第21話

「だって、楽しそうじゃないか! 手のひらに乗るくらいのキツネって、くだギツネのことだろう? いたずら者だが、なつけばかわいい奴らだ。山には魑魅ちみ、川には魍魎もうりょう! みんな力が弱くておとなしい奴らだ。たまぁに、悪い奴らもいて、川に引っ張り込もうとしたり谷底に落としたりしようとするけどな。なぁ、綱!」


「うん。俺もよくさらわれかけたなぁ。山姥とか天狗とかにさ」


 ははは、と笑う綱にさすがの玻瑠璃も、顔を引きつらせて聞いていた吉平も同時に叫んでしまう。


「や、山姥に天狗?」


「綱、お前、よく今まで無事に……」



 話の内容はかなり物騒だが、三人はのんびりと西洞院大路を下っている。安倍家の土御門大路から、三筋下った大炊御門大路に小野宮左大臣藤原実頼邸はある。近くも遠くもない距離。子供たちにとって、おしゃべりしながら散歩感覚でたどり着ける距離である。


「こっちに来てからもさぁ、時々なにか変なものが一緒に行こうとかついて来いとか言うわけよ」


 とぼけてうそぶく綱に、同い年ながら彼の肩くらいまでの身長しかない玻瑠璃は、その肩に乗っかるように飛び跳ねてぽんと叩いた。


「綱よ、やはりお前は面白い奴だな。将来はきっと、大物になる。祀られたりして……」


「よくわからん」


 綱は肩をすくめる。まさか本当に神として祀られることになるとは、この時は何気なく発言した玻瑠璃もすぐ傍らで言われた本人も、まったく知る由はない。




「それはさておき、なぜ父上はわれら三人を一緒に遣いに出したのだろう?」


 吉平が首をかしげる。玻瑠璃はふふと笑みをこぼす。


「私たち三人の気の波長が、絶妙に相性がいいからさ」


 その言葉に綱がああ、とうなずく。


「たしかに俺、お前たちと一緒にいると何の違和感も感じないな。普通はさ、人の後ろにはいろいろなモノがひっついていてさ、違和感があったり気分が悪くなったり、嫌ぁな気配を感じたりするものなんだけど。それどころかむしろ、体が軽くてすごく気分がいい」


「はぁ? 言われてみれば……確かに、お前たちといると変なものが寄ってこない。私と綱はもともと相性がいいとは思っていたが、玻瑠璃が来てからはなおさら波長が合うようになったかも」


「つまりな、吉平だけでは半々人前。私だけでも同じ。生まれつきの見鬼でも修行したことのない綱にしても同じ。三人でやっと、一人前に少し足りない程度になるのかもな。それでも足りぬ分は、互いの気を調整したり協力し合ったりすることで補えるのかもな」


「なるほどな。俺は本当に、見えるっていうだけだ。それだけでお前たちが危ない目にあっても、助けられないかもしれないが。いるだけでいいと言われるなら、いくらでも一緒にいるぞ」


 綱の言葉に玻瑠璃は笑んだ。


「お前はそれでいい。存在自体が、破邪なのだ。ともにいてくれるだけで十分だよ。何とかするのは、私と吉平だからな」


「あのさ、玻瑠璃。そこだ。お前は父上に弟子入りして、陰陽師になりたいの?」


 吉平の問いには、微妙なニュアンスが含まれていた。遠慮がちに、探るような口調。男装したまま陰陽師になりたいのか。巫女かんなぎの道に戻るのか。それとも、将来はどこで何がしたいのか。もしも陰陽師になるのなら、玻瑠璃とは安倍晴明の後継者の座を争わなければならないだろう。



 それまで元気だった玻瑠璃の表情が、にわかに暗く沈む。


彼女は足元に視線を落としたままとぼとぼと十歩ほど歩いて顔を上げた。困惑の苦笑を浮かべ、肩をすくめる。


「今は……ただひとつ、どうしてもやり遂げたいことがあるんだ。都で陰陽師になるなど、興味はないさ。私は、私の大切な人たちを奪った奴らに仕返しがしたいだけ。それがかなったら、そうだな……播磨に戻り、みわの家を再興したい、かもな」


「お前、それって仇を討っ……!」


 鈍感にもその質問をしようとした吉平のすねを、綱は素早く蹴り上げた。涙目で脚を抑えた吉平は綱の目配せに気が付くと、ぐっと言葉を飲み込んだ。玻瑠璃の祖母と従姉が都から来た男に殺されたことは、吉平も父から聞いていた。綱は何も知らなくとも、玻瑠璃の様子から何かを察したらしい。


「……」


「……」


「……」


 三人は無言のままさらに十数歩ほど進む。




「あ」


 人ならぬ気配を感じてふいに顔を上げた玻瑠璃は、前方の築地塀の上を指さした。彼女の人差し指の指し示すものを見た二人の少年たちも、同じように間の抜けた声を上げる。


「あ」


「え?」


 三人の視線の先、古い築地塀の上には全身黒ずくめ、水干に俺烏帽子の白髪に白髭の老人がちょこんと座っている。その体の大きさは猫ほどしかない。こちらを笑顔で見下ろしているそれそれは、あきらかに人ではない。



「もうし。小野宮へゆかれるのか」


 老人の声は妙に甲高く、ささやくように小さいのにすぐ耳元で話されているようによく通る。聞いたこともない不思議な声だ。


 自分たちが見つめているものの正体が何であるか理解できずに、ぽかんと口を開けて突っ立っているだけの吉平と綱から一歩進み出て、玻瑠璃は少しも臆することなく堂々と訊き返す。


「そうだが。お前は……水性すいしょうの……水の精霊だな。小野宮の南庭の池にでも住まう者か?」


 老人はにたりと笑む。その口はこめかみのあたりまで避けていて、吊り上がった隙間から細かく鋭い牙がちらりと覗く。


「ほほほ。やはりわかるのか。我が住処は、小野宮の池ではないがな。ただならぬ気配が固まってやってくるので覗きに出てきてはみたのだが。なんと人どもではないか。特にお前、の子の姿ではあるが、の子であるな。お前、人にしては稀有なほどの強い気の持ち主だが、はたして、実頼を助けることはできるのだかな?」


「黙れ、生意気なやつ!」


 玻瑠璃がむっとして一歩前に踏み出した時にはすでに、小さな老人の姿はどこにも見当たらなかった。


 ち、と玻瑠璃は小さな舌打ちをした。そしていまだ口を開けたまま呆けている二人の少年の前でぱん、と柏手を打った。すると二人ははっと我に返った。


「あっ、えっ? 何だった? いまの、ねこ?」


「うん? え? 黒い……何?」


 玻瑠璃は二人の少年の目の前でぴょんぴょん飛び跳ねて地団太を踏む。


「あんなおじじになめられてたまるか! お前たち、さっさと小野宮に行って、さっさと終わらせるぞ! ほら! 早く!」



 玻瑠璃に叱咤されて追い立てられた少年たちは、先を行く彼女のあとを慌てて追った。





小野宮左大臣・藤原実頼邸。



 四町四方の広大な敷地内に、大きな寝殿造りの豪奢な建物と大きな南庭。池だけでも吉平の家がすっぽりと収まってしまうくらいある。氏の長者にふさわしい荘厳さながらも、華美な装飾は一切見られない。


 左大臣実頼は信心深く質素を好むことで知られている。人柄は温厚誠実ゆえに人望が厚い。


 入内させたむすめはあっけなく夭折してしまい、続いて入内した弟の師輔のむすめが東宮の母となったことで権力の座からは遠のいたと思われていた。跡取りとして期待をかけていた長男の敦敏も、三十歳で他界した。次男の頼忠は存命で権大納言で四十三歳。三男の斉敏は右衛門督うえもんのかみで四十歳。


 二人はそれぞれに独立して別所に邸を構えている。


 弟の師輔が権力をつかみ切らないうちに亡くなったことで、実頼に幸運が舞い込んできた。東宮の後見として、今上帝の信頼篤く最高権力を手にしたのだ。力十七歳の今や、彼は政に欠かすことのできない重要人物である。



 広大な邸には、意外にも実頼本人と三人の孫たちだけが暮らしている。


 最年長の孫は亡き長男・敦敏の遺児、二十四歳になる佐理すけまさ


 右近権少将であるが、役職に関係なく抜きんでた素晴らしい才能を持つことで有名な男だ。舞と能書である。特に能書は、帝も称賛するほどの腕前を持つ。彼には二人の妹がいて、上の妹はすでに師輔の九男・為光——佐理の二つ年上の叔父——の正妻となっている。


 下の妹は顕姫というが、十六歳の今も未婚で祖父の実頼が溺愛していて手放したがらずに小野宮邸で一緒に住んでいる。



 そしてもう一人が十歳になる葉月の君と呼ばれる童子だが、彼が元服して実資さねすけと名乗るのはまた数年後のことである。


 幼名は大学丸だいがくのまろというがやんごとなき血筋の子供を名前で呼ぶことは憚られるため、八月生まれといことから「葉月の君」と呼ばれている。


 彼はまだ元服前だが、童殿上わらわてんじょう——童姿のまま内裏に上がる、見習いの使い走り――をしているため、将来への期待が大きくほかの同じ年頃の少年たちよりもかなり機転が利き、分別もある。葉月の君は実頼の三男・斉敏の末子であるが、あまりにも亡き長男に面影が似ていたために実頼は養子として引き取り、後継者教育を施して溺愛している。


 ゆくゆくはこの葉月の君が小野宮を継いでかつ氏の長者となるなだ。この少年は亡き伯父に面影が似ているだけではなかった。その怜悧さ、賢さ、器の大きさは、実頼が期待をかけるのには十分だった。

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