それは大変だ。事の重大さがわかっていない奴らだけで僧都殿なんて。父上はまだお帰りにはならない。忠明、至急追いかけて、二人を連れ戻そう!」


「お、おう!」




 吉平は渡殿に駆け出し、天に向かって指笛を吹いた。するとどこからか一羽のカラスが飛んできて、吉平のすぐ前の高欄にとまった。それは普通のカラスではない。晴明が子供たちに何かあった時のために連絡用に置いている式神である。


闇夜叉やみやしゃよ、玻瑠璃と次郎が僧都殿へ向かったので、吉平が忠明とともに連れ戻しに行ったと父に伝えて来い。それから、六郎!」


 カラスが飛び去ると、吉平は庭の橘の大木を振り仰いだ。ひときわ大ぶりの枝に、一羽のタカが止まっている。これも同様に、晴明の式神である。


「六郎、お前は私たちについて来い」


 タカは返事代わりに両翼を大きく広げた。


「どうか、お気をつけて」


 花霞の心配そうな声を背に、吉平と忠明は邸を飛び出していった。二人の少年たちの頭上を、一羽の美しいタカが、風に乗ってふうわりと弧を描きながら飛んでゆく。





 夕暮れと宵闇の間のそのどちらともつかない時間帯を、逢魔が時と呼ぶ。


 陽の時間帯と、陰の時間帯の境目。その名の通り、魔に遭いやすい時間帯だ。


「ああ~。なんだかすごーく、嫌ぁな感じがするな」


 古く朽ちた中門を潜り抜けたとき背筋にざわざわと悪寒が走った玻瑠璃は、思わず自分を抱きしめて身震いした。不快な「何か」が、腕、肩、首筋や背中、脚や背筋、そして髪にまとわりついてくる。


――心なしか、空気もよどんで生臭い。


『私も嫌だ。入りたくない』


 袂に縫い付けた袋の中で、宝珠の形のままの珠王丸の思念が言う。


「あの木だ。ちょっと確認したらすぐ帰るからさ、もう少しだけ、ねっ?」


 次郎も多少は不快感を感じるものの、彼の好奇心は恐怖心を上回っている。彼は南庭の北西の隅、築地塀の近くに生えている大きな榎を指さした。


 僧都殿はもう何年も空き家となっている。いつ頃から人が住まなくなったのかは定かではないが、手入れをしなければ豪邸も廃れ、うらびれてくる。家は風雨にさらされ経年していたみ、庭は荒涼として荒れ野状態だ。


「かつて、皇族の血筋の僧都がお住まいだったから、僧都殿と呼ばれ始めたみたいだよ」


 次郎の横で玻瑠璃は小刻みに震えている。頭痛がひどい。頭が割れそうに痛む。


「じ、次郎。なんか、ものすごく怖い感じがする……」


「えっ? 玻瑠璃にも怖いものがあるの?」


「——なんていうか、いつもみたいに気にしなければどうということはなさそうだが、ちょっと私の感覚が鈍っているのかもしれないな。ここに、すさまじい不浄の気を感じるんだ。気持ち悪い。すごく穢れているよ。ここに昔、坊主が住んでいたって?諸行無常、是生滅法と……涅槃経が低く知の底のほうから聞こえてくるよ」


「私には聞こえないなぁ。でも確かに、すごく不気味だよね。さっきから何かが足にまとわりついてくるような気がするし」


「なぁ、悪いことは言わない。今日はやはりだめなんだ。もう帰ろう。後日また、体調が万全な時にでも……」


 どこからか鼓膜にこびりついてくるように聞こえる読経の声が、突然頭の中でうわんと大きく旋回する。その刹那、薄闇の荒れた庭を、何かがさっと横切ってきたかと思うといきなり玻瑠璃の顔にぺたりと張り付いた。


「きゃっ! は、玻瑠璃っ!」


 次郎が悲鳴を上げる。


「——っ!」




 玻瑠璃は訳が分からないまま必死でもがく。彼女の顔面には、まるで濡れ布のようにぴったりと赤い単衣が張り付いて、彼女の呼吸を妨げている。


「うわあぁぁぁ! あ、赤い単衣っ!」


 次郎は草むらにしりもちをついた。


「は、玻瑠璃っ!」


 玻瑠璃の袂が発光して、珠王丸が姿を現す。彼は玻瑠璃の顔に張り付いた赤い単衣を無我夢中でつかんで引きはがそうとする。単衣はまるで生き物であるかのように強引に抵抗して、珠王丸を袖で叩いて跳ね飛ばした。


「うわっ!」


 珠王丸の体は次郎の近くの草むらの中に転がされる。玻瑠璃の力が月の障りで弱っているし、赤い単衣はすさまじい陰の気を放っている。穢れを嫌う宝珠の精霊には、厄介な相手である。しかし彼には諦められない。このままでは、玻瑠璃が文字通り息の根を止められてしまう。


「次郎っ! 玻瑠璃の懐から、小刀を取り出してくれ!」


「だ、だめだよ珠王! 今、金縛り……!」


 次郎は額につぶつぶと汗をかきながら呻くように答える。そうしているうちにも、もがく玻瑠璃の抵抗がだんだんと弱ってくる。




「次郎っ! 玻瑠璃っ!」


 吉平が肩で息をつきながら、必死の形相で中門から飛び込んできた。忠明も少し遅れて苦し気にあえぎながら、中門の柱に飛んできたセミのように張り付いた。


「あ、あ、あ、吉平、早くっ! 早く玻瑠璃の懐から守り刀を取り出して、破邪の刀印を切ってくれ!」


 珠王丸は渡りに船とばかりに吉平をまくしたてた。早くしないと、気絶どころではない、玻瑠璃が死んでしまう。


 吉平と忠明は、赤い単衣を顔に巻き付けてもがき苦しむ玻瑠璃に走り寄った。忠明が後ろから彼女を羽交い絞めにしている間に、吉平は玻瑠璃の懐から青い絹の細長い包みを取り出して素早く紐を解いた。いつもならば女子の懐に手を入れるなど死んでもできないと言い張る吉平だが、今はためらいなくやってのけた。鞘から刀身を引き抜くと、彼はそれを宙に掲げた。


 薄闇の中、玻瑠璃の守り刀は冷たく光る。


「吉平っ、はやく……っ!」


 悲鳴のような珠王丸の懇願に慌てることなく、吉平は深く呼吸を整えた。


 そしてひときわ大きく深く息を吸うと、ろうろうと呪を唱え始める。




『四縦五横、われ今出て行く。兎王道を守り、尤兵を避く。盗賊起こらず、虎狼行かず、故郷に帰還せん。われに当たる者は死し、われに背く者は亡ぶ。救急如律令!』




 吉平は宙に切先で縦横に線を描く。それは陰陽道の九字の呪法で、破邪の印だ。


 最後に斜めに宙を切る。吉平は今までに感じたことのない、何か特別な力が体の中を駆け巡り、みなぎっていると感じていた。



 赤い単衣は世にも恐ろしくおぞましげに獣のごとく絶叫すると、人がのたうち回るようにうねりくねりながら、ものすごいスピードで朽ちた寝殿の中へ逃げ帰って行った。


「玻瑠璃!」


 忠明が玻瑠璃を抱きとめる。珠王丸は玻瑠璃の名を呼びながら駆け寄った。


 彼女はすでに意識を失っていた。吉平も刀を鞘に納めると玻瑠璃に駆け寄って顔を覗き込んだ。忠明が脈を確かめて、珠王丸と吉平に首を縦に振る。二人はほっと安堵の息をついた。磁路も金縛りが解けたらしく、おたおたと這い寄ってくる。


「……」


 吉平は自分の両手を見つめた。彼は小刻みに震えている。右手に握りしめている玻瑠璃の守り刀からは、ぴりぴりとした気が伝わってきて、全身を巡っている。


「なんか、すごいな、これ……」


「吉平っ! よくぞ追いかけてきてくれた! おまえならばそれを使いこなせると思っていたよ! 私は穢れには弱くて……ほんとうに感謝するよ」


 珠王丸はそう言うともう力尽きたと付け足して、玻瑠璃の袂の中に戻って行った。




「さぁて、吉平よ。どうやって連れて帰る?」


 忠明の問いに、吉平はため息混じりに答えた。


「仕方がないね。私とお前で交代で背負って帰るしかないよ」


 忠明は一瞬ぽかんとしてから力なく苦笑する。


「ははっ。なんだよ。自分が背負っていくとか、言わないのか」


「いやあ。だって、忠明のほうが体は大きいし、力もあるだろう? 私は非力だし、意識のない者は余計に重いし、一人では無理だもの」


 吉平はははは、と笑った。



 薄闇の空、彼らの頭上でタカが一羽、くるりと輪を描いてどこかに飛び去って行った。

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