北斗を踏む男

第18話

御帳台の傍らで身をただすと、彼は呪文を唱え始める。



「玉女神に申し上げる」



 晴明の低く澄んだ声が、四隅に灯台を置いた薄暗いよん御殿おとどの闇を裂く。



反閇へんぱいだな」


 玻瑠璃がそっと吉平にささやく。彼女の瞳は好奇心できらきらと輝いている。


「ああ。玻瑠璃、あれを見て。すごい気だ! 」


 吉平は父の体から炎のように立ちのぼる青白いオーラにうっとりと目を奪われる。


 晴明は自らの気をすべて額の経穴に集中させて、三人の玉女神たちを勧進するための呪文を唱え続ける。手刀印で四縦五横を宙に切り、御帳台の周りをゆっくりと兎歩うほで歩き始める。



 反閇。


 それは破魔の呪文。三つの歩みを一歩として数え、九つで三歩進むことを一つのパターンとする。


 歩の進め方は古くは道教から、術師や方士たちの崇める北斗七星の星の並びと同一で、ステップの一つ一つには、七つの星々の名前が付けられている。基本的には地鎮や破魔に用いられるが、連続して繰り返すことで強力な魔方陣を描き結界を張り、清浄な場を作り出すことができる。




「えっ?」


 しばし父の美しい魔方陣に見とれていた吉平は、隣にいる玻瑠璃のただならぬ気の流れに気づいて振り向き、ぎくりと身を縮めた。


「はっ、玻瑠、璃……?」


 

 彼女の全身は、晴明と同じ青白いオーラに包まれている。


 童子のように後ろに一つに束ねた髪が、まるで水中を漂う海藻のように宙に揺らめいている。


「ふ、ふふ。すごい。すごいぞ、吉平。見えるか? 四神が来たよ。ほら、朱雀、玄武、青龍に白虎。あぁ……完璧とはこれを言うのだな。あの結界を見ろ。なんて美しいのだ。あの美しい光の糸……」


 玻瑠璃は恍惚と目を細め、歌うように酔ったようにつぶやく。


「えっ? 四神がどこに? えっ、ちょっ、はるりっ!」


 吉平は小さな悲鳴を上げる。


 微かに、玻瑠璃の体が宙に浮きあがってきた。一尺ほどあがり吉平の背丈よりも高くなる。しかし当の本人はそんなことはおかまいなしに、御帳台のあたりを見つめて楽し気にくすくすと笑っている。


「あはは。五龍も来た。白龍、黒龍、赤龍、青龍、黄龍……あれ? こっちに来る……」


「————!」


 吉平はあまりの驚きに悲鳴を飲み込んでしまった。


 ふわり、ふうわり。彼の目線の高さを、白く長い尾のようなものが右から左に翻って流れてゆく。




 こ、これは……龍!



「あ、わ、わっ!」


 龍に気を取られていると、玻瑠璃の体が二尺(六十センチ)ほど浮き上がってしまった。髪は解けて宙に広がり揺らめいている。吉平は慌てて玻瑠璃の胴にしがみついて必死に彼女を捕まえる。




「おい、吉平よ。玻瑠璃を捕まえたまま、こちらに来い。結界の中に入るんだ。もうすぐ、彼の・・・がやってくるからな」


 晴明は浮き上がった玻瑠璃を見ても驚きもせず、吉平に手招きをする。


 吉平は玻瑠璃を肩に担いだまま――といっても、彼女の重みは全く感じない――御帳台の足元のほうへ近づいた。


「父上、私のいつもよりもいろいろなものが見えています。あれ……なんだ、あれは?」


 ほの暗い夜の御殿のあちこちに、流れる尾を引く光の玉や青白い炎がひゅるりゅると漂っている。吉平は息をのむ。ああ、主上はこのようなものたちの中で、毎夜大殿籠もっておられるのか……?



「ほら、あちらの御方も、あまりにも恐ろしくてお隠れになったようだ」


 晴明は亡き中宮安子がいままで佇んでいたあたりを指さす。そして二間につながる引き戸のほうに目をやると、そちらを凝視する。


「お出ましだな」


「主上は、ご無事でしょうか?」


「ああ。あれ・・には御帳台がどこにあるのか、まったく見えないさ」


「あ、来た!」



 ひやり。



 闇の中にさらい深い闇が、冷気とともに入り込んでくる。


 玻瑠璃はまだ宙にふわふわと漂ったままで、吉平の首にしがみついている。吉平は玻瑠璃の手首をつかみ、じっと闇に目を凝らしている。




 二人の子供たちの傍らで、すでに闇の中のもの・・を見つけた晴明は口元をほころばせている。


 とろりとよどんだ冷気はぼうっと赤くとぐろを巻いて、やがてもやっと伸びて葡萄色の人形になり、やがてけざやかで艶やかな美女の姿になった。


 二十代後半か、三十代の初め。小柄な身の丈に一尺は余るたわわな髪。切れ長の愁いを帯びた瞳。彼女自身も身に着けている衣装のなにもかも、すべてが葡萄色のグラデーション。葡萄色をしていることで、彼女が死霊ではないことが証明できる。


 高位の貴族の女性を目にしたことのない吉平や玻瑠璃にも、それが身分の高い女性であろうことはすぐに予想がつく。


 女は、その場にいる誰のことも見えてはいなかった。


 晴明によって、御帳台の周りには隠形の術が施されているのだ。


 彼女は御帳台の周りをぐるぐると回り始める。三周半回ったところで深いため息をついたが、それは小さな炎となって唇の隙間から吐き出された。全身から立ち上る妄執の赤いオーラがめらりと揺らめいて吹き上がる。



「うぬ……確かこの辺りに、御帳台があったはずだが。影も形も見えぬ。成明め……いずこへ行った?」


 女は主上のいみなを呼んだ。彼女は親指の爪を噛みながら、切なく恨めし気に独り言を続ける。


「あぁ……悔しや。安子は死んだ。新たに女御になった芳子も死んだ。ようやく、邪魔者はいなくなったと思ったのに。もしや、新しい女の元へ渡っているのか? まだ寵を与える女御や更衣どもが控えているのか? おのれ、成明め。われらをどこまで苦しめ、貶めるのか。あぁぁ……憎らしや、悔しや……」



「あ」


 玻瑠璃は生霊を見て首をかしげた。それから目を丸くして、吉平の肩をぺしぺしと叩く。


「あれ、あの生霊、羅城門の楼上を通って行ったのを、都に初めて来た日の夜に見かけたよ!」


「ええ? ら、羅城門? 初めて来た日の夜? ええええ? あっ、おい、ちょっと!」


 吉平は肩に担いだ玻瑠璃を振り返って混乱する。言っていることもおかしいが、今、彼が肩に担いでいる少女は確かに彼の首にしがみついているのに、その背中には

まるで脱皮中のセミのように、葡萄色の玻瑠璃が分離しかかっているのだ。



「お前はセミかっ! こら、体から出るな、戻れなくなるぞ!」


 吉平の忠告もむなしく、葡萄色で半透明の玻瑠璃は自分の体を抜け出し、女の生霊の前に立ちはだかった。


 吉平は自分が肩に担いでいる玻瑠璃の体を振り返る。中身の抜けてしまった彼女は、ぼんやりと焦点の合わない目をして呆けた表情をしている。呼吸は深く、目を半分開けたまま眠っているように見える。体の重さは不思議と感じない。




 女の生霊は、突然目の前に飛び出してきた玻瑠璃の生霊を見て驚愕した。


「そなた、何者だ? なぜ主上の寝所におる?」


 女は玻瑠璃をめらめらと炎を揺らめかせた燃える瞳でねめつける。それに怯むどころか、玻瑠璃は顎をしゃくって挑発的に鼻先でふんと笑った。


「主上を探しても無駄だね。お前には見つからないから」


「なに? どこへ隠した?」


 女の相貌からは、さらに激しい赤紫色の炎がフレアアップする。


 玻瑠璃の抜け殻を担いだままの吉平は、玻瑠璃の生霊が女の生霊を挑発する様子をはらはらと見守っている。


 晴明は薄い笑みを唇にたたえながら、黙って高みの見物としゃれこんでいた。


 生霊の玻瑠璃は女に向かって右手の人差し指を向けた。


「お前! わかっているのか? 今のお前は生霊になっているんだ。早く元の体に戻らないと、体を、近くをさまようやつに乗っとられるぞ? むなしい永劫をさまよい続けることになってもいいのか?」


「ははは! それもよかろうよ? その時は成明も憲平も、ともに引きずり込もうぞ」




 のりひら!


 吉平は今やっと、その生霊の正体に合点がいった。


「遅すぎるぞ、お前」


 晴明は鈍すぎる息子を見てため息をついた。


 吉平は信じられないといった表情で父を見返す。晴明はこくりと首肯して言葉を続ける。


「うん、あれはな、亡き民部刑のご息女で、更衣であられた佑姫だ。今は西京のぼろ邸に一の皇子とお住まいだ。宮中を離れてもなお、怨みは深いのであろうな。物静かで、感情を表さない方だとか。だからこそ、生霊になるほど思いつめるのであろうな」


「そうですか……」


 父と息子の目の前では、女の生霊と玻瑠璃の生霊がにらみ合っている。


「そなたには何の関係もない。下がっていよ」


「それはそうだが」


 玻瑠璃は肩をすくめる。


「成明がおらぬならば、ここにいても仕方がない。そなたのような小娘に説教されてはますますつまらぬ」


 生霊はふわりと宙に浮きあがり、風のように一瞬で流れて消えた。


 玻瑠璃は反射的にそのすぐ後を追いかけた。


「あっ、おい、玻瑠璃! まずいな、追うなっ!」


 晴明は慌てて生霊の玻瑠璃の背に叫ぶ。彼は舌打ちすると慌てて二人の生霊のあとを追った。


「えっ、あっ、ち、父上っ?」


 玻瑠璃の本体を担いだままの吉平はうろたえる。


「そこにいなさい。あの子を連れ戻してくる」




 ふたつの生霊は、清涼殿の屋根の上をはねるように飛んでゆく。弘徽殿の屋根の上で玻瑠璃が追い付いて、佑姫の生霊の袖をとらえた。


「うぬ! 離さぬか小娘!この無礼者め!」


「なぜ惑う? 寵愛を失って主上のもとを去っても、お前には皇子がいるではないか。母が父を怨み夜な夜な体を抜け出して呪いに行くなど、皇子があまりにも気の毒だ」


「黙れ! 世間のそしりに耐え、後見もなく頼りない身で息を殺しながら暮らさねばならないわれらの苦しみが、そなたのような小娘にわかるはずがない!」


「わかるものか!鬼になりたがる者の気持ちなど、一生わからぬわ! 主上をとり殺せばお前は鬼になる。鬼になれば永久に闇から出られないぞ!」


「かまうものか! にくい、にくい! 成明も、二の皇子も! 」



 晴明は弘徽殿の屋根の上で口論する二人の生霊を見つけ、素早く印を結び呪を唱えた。


 すると、佑姫はまるで流星のように西京の方角に飛び去って行き、玻瑠璃ももの凄く強力な力に強引に引っ張られ、はっと気が付くと吉平に心配そうに顔をのぞき込まれていた。



 「うん?」



 柔らかな、褥の感触。しかも、ごわごわした余所行きの衣ではなく、なよやかな小袖姿。


「あれ? なんだったっけ……?」


 くるりと天井を見まわした玻瑠璃に、吉平は安堵の吐息とともにかすかな笑顔を見せた。


「ああ、やっと気が付いた。もう夜明けだよ、玻瑠璃。生霊になって生霊を射かけたこと、覚えてる? 父上がお前を追いかけて、連れ戻してくださったんだ。覚えてる?」


 玻瑠璃は上半身をのろのろと起こし、両側のこめかみを指でぐりぐりと抑えた。




「うぅ。おぼろげに。吉平、ずっとついていてくれたのか?」


「うん。父上は心配ないとおっしゃったが、また抜け出すと厄介だから一応見張っておけともおっしゃってな」


「そうか。一度抜けると、抜けやすくなるのかな?」


「それは困るな。私も寝不足になる」


「お前、寝てないのか? 疲れ切った顔だな。ほら、ここで寝てもよいぞ」


 玻瑠璃は少し体をずらして衾をめくり、褥をポンポンと叩いた。


「えっ? いいい、いや、私は一応、もう元服した身だからっ……」


 吉平は突然の予想外の申し出にうろたえた。火影にも赤面しているのがわかる。


「あはは。冗談だ」


 玻瑠璃は天井を向いて笑い飛ばす。そして枕元に置かれた小さな絹のきんちゃく袋から、ころんと宝珠を手のひらに取り出した。


「そんなに焦るな。ほら、ここには珠王丸もいるんだから」


 玻瑠璃の手のひらの上の宝珠がほわんと柔らかに発光して、次の瞬間には吉平の隣に可憐な唇を継がらせた珠王丸が、胡坐をかいた格好でふわふわと浮き上がっていた。


「昨夜は面白そうだったのに、なぜ私を袋から出してくれなかったのさ?」


「はは、悪かったな。晴明殿が反閇の歩を踏んでいるときの気があまりにも美しすぎて見とれてしまって、気が付いた時には生霊になって体を抜け出して、女の生霊を追いかかていたんだ。ほら、覚えているか? 羅城門で見かけた女の生霊だよ」



 珠王丸は眉尻を下げる。


「生霊になっただなど、お前はまた危ないことをして……」


「お前を出すのを忘れていて、悪かったな。だが楽しかった。屋根の上までひとっ飛びだったし……」


 玻瑠璃がへらへらと笑うと、吉平が彼女の膝をひっぱたいた。


「おい、楽しかった、じゃないよ! そのまま元の体に戻れなかったら、大変だっただろう? 玻瑠璃、もう裳着も済ませたのだろう? 少しはよく考えてから行動するようにしないと!」


 吉平の言葉に珠王丸は深くうなずいた。


「ほぅら見ろ! 私が普段から言っていることと全く同じことを吉平殿も言うだろう?」


「うるさい。あぁ、もう! 口うるさいのが二人に増えたということか。もう説教はたくさんだ!」


 耳をふさいでごろごろと褥の上を転がる玻瑠璃を見て、珠王丸は吉平に苦笑を向ける。


 珠王丸の失望のまなざしを受け、吉平は深いため息をついた。もしかすると、玻瑠璃のほうが弟の次郎よりもはるかに手がかかるのかもしれない。


「私はもう戻って、寝るよ……」


 吉平は力なく立ち上がると、まだぎゃあぎゃあと騒いでいる玻瑠璃と珠王丸を置いて、東の対から離れていった。




 白み始めた清廉な朝の空気に、遅咲きの紅梅の優しい香りが、ほのかに漂っていた。

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