第22話

玻瑠璃と吉平と綱は寝殿の南廂に通されて、その邸のあまりのスケールに圧倒されて、そろって口をぽかんと開けたまま庭や天井を見ている。


 そこに前駆さきがけ(貴人の到着を先に知らせる役目)の女房がやってきたので、三人は慌てて居住まいをただした。




 さらさらと衣擦れの音がして、やせた小柄な老人が現れて静かに上座についた。


 三人は平伏する。


「よいよい、頭を上げなさい。晴明の遣い、ご苦労であったな」


 低い、穏やかな声。三人はそろそろと頭を上げた。


「吉平よ、元服してからは初めて会うが……陰陽寮での評判、聞こえているぞ」


 ふあっふあっ、と笑う実頼に、吉平は恐縮する。


「ほ、本日、父の名代として参上いたしました。こちらは父の弟子の玻瑠璃と、友人の渡辺源次綱でございます」


「ほう。見慣れぬ童だが……弟子とはな。おや? そなた、晴明と同じ色の目を……」


 実頼が玻瑠璃の瞳の色に気づく。玻瑠璃が何かとんでもないことを口走るより前に、吉平ははは、とから笑いをしながら早口で答える。


「はい、しいて言えば、親戚のようなものです。私の異腹、ということではございません」


「ほう。そのような稀有の色の目をした者が、ほかにもいるとはな。利発そうな……うん? の子か?」


水干姿のほうが動きやすいのです。空も飛びやすいですし」


 玻瑠璃はふふふと笑った。実頼は片眉をくいと上げる。


「おお、そうか。面白い子じゃ。それになんと清らげな。晴明が弟子を取るとは初耳じゃな。それだけそなたの力も素晴らしいのであろうな」



 なにか言おうとする玻瑠璃の口を袖口でふさぎ、吉平はぎろりと玻瑠璃を睨む。これ以上、なにもしゃべるなと、無言のプレッシャーを感じて玻瑠璃は天井をくるりと見上げて口を閉じる。


「それに……多田源次満仲の孫か。父方祖父の嵯峨源氏・つかう殿は、天慶てんぎょうの乱(平将門の乱)を平定されたのであったな。どちらに似ても、よき武士もののふになりそうじゃ」


 綱は「は」と短く答えて浅く頭を下げる。




 実頼の言葉や態度に玻瑠璃は好感を持った。彼女は懐から霊符を取り出して膝の前に置き、物おじせずにはきはきと実頼に言った。


「私たちは師より、左大臣家の清めをしてくるようにと申し付かって参りました。結界を張らせていただきます」


 玻瑠璃の言葉に実頼は目を見開く。


「なんと、陰陽師でもなしにそのようなことができると言うのか」


「はい。この霊符と私たち三人がいれば、すぐにでも可能です。まずは恐れながら、常におやすみになられている御帳台を拝見できますか?」


「わかった」


 実頼は深くうなずいた。吉平は少し感心する。玻瑠璃も常識的な会話をしようと思えばそれなりにできるらしい。




 三人の子供たちを連れ、実頼は寝室へ向かう。相手が子供だからとか半人前だとか甘く見たりすることはなく、真摯な者には真摯に向き合う、藤原実頼とはそんな人だ。


「失礼いたします」


 玻瑠璃はそう断ると、実頼の御帳台の周りをゆっくりと一周した。時折、天井や周囲の調度品に目をやり、何やらぶつぶつと独り言を呟いては考え込む。


 吉平は西廂にしひさしのほうから流れ込んでくる霊気を感じ取り、ぶるりと身震いした。その隣に立つ綱も同じように何かを感じ取ったらしく、眉根を寄せて落ち着きなく天井を眺めまわしている。


 二人の少年の傍らに立つ実頼は、玻瑠璃の行動をじっと観察している。




「ふむ……亡き弟君は……」


 玻瑠璃は大きな灰色の瞳で実頼を見て、はきはきと話す。


「こちらの西廂に立ち、塗籠ぬりごめの壁を通り抜けてから御帳台の北側——大臣おとどのお足もとに立つのでしょう?」


 小首をかしげる玻瑠璃に、実頼ははっと息をのんでしばしの間、言葉を失った。確かに、弟師輔の亡霊は……夜ごとそのようにやってくるのだ。


「た……たしかに、横になると体が動かなくなり、鳴りが始まり……息を殺して見ていると、そなたの申したことと寸分たがわぬようにあやつがやって来て、私の胸の上にどっかりと居座るのだ」


 綱が小さく「ひぇぇ」と呟く。


「では霊符は、御帳台の裏側に貼らせていただきます」


 玻瑠璃の自信ありげな言葉を聞いて、綱は吉平の袖を引いて囁いた。


「あいつの自信……どこから来るの?」


 吉平は小さなため息をつく。


「下手な陰陽師よりは実力は上だと、父上のお墨付きだ。生霊を追いかけて行って、自分も生霊の姿なのに説教するくらい怖いもの知らずなやつだしな」

「おい、お前たち。こそこそ囁きあって見物していないでちょっとは手伝え」


 二人の少年は玻瑠璃の指示通り、御帳台の板敷を両側から持ち上げた。玻瑠璃はその裏に霊符を貼り、吉平と綱に再び板をはめ込ませた。


「あっ?」


 綱が小さく叫んで、無意識に後ずさった。吉平は身動きするのも忘れて玻瑠璃の動きをじっと見守る。



 玻瑠璃は長い深呼吸するをすると、目を閉じて意識を心臓の上の丹田に集中する。



 ゆらり。



 彼女が目を開く。灰色の瞳は生き生きと輝いている。


 白い光が、華奢な肩から小さな頭から、煙のように立ち上る。それは吉平と綱の目にははっきりと見えているが、実頼には全く見えていない。



 まるで、白い炎。



 すさまじいまでの集中力で、彼女の小さな体からそれは時にフレアアップしながら立ち上る。ゆっくりと部屋の中を歩き回りながら、彼女は祝詞を唱え始める。



『高天原にかんむずまります神漏岐かむろぎ神漏美之命かむろみのみこと以て、皇御祖神伊邪那岐之命すめらみおやのかみいざなみのみこと伊邪那美之命いざなみのみことと泉平坂で争いし際、泉守道者と共に現れし白山菊理媛くくりひめ——……』



「な、なんだ? 古神道か?」


 綱が袖を引く。吉平は玻瑠璃から目を離さずにああとうなずく。


「そうだよ。菊理媛は死の神、そして巫女かんなぎたちの守り神だ。あの子は巫女の血を引いているんだ」



 玻瑠璃は朗々と祝詞を続ける。



『——故・前右大臣の御霊の迷いて兄君の小野宮左大臣を今後悩ますことのなきよう、祓いたまえ清めたまえ。神火晴明、神水晴明、神風晴明!』



「……!」


 吉平は驚きと感動が入り混じって呆気にとられ、ただただ何もできずに固まってしまった。


 玻瑠璃が祝詞を唱え終わり左、右、左にふぅと息を吹きかけると、先ほど二人が感じていた重苦しい邪悪な霊気は、すっかりどこかに消えていた。


 神道の祓いは見たことがあったが、自分よりも年下の少女がここまで強い力を持ち、完璧に清めを成し遂げたのを目の当たりにしたのは、吉平にとっては初めてだった。彼は無意識に大きく身震いをした。


 すごい。


 やはりあの父が弟子に認めただけはある。




 すごいことをやってのけたのに、玻瑠璃はそんな様子はつゆも見せない。


「大臣、なんでもよろしいのですが、亡き弟君の形見などはございませんか?」


 玻瑠璃の問いに今まで呆然と立ち尽くして何が何だかわからないままの実頼は、はっと我に返り慌てて答えた。


「あ? ああ、うむ。何もないな。あれの生前は、われらは仲が良かったとは言えぬからなぁ」


「では、生前の好物などは何か?」


「そうだなぁ。ささ、か」


「ならば酒を、寝殿の簀子縁に運ばせてください。客人に差し上げるような感じで、高坏にでものせて」


 実頼は玻瑠璃の言葉通りに女房に瓶子へいじで一本の酒を運ばせた。


 一同は簀子縁に移動する。


「今度は何? 酒なだけに、お清めの続きか?でももうすでに、どこもかしこもお前んちと同じくらい清らかで快適な感じだけど……」


 綱の小声の囁きに吉平は感嘆する。


「あいつ……ほんとうにすごいよ。寝室だけでなく、この邸全体を清めてしまったよ。そのうえ今から、怨霊を鎮めようとしているんだ」


「はぁ?」


 綱は目を見開く。




 玻瑠璃は酒の膳の前に座り、黙とうをささげる。息を浅く静かに吸い込むと、玲瓏な声で呪を備え始める。



早馳風はやちかぜの神、取り次ぎたまえ。故・前右大臣藤原九条師輔殿へ、この御酒みき届けたまえ』



「あっ!」


「あっ!」



 二人の少年はほぼ同時に叫ぶ。



酒の瓶子がゆらゆらと揺れだした。実頼には全く何も見えないままだが、二人の目にははっきりと見えていた。どこからか嫋やかな白い腕が二本、にゅうと伸びてきて、酒をそっと取り上げるとそのまま消えたのだ。もちろん、酒の実体はちゃんと玻瑠璃の目の前にある。



 少年たちは口をぽかんと開け、瓶子を凝視したまましばし固まっていた。


 玻瑠璃は実頼を振り返り、あどけない笑みを見せた。


「これでもう、弟君がこの邸においでになることはないでしょう。もし近くまでいらしたとしても、結界のせいでこの邸には一歩たりとも踏み入ることはかなわないでしょう」

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