内裏へ

第17話

「ふーん。それで? 九条殿が小野宮殿の枕辺に化けて出るのと、主上に呼ばれて夜陰に紛れてお出かけするのとは、どういう関係があるのですか?」


 夕闇がおり始めたころ、安倍家の西門に秘かにつけられた一台の網代車に揺られながら、玻瑠璃は小さな頭をこてんと横に傾けた。


 彼女の無邪気な疑問に吉平は頭を抱え、晴明はふと口元に笑みを浮かべた。


「それはなぁ、まぁ、あとでわかるさ」


 玻瑠璃は唇を尖らせて、晴明の涼しい横顔に肩をすくめてた。


「もったいぶるなぁ、晴明殿は。ん? 吉平よ、お前なんかすごく緊張しているみたいな」


 玻瑠璃に袖を引かれて、吉平は首だけ彼女のほうに向けると、「信じられない」というような表情で彼女を見た。今からどこに行くか。何も考えていない平然と落ち着き払った様子が、彼にはなぜかとても腹立たしく思えた。


「お、お前がおかしいのだ! 父上はともかく、なぜおまえはそんな風に、泰然と構えているわけ?」


 玻瑠璃はあははと笑って、吉平の肩をぴたぴたと叩いた。


「鞍馬山や比叡山の大天狗とか、愛宕山の太郎坊に会いに行くならいざしらず、だ。とって食われるわけでもあるまい。まぁ、しいて言えば、こっそり内裏に上がるというのは、ちょっと楽しい感じはする」


 吉平はがっくりとこうべを垂れた。晴明はすました顔でそりらぬふりを通しているが、扇の陰で必死で笑いをこらえている。


「内裏には、鬼や悪しき霊が跋扈しているのだろう? なぁ晴明殿、今宵はいくつくらい見えるかなぁ?」


 嬉しそうに牛車の天井を見上げる妹分の無邪気すぎる笑顔に、吉平は常識を問うことをあきらめた。




 普段は徒歩でも通えるくらいの距離を、網代車はゆっくりと進む。東北の上東門の門前で止まったころには、あたりはすっかりと青い闇に包まれていた。


 門前は人払いがしてあるようで、特別警戒の衛士が三人いるほかは、まったく人の気配がない。彼らはしばし、車の中で待たされた。


「……」


「……」


 玻瑠璃と吉平は外の物音に集中する。晴明は慣れた様子で目を閉じている。




 がたん、ごとり。


 牛が外されて、しじ(踏み台)が取り付けられ気配がする。




 やがて衣擦れの音がかすかにして、あてやかな香の香りが漂ってきた。車の前方の御簾の向こうから、上品な中年の女の声がした。


「お待ち申し上げておりました」


 晴明は目を開けるとやっと腰を上げ、御簾を上げた。四十代ほどの上臈とみられる女房が一人、手燭を持ち暗闇の白砂の上で晴明に向かい丁寧に頭を下げた。明らかに、父よりも彼女のほうが身分は高いはずだ、吉平はかたずをのむ。


 晴明は牛車から降りると無言で女房に礼を返した。彼は牛車の中を振り返り、子供たちにも出てくるように視線で促した。吉平は恐る恐る、玻瑠璃はひらりと白砂に降りる。




 女房はそろそろと歩き出す。通い慣れた大内裏の中であっても闇の中。吉平の本能が「油断するな」と教える。


 彼とて、見鬼なのだ。闇に潜む隠形の者たちがおそろしいわけではないが、不気味なことに変わりはない。


 誰も何も言葉を発しない。白砂を踏む足音と、衣擦れの音だけが墨のような闇の中に溶けてゆく。


 ざく、ざくと四人は内裏の門に向かって歩いている。ひとつの門をくぐり、裏口らしき狭いところを通って湯殿(風呂場)のわきの妻戸(両開きの扉)を抜け、藤壺のみ局からよん御殿おとど(帝の寝所)にたどり着いた。


 彼らを導いてきた女房はうすぎぬが垂れめぐらされた御帳台みちょうだい(ベッド)の中に横たわる人影に、何やらひそひそと耳打ちした。


 晴明は床に控え、それに倣い吉平と玻瑠璃もその背後に控えた。


 御帳台の中の人物が身を起こし、女房が引いたうすぎぬの隙間から姿を現した。




「……よう来てくれたな、晴明よ」


 かすれた静かな声は、その人物が健康体でないことを顕著にしていた。


「お加減はいかがでしょうか、主上おかみ


 晴明はこうべを垂れたまま涼やかな声で答えた。主上は深いため息とともに、言葉を絞り出すように話す。


「胸が……ひどく痛む。夜ごと丑の刻のころになると、赤や白の霊が胸を締め上げる。亡き民部刑や九条殿、そして……」


 晴明はその嘆きには答えずに、自分の背後に控える子供たちを紹介した。


「本日は息子の吉平と、弟子の玻瑠璃を連れて参上いたしました。後学のため、御前に侍ることをお許しください」


 すると主上の声に好奇心が乗る。


「ほう。賀茂保憲も目をかけておるそうだな、吉平よ。その年ですでに高い神力を発揮しているとか。それと……そなたが弟子を取るとは、初耳だ。まだ童子か? 幼そうだ。ふふ。双方とも美しいから、そなたの式神どもかと思ったぞ」



 主上はかすかに笑みを漏らした。晴明は口の端を吊り上げる。


「まあ、似たようなものかもしれませんが」


「よい。そなたたちも楽にしろ。人払いしてあるゆえ、何も気にするな。それでな、そなたを呼んだのは、ある鬼のためだ」


「はい」


「わが枕辺に立ち、恨み言を並べる民部刑や九条殿とは別にな。赤っぽいものが……胸をきつく締めあげてくるのだ」


「はい」


「ここ数年、幾度も目にしている。認めてはいけないような気がして、見て見ぬふりを通してきたが……最近では、気力も体力も弱ったせいか、どうにもしんどくてな」


「はい……」


「もし、あれが私の思うものであったならば……」


 主上は言葉を止める。




 晴明と吉平は主上の意味することに気づいている。しばしの静寂。


 主上はふと、玻瑠璃に目をとめる。先ほどから落ち着きなく、大きな瞳は暗闇をあちこち追っている。主上は不思議に思って玻瑠璃に尋ねた。


「そなた、先ほどから何を目で追っているのだ? 何か、いるのか?」


 玻瑠璃ははっと我に返り、主上が自分を見つめているのを認めて晴明を見る。


 肩越しに振り返って晴明は、静かにうなずいて見せた。


 許可を得た玻瑠璃はよくとおる無邪気な声で、御帳台の柱の一つを指さして物おじせずに答えた。


「あれ、あそこにとても美しい、やんごとなき女人が見えるのです」


 晴明は唇の端を引き上げて満足そうに眼を細めた。


「見えたか、玻瑠璃よ」


「はい、とても美しくて、見とれていました」


 玻瑠璃は嬉しそうに首肯した。




 吉平は驚きに口を開けて固まる。


 なるほど、彼にも気配はわかる。しかしそれはあくまで気配であり、ぼんやりとした白っぽい、形のないものにしか見えない。


「なんと……晴明よ、なにが見えるのだ?」


 主上は晴明とその弟子の童子の自然な会話に驚愕した。


「恐れながら、亡き中宮様かと思われます。父上の九条殿が主上を苦しめておられるのを、心配なさっておられるご様子です」


「なんと、宮が?」


 玻瑠璃は御帳台の天幕のあたりを目で追いながらさらりと言った。


「でも、夜な夜なやってきては主上のお胸を締め上げて困らせているのは、生霊いきすだまですよね。あぁ、女か。主上にゆかりのある……これもまた、やんごとなきお方のようです」


 それぞれ別の意味で驚愕したまま固まる主上と吉平をよそに、晴明は玻瑠璃に問いかける。


「ふん。それでその生霊からお前は、どんなことを感じ取った?」


 玻瑠璃は立ち上がり御帳台の周りをゆっくりと歩きながら、両手で宙を探るような動作をする。


 吉平はさらに驚愕する。ああして、霊の残した思念を拾うことができるだなんて……! 


 あいつはやはり、父上のおっしゃったように見鬼の才は私よりもはるかに上だ。


「うーん。怨み……憎しみ、そして孤独。でも……一番大きな感情は……悲しみ」


「悲しみ?」


 主上は愕然として頬を両手で挟み、絶望的な溜息を洩らした。


「やはり……私の過ちだな……」




 晴明は主上のつぶやきを聞き流して、吉平を振り返る。


「おれがあたりが闇に包まれるのを待ったのは、人目を避けて御前に上がるためだけではなかった、それはわかるか?」


 吉平は神妙にうなずいた。


「はい。夜とは陰の気の中、鬼たちの動く時間帯だからですね。夜のほうが鬼の姿をとらえやすいし、父上のお力も最強になります。それに……私たちのような未熟な者たちでも、陰の気をとらえやすくなるからですね」


「では、お前も今、何かを感じ取れているのだろう?」


「はい。玻瑠璃ほどではないのですが……あちらにいらっしゃるお方の気配は、主上をお守り申し上げているように感じますが、くだんの生霊が来ると、あまりの恐ろしさについ逃げてしまわれるようです」


 晴明はこくりと首肯して、今度は玻瑠璃に問いかける。


「ふん。では玻瑠璃よ、お前はその生霊をどうするのが良いと思う?」


 玻瑠璃は晴明の問いに首をかしげる。


「さぁ? まずはその生霊に会ってみないと。御帳台の周りに結界を張って、待ち伏せしてとらえてみましょう」


「ははは。とらえてみるか。それはよい考えだ」


「晴明よ……生霊とはいえ、くれぐれも傷つけたり苦しめたりすることのないように頼む。妄執の鬼と変えてしまったのは、ひとえに私の責任ゆえ。あれ・・はつゆも悪いことなどないのだから……」


「御意」


 晴明は軽く礼を取ると静かに立ち上がった。かすかな衣擦れの音だけで、体重を想像させない羽のような身のこなし。そのしぐさや動きの優雅さやあてやかさは、どんな高位の大貴族にも劣るところはない。


 彼は主上を御帳台に横たわるよう促してその玉顔にそっと手をかざした。


 すると主上はすぐに、規則正しい寝息を立て始める。


 それを確かめると、晴明は懐から一枚の霊符を取り出して玉体のうえにそっと置いてうすぎぬを閉じた。

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