清華

第16話

もとは中臣氏なかとみうじ


 鎌足の息子不比等が持統天皇から藤原姓を許され、その四人の息子たち――北家の房前ふささき、南家の武智麿、京家の麿、式家の宇合うまかい——が四つに分家した。中でも次男の房前の北家が抜きんでた。


 娘たちを次々と入内させて帝の寵愛を得て血縁関係を築き、天皇が幼い時には摂政、長じては補佐の関白となり、政の中心に君臨した。それを綿々と繰り返すことで、垂れ下がる藤のごとく一族は繫栄してきたのだ。



 清華の家でも摂政・関白となり大臣職に就く者は、「うじの長者」と呼ばれる。


 朱雀帝と今上帝を生み国母となった穏子には数人の兄弟がいて、それぞれが虎視眈々と氏の長者の座を狙っていた。



 一番目の兄は「本院の大臣おとど」と呼ばれた時平。二十代のうちに左大臣まで大出世した。この時右大臣だった菅原道真は五十代の半ば。十七歳の醍醐帝は、その先帝であった父・宇多帝の寵臣であった右大臣を何かと頼りにしていた。


 時平にもその父・基経にも、菅公は目障りな存在だった。謀反を企てたという濡れ衣を着せられ、大宰府へ左遷された。そしてその地で失意の中、貧窮の果てに亡くなった。菅公は死してのちに怨霊となり、都に舞い戻り自分を嵌めた者たちを次々と死に追いやったという。


 実際、朝廷に落雷があり、それに打たれて死んだ者や、狩りの最中に底なし沼にはまって命を落とした者がでた。時平は三十九歳で病死、醍醐帝も落雷で感電死した臣下を目の前で目撃し、間もなく体調を崩して四十五歳の若さで衰弱死した。時平自身同様に、その夫人も子供たちもあまり長生きはしなかった。


 人々はこれを菅公の怨念だと噂した。


ただひとり次男の顕忠だけは、「富小路の右大臣」と呼ばれ、つい二年ほど前に享年六十七歳で亡くなった。



 二番目の兄は仲平。三十六歌仙の一人に数えられ宇多帝・敦慶親王父子二代に愛された女房(女官)の伊勢の恋人として有名な男だが、性質が柔和すぎて政治家の素質がなかった。三番目の兼平と五番目の良平は早世していた。


 そして四番目の忠平。長兄の時平の死によって三十歳で氏の長者となった。


 太政大臣まで上り詰め、その子供たちもみな繫栄している。彼が菅公の怨念を受けなかったのは、生前の菅公を敬愛して親しく交わっていたからだと人々はうわさした。父と兄が菅公を陥れようと計略を巡らしていることに気づいた忠平は、何とかしてそれを阻止しようとしたが無駄だった。


 そのため、菅公が大宰府に左遷されてからはその子孫たちの生活を陰ながら支援する一方で、菅公のために寺を建立して菩提を弔った。兄たちが次々と早世したが、彼とその子孫はみな栄達したのである。



 現在の氏の長者は小野宮殿おののみやどのと呼ばれる左大臣実頼さねよりである。


 忠平の長男で六十一歳の闊達な老爺である。娘の述子ともこを今上帝に入内させたが、彼女は皇子を生むことなく早世してしまった。


 八つ年下の弟の師輔も娘を入内させ見事に男皇子を生ませその皇子を東宮に立てたので、出世争いに遅れたかに見えた。しかしその師輔が七年前に五十二歳の若さで急死したため、彼の孫である東宮の後見を実頼がすることとなった。


 娘の安子が寵を受けてあまたの皇子皇女を設けたにもかかわらず、栄華の手前で急死した不運な弟の幸運を引き継いだことになる。


 実頼の幸運はその人柄ゆえなのだと、世間はうわさする。


 まじめを絵に描いたかのような清廉実直、父忠平と同様に信心篤く人々の信頼も大きい。歌をよくたしなみ、様々な身分の人々と分け隔てなく交流する。今上の信頼も厚く、のちに甥にあたる東宮が新帝として即位したあかつきには、彼が摂政となるであろうと言われている。


 この幸運をうらやむ者もいれば、妬む者もいる。




 亡き弟の師輔は「九条殿」と呼ばれ、有職故実を重んじ貴族の様々なしきたりを編纂する一方で、悪賢くちゃっかりした面があった。


 菅公の怨念で多くの官僚が命を落とすと、朝廷は彼を怨霊ではなく神として北野神社に祀った。師輔は多大な寄付をして、立派な社殿に改築させ、九条家の守り神として崇め始めた。


 すべてがうまくいくと思われた矢先、彼はあっけなくこの世を去った。五十二歳かならこの時代では平均寿命だったと言える。しかし一部では、九条殿の死はある方面からの怨みであったともささやかれている。




 故・民部刑の、藤原元方。


 その男が師輔を呪い殺した怨霊の正体だと言われている。奇しくも元方は菅公に雷を落とされて感電死した藤原南家出身の参議、菅根すがねの息子であった。


 怨霊にたたられて頓死した男の息子が怨霊になるとは、世も末だ。元方のむすめ祐姫は更衣(位の低い側室)として村上天皇に仕え、寵愛を受けて一の皇子を生み参らせた。この皇子は広平親王と言ったが、五十日の祝いのころには、若い父帝によって立太子することが決められた。そこで焦ったのが、まだむすめが懐妊中の師輔であった。


 師輔のむすめ安子のお産が近づいたころのある夜。


 宮中で宿直していた元方と師輔は、双六をしていた。師輔の兄、実頼もその場に一緒にいた。状況は元方に軍配が上がりそうだった。師輔がサイコロを振る番になり、彼は口から出まかせにさいころを手の中で転がしながら言葉を唱えた。


「女御の生み参らせる御子が男皇子であらせられるならば、重六ちょうろく(六のぞろ目)よ、いでよ!」


 ざわり、と周囲がどよめく。対する元方の表情が青ざめて固まる。ふ、と笑みを漏らした師輔がはたしてサイコロを振ると、本当にぴたりと二つの六の目が出た。周囲は再びどよめいた。


 実頼は扇の陰でちらりと元方を盗み見た。彼は青を通り越して真っ白な顔をして、わなわなと小刻みに震えていた。




 これが予言でったのかどうか、数日後、安子は男皇子を生み参らせた。


 これが村上帝の二の皇子、憲平親王である。予言通りの男皇子の誕生に勢いづいた師輔は、持ち前のちゃっかり精神と口のうまさで若い帝をうまく言いくるめ、身分の低い更衣の生んだ一の皇子ではなく高貴な女御の生んだ二の皇子こそが東宮にふさわしいと、生母の身分を理由に一の皇子を廃太子させて二の皇子を立太子させてしまったのだ。


 元方はあまりの屈辱に耐えかねてそれから床に臥せるようになり、三年後に病死してしまった。


 元方の死の七年後にころりと死んでしまうまで、師輔はその怨霊に苦しめられ続けた。師輔のむすめ安子も多くの皇子・皇女を生んだものの、今から三年ほど前に六番目の子である選子内親王を生んで間もなく、三十八歳で儚くなってしまった。


 東宮の座をわずか数か月で追われた一の皇子広平親王は、妹の諿子しゅうこ内親王としばらくは宮中で暮らしていたが、生母の佑姫が退室して暮らしていた亡き祖父元方の邸に母と暮らすことを決め、宮中を去ったという。


 妹姫は幼いうちに亡くなってしまい、今は母と息子ふたり、西京の邸にひっそりと暮らしているという。




 元方を怨霊し変えてまでもぎ取った権力への糸口を逃し、師輔は死の床で未練に身もだえた。


 自分の死後、すべての栄華は兄実頼のものとなろう。彼は今わの際でさえ、兄への逆恨みを呟いていた。


「ああ、悔しい。私は死ぬ。あぁ、つまらぬ……これからというときに、くそぅ、元方め。くそぅ、兄上め。つくづく……運のよい……」


 師輔のこの世の栄華と権力への妄執を枕元で聞いていたのは、八男の高光であった。二十一歳、右近少将といて前途洋々の若者は、父に似ず権力に欲がなく物静かな青年だった。実の兄までも逆恨みする父親の醜い姿を目の当たりにした高光は、父がなくなるとすぐに妻子を捨てて仏門に入ってしまった。


 現在は多武峰とうのみねにて小さな寺で読経三昧の心安らかな日々を送っているという。



 そうして実の兄まで逆恨みしながら死んだ師輔は、今度は自らが怨霊となり、兄の実頼にたたり始めた。


 怨霊となった師輔はよなよな兄の枕元に立ち、冷たくじっと実頼を見下ろすのだという。もともと、あまり仲が良い兄と弟とは言い難かった。師輔が年上の皇女にひそかに通って側室の一人として降嫁させたことも、その妹皇女にも密通していたことも、皇室との縁に執念を燃やす弟に対して実頼は軽蔑しか感じなかった。


「私の血筋で、天下を取られるのか……兄上よ。恨めしや……憎らしや……この先は兄上の血筋が絶えるよう、呪いに呪って差し上げましょうぞ」

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