僧都殿

第24話

「次郎さま、お静かになさいませ!」


 花霞が珍しく厳しい口調でたしなめるが、それでも彼女は全く怖く見えない。


「なんだ、次郎。賀茂家に行かなかっいかなかったのか?」


 玻瑠璃が首をかしげると、次郎は彼女の目の前にぺたりと座って唇を尖らせた。


「行ったさ! でも真那まな保胤やすたね先生たちと、嵐山に行ってしまったんだって!」


「真那って、保憲殿の末娘?」


「うん、そう。玻瑠璃みたいにお転婆な奴だよ。でもひどいよね、出かけるなら出かけると、ひとこと便りを送ってくれてもいいのにさ。あるいは一緒に連れて行ってくれるとかさ!」


 次郎からオレンジ色のオーラが立ち上る。普段は淡い黄色のオーラなのに、相当頭にきているようだ。




 賀茂保憲の末子は真那という今年十二になる女の子である。


 まだ裳着は済ませていないらしい。だから同じく元服を済ませていない次郎の良き遊び相手である。


 二人はほんのよちよち歩きのころからお互いを知る。筒井筒の仲おさななじみといえる。保憲にとってはおそくにできた子なので、目の中に入れてもいたくないだろう溺愛ぶりが有名である。近い将来、次郎が元服して名を授かった折には、真那を添わせようと保憲は考えているらしい。


 本日、彼女は叔父たちと出かけてしまったらしく、次郎は不機嫌なまま帰宅して玻瑠璃の部屋に直行したらしい。




「ふうん、だから暇なのか、お前」


「うん。だから、遊んでたもれ」


「次郎さま、玻瑠璃さまは……」


 花霞が苦笑して制止に入るが、玻瑠璃はそれを笑顔で遮った。


「いいさ。さっきの薬湯がだいぶ効いてきたようだし、もうそんなにしんどくはないから。蹴鞠や鬼ごっこは勘弁してほしいけど、双六とか……そうだな、物語を読むくらいなら付き合うよ」


「じゃあ、覆物ふくもつ! はこ持ってくるからさ」


 弾むような足音が遠ざかる。


「よいのですか?」


 心配そうな花霞の問いに、玻瑠璃はこくりとうなずいた。


「ん。私も退屈だから。痛みがなくなれば出かけてもよいくらい楽になってきた。次郎の遊び相手ぐらいなら、何ともないさ」




「あのさぁ。この辺には、お化け屋敷がたくさんあるって、知ってた?」


 覆物に飽きてきた次郎は、上目遣いに玻瑠璃を見ていたずらっ子の表情で言った。


「お化け屋敷?」


 玻瑠璃が問い返すと、次郎の瞳がしめたとばかりに輝く。


「うん。実は、都にはあちこちにたくさんあるんだよ。うちの近所で言えば、僧都殿そうずどのとかがダントツかな……」


「僧都殿?」


「冷泉院のそばの、源雅信みなもとのまさのぶ殿のお向かいの空き家だよ。南庭なんでいの池のそばに大きなえのきが植えられていてね、逢魔が時になると寝殿から赤い単衣ひとえが飛び出してきて、その木の枝に乗るんだって」


「へぇ。それで?」


「それで、って……それだけ」


「なぁんだ。その赤い単衣が物の怪なのか?」


 玻瑠璃の問いに、次郎はずいっと身を乗り出した。


「それそれ、それだよ。それを知りたいんだよ。玻瑠璃ならば正体がわかるだろう? 兄上はバカにして取り合ってくれないんだ。私はどうしても確かめてみたい。ねぇ、一緒に行ってくれない?」


「ネコとか狐狸のたぐいのいたずらなんじゃないのか?」


「キツネは五条堀川のお邸さ」


「だからって、正体を知って次郎は何がしたいの?」


「何も。ただ、知ればすっきりするだろう? おそらくは、そんなに邪悪なものではないはずだ。何かの被害に遭ったという話は聞いたことがないから」


 玻瑠璃は苦笑した。


 しょせん、子供だましの妖術しか使えない小者の物の怪で危険はなかろうが。この、安倍晴明の次男坊は、普段は明るい黄色のはつらつとしたオーラを発している。土性が強い。


 五行で言えば土は水を剋す。いかに常人離れした水性の玻瑠璃でも、土性には弱いところがある。まして次郎は普通の童ではなく、未熟ながらも安倍晴明の血を受け継ぐ童だ。




 玻瑠璃は無意識に、否とは言えなくなる。


「ねぇぇぇぇ、行こう、行ってみようよぉぉぉぉ!」


 次郎は玻瑠璃の袖をつかみ、上目遣いに甘えて見せる。自分よりも幼い者の甘えられた経験のない玻瑠璃は、ついついまなじりを下げて首を縦に振ってしまった。


「それじゃあ花霞には、近所の桃の花を見てくると言っておいでよ。この邸の桃は、この前の龍騒ぎですべて散ってしまったからな」




 次郎が花霞に散歩の報告に行っている間、宝珠のままの珠王は玻瑠璃の思念に話しかける。


『おい、いいのか? お前は今、月の障りで穢れにあっているのに。力が弱っているときに、晴明殿の結界の外に出るだけでなく、陰の気の強い場所にわざわざ出向くなど、危険ではないか』


「あの話によれば、どうせ大したことはなさそうだ。単衣が空を飛んで木に留まるくらい、物の怪だとしても大した力はあるまい」


 玻瑠璃は笑い飛ばした。そう、その程度の物の怪ならば、幼いころからたくさん遭遇している。


 珠王丸は自分を連れて行くように言った。彼はとても嫌な胸騒ぎを覚えていた。何事もなければいいのだけれど。




 西洞院大路を、二人の童がゆっくりと下ってゆく。


『そういえば。先日、小野宮の邸に向かう途中にお前と吉平と綱が遇った猫ほどの大きさの黒ずくめの翁だが。あれは晴明殿によれば、陽成院ようぜいいんの池に棲む水の精だそうだ』


 珠王丸の声が思念となって玻瑠璃と次郎に話しかける。宝珠のままの珠王丸は、絹の袋に入れられて玻瑠璃の左の袂の中に縫い付けられた袋に入っている。


「えっ? それって……あの、小さな人食い鬼という噂の?」


 次郎が驚いて玻瑠璃を見る。玻瑠璃はすこし片眉をひょいと上げてふふふと笑う。


「ふぅん。あの小さなおじいは、人を食らうのか」


「噂ではね。昔、ある男がその水の精をどうにかして捕まえたことがあるんだ。水の精はその男に自分を逃がしてくれるように懇願したんだけど、その男が意地悪をして聞き入れてあげなかったんだ。そしたら、やすやすと自分で逃げ出して、逆にその男を捕まえた。それで男を三回蹴鞠のように蹴り上げると、頭から食らってしまったらしい。自力で逃げ出せるくせにわざとつかまるなんて、初めからその男を食らうことが目的だったみたいだよね」


「精霊の頼みをむげに断るからさ。自業自得だよ。それ以前に、奴らをつかまえるなんて無謀にもほどがあるけどな」


「うん、かかわらないのが一番だよね。あ、玻瑠璃、ここだよ、陽成院は」


 次郎は目前の大きな邸宅の築地塀を指さした。



 都には「○○院」と呼ばれる大邸宅がいくつかある。


 大抵は歴代の天皇やその位を退いた上皇、退位後に出家した法皇らの別荘や隠居屋、または栄華を極めた大貴族の住まいである。陽成院もその一つで、現在はある皇族がひっそりと暮らしているらしい。


「そうか。今日はあのおじじ、いないのかな? 陰の気のかけらも感じないな」


「精霊も陰の気なの?」


「あのおじじは陰だな。水の精だし、水は陰の気だろう? もしやこの前は、私の水性に吉平と綱の神力がなんらかの影響を及ぼして、あのおじじを引き寄せてしまったのかもしれないな」


「そうか。半々人前の私だけでは力が弱すぎて出てこないのだろうな」


「ふふ。お前もそのうちもっと強くなるよ。でもまぁ、ああいうたぐいには遭わないにこしたことはない」




 陽成院の辻を曲がり、大炊御門大路おおいみかどおおじを西に入る。


 一筋越えればそこは四町分を有する大豪邸・冷泉院。七年前に内裏が焼亡した折には、内裏に近いこともあり、今上帝の仮御所となっていた。現在は東宮の憲平親王のお気に入りの住まいとなっている。


 この冷泉院の南側、東洞院大路の角に、目指す僧都殿がある。

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