第23話

夕日が山の端に溶け入っている。



 西の対の南廂には、四人の少年たちがいる。



 一人は着慣れた普段着のなよやかな狩衣姿の吉平。後の三人は童形で水干姿の玻瑠璃と珠王丸と安倍家の次男の次郎。吉平と玻瑠璃は胡坐をかいて座っていて、珠王丸は同様の姿でふわふわと宙に浮いていて、次郎は腹ばいに寝そべって頬杖をついている。


「——ふうん、で、左大臣家のあの立派な女車に乗せてもらって帰ってきたというわけか」


 次郎の言葉に吉平は苦笑する。


「うん。結構ですからと何度もお断り申し上げたのだけれど、どうしてもって。綱なんて緊張して、車の中でも隅っこで縮こまっていたよ」


「は。お前だって、車の内装のすばらしさに、口を開けっぱなしだったじゃないか」


「お前はまったく変わらず堂々としていたな。でも今日は私もとても学ぶものが大きかったよ」


 吉平は笑う玻瑠璃に感心のまなざしを向ける。珠王丸は玻瑠璃の顔を覗き込む。


「お前、邪気払いをしたらしいな?」


「うん。おばば殿の、見様見真似だったが。」


 肩をすくめる玻瑠璃に、今度は吉平は驚愕する。


「はぁぁ? み、見様……見真似?」


「うん。はは。初めてにしては、なんかうまくいったな。内緒だぞ、吉平」


「初めて……」


 呆然とする吉平をよそに、次郎は玻瑠璃に再び覆物対決を挑む。


 花霞が、夕餉の支度が整ったと彼らを呼びに来たので、再びの対決は延期になった。





「えっ? 小野宮邸の祓を、あの子がやったの?」


 丹波忠明は、いつもののんびりとした口調のまま驚いてみせた。



 大内裏。



 吉平は二つ年上の医者の卵であるこの親友と、豊樂院の軒下の座っている。ひょろりと背の高い忠明は、早くも玻瑠璃からは「のっぽくん」という愛称で呼ばれている。しかしそう呼ばれても彼は穏やかに苦笑するだけで怒ることはない。


「そうなんだよ。すごかった。清浄な気が、私にもはっきりと見て取れた。数日あとに左大臣さのおとどから遣いが来て、あの日以来、亡き弟殿の霊はぱったりと現れなくなったとのことだった。それで、山ほどのお礼の品々をよこされたよ」


「そうかぁ。佐理殿も、大いに感心されていたよ。留守の間に君たちが来て、おじいさまの長年のお悩みを半刻ほどで解決してしまったと。とくに新顔の童——玻瑠璃のことだね、大活躍だったと聞いて、とてもゆかしがっておられたよ」


「ああ、佐理殿も葉月の君もいらっしゃらなかったなぁ」


「今度、玻瑠璃を連れて遊びに来てくれとおっしゃっていたよ」


 忠明が大貴族の子弟である佐理と雑談をするほど親しいのは、彼の姉が佐理の三年越しの恋人だからである。



 なんでもきっぱりはっきりものを言う佐理は、殿上人の間では変わり者で通っている。しかし彼は姿は涼やかな好青年で、その血筋の良さも相まって宮中の若い女房たちの間では人気者の一人だ。


 舞のすばらしさは言うまでもないが、能書の腕前は去年亡くなった三蹟の一人・小野道風の腕をもしのぐと言われている。左大臣の孫ではあるが嫌味なところがなく、どちらかと言えば貴族らしさがない気さくな感じだ。忠明のことだけでなく、その友人の吉平や綱のこともよく気にかけてくれる。



 忠明は周囲に誰も人がいないことを確かめてから、声を低めて言った。


「佐理殿がおっしゃるには、左大臣は一切怨霊に悩まされることなく安眠できるようになりなったらしい。お前のおやじ殿が召されたと思っていたが、まさかお前と玻瑠璃だったとはね。それに綱もか。かなり驚いたさ」


「なぁに、すごかったのは玻瑠璃くらいだよ。私と綱の助けがあればできるなんて謙遜しておきながら、実際は私たちが何もせずとも、あいつがひとりでやってのけたんだ。私などまだまだ……修行が足りないと思ったよ」


「はぁ……不思議な子だよね。あんなに小柄なのに、どこにそんなすごい力があるのかね。ああ、そういえば、今日は玻瑠璃は晴明殿のお使いで大内裏には来ていないのかい?」


 忠明の何気ない問いかけに吉平ははっと息をのみ、それからしどろもどろになる。


「い、いや、その、うちで寝込んでいるよ……」


「えっ? どこか悪いのか?」


「そういうわけではなくて……その……」


 吉平は赤くなってうつむいた。忠明はそれで察しがついてははぁ、とうなずいた。


「なんだ。月の障りか」


「……」


 吉平はさらに耳まで赤くなった。そんな反応をしてみればよいのやら、彼には皆目見当もつかない。忠明はふっと笑みながらのんびりした口調で諭すように言う。


「吉平よ、お前が恥ずかしがることはないさ。女子に月水(月経)があるのは、ごく自然なことだもの。私は医者の家に生まれたから、幼いころから知ってるさ。うちには姉もいるし、それに沙羅もいるしな」


「……」


「お前には姉妹はいないし、母代の花霞は人ではないしなぁ。まぁ、良い影響だと思うよ。月の障りの前には怒りっぽくなるし体も冷える。月水が来ればだるいしやたら眠くなるらしい。いたわってやらないとな。玻瑠璃で慣れておくといいよ。そのうちお前にも通うところができるだろうからね」


「そうか……大変なんだな」


 吉平は今朝の様子を思い出した。起きだしてこない玻瑠璃を心配して花霞に聞くと、月の障りなので心配ないと言った。珠王丸は穢れを嫌うので、もとの珠のまま、おとなしく袋の中で休んでいるとも。


「腹が痛いときはシャクヤクやカンゾウがいい。ほかにも症状によっていろいろとあるがな。冷えもよくないので、温石で温めるといい」


 ふたつしか違わないのに。吉平はほう、と息をつき、忠明に尊敬のまなざしを向けた。




 東の対の自室で、玻瑠璃は脇息に寄りかかって深いため息をついた。


 外出の予定はないので薄紅の袿姿。その明るい色とは裏腹に、心はどんよりと曇っていた。


 なぜ毎月、こんな大変な思いをしなくていけないのか。毎回そう思わずにはいられない。亡き伯母も美月も、やはり月の障りの時はご神体の部屋に近づくことはなかった。経血は穢れであり、月経の間は神に参ることは許されない。


 玻瑠璃は痛む腹をさする。この時ばかりは女である身が煩わしくて仕方がない。



「玻瑠璃さま……」


 花霞が音もなくそっと入ってくる。あたりには苦い薬湯の香りが漂う。


「お薬湯でございます。お加減はいかがでございますか?」


 玻瑠璃は花霞に苦笑する。


「一番ひどいときは過ぎたけれど、腹も腰も両側から蹴られているみたいに痛い」


「おかわいそうに。さぁ、殿の煎じられたお薬湯をお召し上がりください」


 花霞の差し出す椀を渋々と受け取って鼻先を近づける。漢方の独特のにおいが強烈に鼻孔をくすぐる。温度はそんなに熱くなさそうだ。玻瑠璃は目を固く閉じて一気に椀の中の晴明特製の薬湯をあおった。


「うううううぅ……にがい……」


「これで痛みも引くでしょう。」


 空になった椀を受け取りながら花霞が苦笑する。


「確かに……これならば効くかも……」


「今朝、殿が玻瑠璃さまのために取り急ぎお取り寄せになりました桂皮やシャクヤクが入っております」


「えっ? 晴明殿が?」


「ああ見えて女のお子がおできになったようで、かなり嬉しくていらっしゃるようです。今は水干でもよい、着たいものを着せたらよいなどとおっしゃいますが、実は季節ごとの女物のお衣装を、あちこちからたくさんそろえていらっしゃるのです」


「私の……ために?」


「ええ。玻瑠璃さまがお可愛くていらっしゃるのでしょう」


 花霞はやんわりと微笑んだ。桜の精霊。そのはかなげな美しさは、吉平と次郎の母親の面影を模しているのだという。



 薬湯の苦みの後味を消すために花霞が差し出してくれた水をゆっくりと口に含みながら、玻瑠璃は胸がいっぱいになる。晴明は玻瑠璃と同じ瞳の色をしている。それでも、父親ではないと言った。父親ではないと言いつつも、実の娘のように扱ってくれる。


 父親という存在を生まれたときから知らない玻瑠璃にとって、それがどういう存在かはあまりよくわからない。よくわからないけれど、決してあからさまでわかりやすいわけではない晴明の玻瑠璃への思いやりに、なんともこそばゆい幸せな気持ちになる。


 花霞が空になった薬湯の椀をもって出てゆく。


「……」


 玻瑠璃は退屈で深いため息をつく。今日は吉平は大内裏に行っているし、晴明は東寺に知己の高僧を訪ねている。


 珠王丸も玻瑠璃の月の障りのせいで力が弱まり、宝珠の本来の姿で文机の上の絹の袋の中に納まっている。


 薬湯が効いてきて体の中がじんわりと温まってくる。そして腹の痛みもようやく和らいできたころ……



「はーるーりぃ! 遊んでたーもーれー!」


 ばたばたと渡殿を走る元気な足音とが徐々に近づいてきた。


 御簾を乱暴に叩きあげて部屋に飛び込んできたのは、安倍家の愛らしい次男の次郎だった。

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