秘密の外出

第15話

「玻瑠璃さま……」


 御簾の向こうから、やわらかな優しい声がそっと聞こえてくる。


 萌黄匂い(黄緑系のグラデーション)の袿姿で珠王丸と双六をしていた玻瑠璃は、人差し指で宙にくるりと小さな輪を描いた。


 すると御簾がひとりでにくるりと巻き上がり、その向こうに控えている美しい桜の精霊の姿が見えた。



「なぁに? 花霞かすみ


 玻瑠璃はサイコロを宙に放りながら答える。


「殿のお呼びでございます。余所行きの上等な衣をお召しになってくるようにとのことでございます」


「ふぅん。何を着ていけばよいのかな? の子の格好か? の子の格好か?」


 玻瑠璃が首をかしげて天井を見上げると、花霞が袖の陰ではんなりと微笑み、自分の膝の前に置かれた平らなつつみをついと差し出した。


「こちらをお召しください」


 珠王丸が受け取ってそれを解くと、濃き薄き青色の衣が数枚入っていた。


「ああ、の子の格好だね」


 玻瑠璃はふと笑みを漏らした。外出するのであろう。しかも、身分の高い人がいるところへ。


 それは青色のグラデーションの重ね着をする、「若草がさね」と呼ばれる色合いの組み合わせの水干とひとえ。そして海老染めのくくり袴も入っていた。


 なるほど、上質な絹だ。そのまま、花霞の手伝いを受けてそれらに着替え、髪は首筋の上ですっきりと一つに束ねる。


「おお、まるで元服前の大貴族の子息といったかんじだな」


 珠王丸が感心して、安坐のまま宙でくるくると回転する。


「男の子の格好も播磨からの旅路で結構板についたな」


 玻瑠璃もまんざらではない様子で、自分を見下ろして笑みを漏らす。




 寝殿の晴明の私室へ行くと、そこにはすでに吉平が座していた。


 彼は薄縹うすはなだ色(くすんだ青)のほう(正装)を着て、どこか落ち着かない様子で緊張しているように見える。


 玻瑠璃が安倍家で暮らし始めてから四日ほど経ったが、吉平の正装は初めて目にする。正装、ということは、貴人のもとへ出向くことは確定だなと玻瑠璃は思う。




「さぁて、今からどこに行くと思う?」


 同じく、浅緑色の袍で正装した晴明が口の片端を上げていたずらっ子のように笑む。


 玻瑠璃はあきれたように首をかしげる。


「それは、かなりのやんごとなき筋へ、でしょう? でも、私たちがついて行ってもよいのですか?」


「ああ。そりゃあ普通に考えればよくはないが。後学のためにはよかろうし、お前たちの面通しにもなるからな。普通に考えなければ、よいことだらけだ」


 屁理屈を繰り広げながら、晴明はすこぶる機嫌がよさそうに見える。一方で吉平はなにかただならぬ雰囲気を感じ取っているが、指摘することがおそろしいので無表情のままじっと目の前の床を見つめている。一種の現実逃避だ。


 玻瑠璃は両者を一瞥してから再び晴明に視線を戻し、くすっと笑う。


「ははぁ。なるほど。晴明殿、今から鬼をいじめに行くのでしょう? だからそんなに楽しそうなんだな。それで、悩めるやんごとなきお方はどちらのお方ですか?」


「うん、なぁに、ほんのご近所さんさ。内裏にお住まいのな」




「はっ?」


 吉平がびくりと肩を縮めて目を丸くして父を見上げる。彼の嫌な予感はそこで確信に変わった。しかし玻瑠璃はふうんとゆっくりうなずいただけだった。


「ふぅん……では、主上おかみかぁ」


「おっ……!」


 吉平は素っ頓狂な声を上げ、今度は玻瑠璃を見た。眉をしかめ言いようのない非難を示すが、玻瑠璃はまったく素のままだ。吉平はその玻瑠璃の態度にさらに動揺する。

 

 いくらつい数日前まで播磨のド田舎に住んでいたとしても、オカミとはどなたなのかは知らぬというドあほうなはずはない。殿上を許されていない下級貴族が気軽に直接お目通りできるような方ではないというのに。


「——いやだな、わかっているよ、無論」


 玻瑠璃は軽く吉平を睨みつけて唇を尖らせた。心を読まれ、吉平は顔を真っ赤にしてますます動揺を激しくする。


「ひ、ひっ、ひとの心を、勝手に読むなっ!」


「だって、お前があまりにも失礼なんだもの。ド田舎とかドあほうとか。一般常識ならば、播磨でもうんざりするほど仕込まれてきたぞ」


「す、すまない。お前があまりにも平然としているので、つい。ところで、父上、ただいまからどちらでどのように、主上にお目通りするのですか?」


 晴明は眉をしかめる。何をばかなことを、とでもいうようにあきれ顔で息子を見る。


「清涼殿におわすのだから、そこに参上するしかないであろう? お前は時々、心配になるほど鈍いよな」


「で、ですが、われらは地下人じげびと、参内も許されておりません……」


 吉平は口ごもる。なんだか、この父に対して一般的な常識を述べる意味はないとはわかっていても、とりあえず言ってみる。




 そんな頭の固い優等生のような息子に、晴明は苦笑する。


「だがちょく(帝の命令)だもの、上がるしかないではないか? どんなにやんごとなき公卿ばらでも、財力や権力でもどうすることもできぬものが相手ゆえ? 吉平よ、おれにも一応、一般常識はあるぞ」


 玻瑠璃が袖の陰でくすくすと笑う。晴明は人差し指を唇の前で立ててにやりを笑んだ。


「世の中には必ず、オモテがあればウラもあるのだ。口外は一切無用だぞ、吉平」


 吉平はただただ当惑しきって、口をパクパクと動かした。




「延喜の帝」とは、第六十代、醍醐天皇のことを言う。その治世は「延喜の聖代」として四十年を経た今の世でも称賛され続けている。若くして帝位につき享楽を好み詩歌や楽を発展させ、一方では多くの女御更衣ら女官たちにあまたの皇子皇女らを生ませた。


 しかし、あまりの皇子の数の多さに、国家財政で養いきれなくなった。



「清華の家系」と呼ばれる藤原北家の名門摂関家出身の女御皇后腹の皇子たちは別として、弱小貴族や中流貴族の娘たちの腹に生まれた皇子たちには「源」の姓を授け、臣籍に下した。彼らは「醍醐源氏」と呼ばれている。


 同様に、母親の身分の低い皇女たちは伊勢の斎宮や賀茂の斎院とし神に奉仕したり、帝が臣下とのきずなを深めるための手段として彼らに下賜されたりした。


 正確な人数は定かではないが、醍醐の帝にはお子が二、三十人はいたと言われている。その中で皇位を継いだのは二人の皇子だった。



 左大臣藤原時平の讒言ざんげんを信じて右大臣菅原道真を大宰府へ左遷した醍醐帝は、その呪いを恐れながら病死した。跡を継いだのはわずか八歳の第十一皇子、寛明ひろあきら親王だった。「五条のきさき」と呼ばれた藤原穏子ふじわらのしずこの生んだ皇子である。穏子は太政大臣昭宣公基経の娘で、菅公を陥れた時平の妹に当たる。父帝の死後に即位した寛明親王は朱雀帝となった。この帝の治世には、物騒な事件がたくさん起きてしまった。


 常陸の国下総しもうさの平将門の反乱。瀬戸内海の藤原純友の乱。地震、洪水、台風に疫病。朱雀帝は精神的疲労甚だしく、たった二十四歳の若さで譲位してしまった。上皇となってからはまつりごととは無縁の悠々自適な生活を、つい十五年前に崩御するまで続けた。



 次に即位したのは今上帝である。先帝の同母弟、第十四皇子の成明なりあきら親王である。二十一歳で即位したが、それまでは上総の国の太守や太宰そちなどの官職に就いていて、政にも関心が高かった。


 自らの職務経験から主上は臣下たちの派閥をよく理解していて、無駄な権力争いが起こらないようにと、関白職を置かずに自らが政をっている。この親政はなるほど長く平和な世の中をもたらした。


 今上にも、父帝に負けずおとらずに数多くの皇子皇女がいる。


 清華の藤原の権力独占が弱いため、貴族たちは競うようにわが娘を今上に入内させた。中には姉妹での入内もある。


 だがやはりその中でも躍起になるのは、次期摂関の野望を抱く清華の藤原兄弟たちだ。

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