小野宮邸へ

第20話

「遣いを頼みたい」



 寝殿の母屋には、まるで盗賊が押し入った後のように書物が散乱している。巻物もあちこちに広がっていて、走り書きのメモや書き損じも混ぜ混ぜで、一見すると無秩序に見える。


 しかし、この部屋の主・安倍晴明によれば、一定の秩序は保たれているという。一見すると混沌でしかない散乱する書物の中で、文机にひろげた書物に視線を落としたまま、晴明は二人にそう言った。


「はぁ。どちらへ、でしょうか」


 煩雑な書物の「秩序」を乱さないように、吉平は慎重に足元を確保しながら父に尋ねた。



「うん、この前の続きなのだがな」


「はい? この前の続きとは、どの前のどの続きでしょうか」


「内裏に行くときに、牛車の中で話した件だ」


「あー。小野宮おののみや大臣おとどですか?」


 吉平の隣で玻瑠璃が右手のこぶしで左手のてのひらをぽんと叩く。


「なんでお前、小野宮左大臣のことだと思うわけ?」


 吉平が眉をしひそめる。玻瑠璃は首をかしげる。


「いやだって、話のほとんどは清華の家系のことであったし、今の当主は小野宮殿だもの」


 玻瑠璃の言葉に晴明は首肯する。


「そうだ。小野宮殿に護符を届けてきておくれ」


「なるほど。今回は死んでいるほうのすだまですね」


「そうだ。なにせ見ての通り、おれは寝る間のないほどに忙しい」


「ですが父上。大臣おとどのもとに私たちが遣いなど……」


 吉平が心配そうに眉尻を下げると、晴明は涼しい顔で口角を上げた。


「なぁに。かえってお前たちが参上するほうが良いだろう。おれが言ったと世間に知れれば、信心深い左大臣もついに呪いに負けて、陰陽師に頼るのかと噂されるだろう?」

「では、護符とは亡き九条殿の怨霊封じですか?」


「まぁ、そんなところだ。ついでに玻瑠璃よ、左大臣邸を清めてきてくれ」


「それは構いませんが、私たちのような若輩者が左大臣邸を清めることなど、お許しいただけるのでしょうか?」


 吉平の生真面目な疑問に晴明はくすっと笑いを漏らす。


「おれが遣わし清めを命じたならば、子供とて軽んじることはなさらない、そういうお方だ。それに今回は完全に祓いきることが目的ではない。霊符と呪で単純な結界を張り、奴らが入り込めないようにしてくればいい。おれでなくともできることだが、まあ、誰でもいいというわけでもない。お前たちにも良い経験と練習になる」


 そこまで話して晴明はやっと書物から顔を上げ、一枚の護符を文机の上から引き抜いて吉平に差し出した。


「霊障解除の護符ですね」


 護符を見た吉平がつぶやく。


「ああ。それを、小野宮殿の御帳台の下に貼ってきてくれ」




 細長い紙には朱色で模様のような不思議な文字が書かれている。


 かろうじて読める感じとしては、下半分の真ん中あたりに書かれている「急急如律令」という単語くらいだろう。それは陰陽道の呪符には常に書かれる呪文で、「律令制のようにすみやかに効果を発揮せよ」というような意味だ。日本の律令制ではなく唐の律令制のことなので、形骸化しているただの呪文と言えばそれまでだが。


 ふと、晴明は天井を仰いでふふ、と笑みを漏らした。


「おや。どうやら、お前たちのツレがもうすぐやってくるぞ。の者がともに行くのならば、おれの式を護衛につけずとも心配はいらないようだ」


 玻瑠璃と吉平は顔を見合わせて首をかしげる。「ツレ」? 「彼の者」? 




 ほどなくして花霞が母屋に渡ってきて、西の対に渡辺綱が遊びに来たことを吉平に告げた。




「なぁ、なんでお前らんちの桃の花は、世間は今が盛りなのにすっかり散り終えているんだ?」


 道端の家々の庭から築地塀越しにほころび見える濃き紅の可憐な桃の花を見上げながら、綱はこてんと首をかしげた。


 唇をすぼめないままですこし前に突き出すしぐさは、彼が何か不思議に感じたときの無意識の癖である。年齢よりもあどけない顔が、さらにあどけなさを増す。吉平や忠明はよく知っている表情だが、本人は気づいていない。


 吉平と玻瑠璃は、顔を見合わせて力なく苦笑しあった。


「ははは……信じられないかもしれないが、龍が現れて磁場が乱れて、一気に咲いてすべて散ってしまったんだ。なぁ、玻瑠璃」


「うん、そうだったな。ほら、桃は五行で言うと金気ごんきだろう? だから黒龍の水気に引き寄せられて、白龍の金気に同化したのかもしれないな」




 説明はかなり長くなるだろう。安倍家の下を水脈が通っているとか、それが各地につながっているとか、吉平の守護が白龍だとか……非常に面倒くさい。面倒だからもう聞かないでくれという空気を吉平も玻瑠璃も醸し出しているが、綱はもともと細かいことは気にしない性質たちなので、常人であれば気になることもさほど気にならない。


「ふぅん。よくわからないが、つまりもう安倍家の桃は盛りを終えたということなんだな。それにしても龍かぁ。見てみたいなぁ……」


「お前ならば見えるかもな。吉平に聞いたが、お前も見鬼なのだろう?」


「うん。そうだな。幼いころは武蔵野原でいろんなもんを見たな。手のひらに乗るくらいの小さいキツネとか、青や白の火の玉、古いがらくたの大行列、魑魅だの魍魎だの……なにせ武蔵野のうちの領地ときたら、愛宕はあるわ富士山は近いわで、そういうたぐいのは、京の都ここに負けないくらいうようよいたな」


 綱はそれを見上げながら目を細めた。かなり不気味な場所に聞こえるが、彼の表情からすると純粋に懐かしんでいる。


「へぇ。楽しそうだな! お前はそういうものたちを引き寄せてしまうのかもしれないな」


 玻瑠璃はにこやかにうなずく。


「お前たち、物騒な話をそのようにほのぼのと……」


 吉平は苦笑する。

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