対話

第12話

梅が香る。




透垣をさらさらと流れる水のかすかな音。


とても静かな庭。


 

「どうだ? 気分は」


心が和む、柔らかな空気。


寝殿の南廂みなみひさし御簾みすを上げて庭が眺められるようにした部屋に、まだ冷たい春の清廉な微風がそよと吹き入ってくる。低く穏やかな声が聞きなれてもいないのになぜか安心させる。



脇息に寄りかかって片立膝でくつろいだ様子で座している晴明の向かいには、ようやく人心地ついた玻瑠璃がぐったりとした表情でちょこんと座っている。


彼女は水干の童姿のままでこくりとうなずいた。


「播磨にいた時も外出するとすだまどもが助けろ、どうにかしてくれとのしかかってくることがあったけれど、あんなにたくさん、いっぺんに来られたのは初めてだった。いちいち払いきれなくなって、それなのにどんどんのしかかられて……死ぬかと思った。巨椋池の雨龍の言うとおり、すごいところだな、都というところは」


「いちいち目を合わせるからいけない。見鬼の常識であろう。すべて拾ってきたら、朱雀大路を上がってくるだけでも一日かかる。ところで珠王丸、使いの者から話はきいた」




晴明は涼しい視線を玻瑠璃から珠王丸へと移した。


玻瑠璃は晴明を盗み見る。自分と同じ色の瞳をしたには、初めて会った。彼は玻瑠璃のもの言いたげな視線を受け流しながらため息交じりに語る。


「八雲殿はおれの知己だ。あのかたからも当麻たいま殿からも、万が一の時には孫娘をよろしく頼むと言われていた。ほんに、大事であったな。今日よりここで暮らすがよい。東の対にお前たちの部屋を用意させよう。ほしいものや必要なものがあればなんなりと申し出ろ」


玻瑠璃は今度はまっすぐに、晴明の灰色の瞳を見つめる。


「あ、あの。晴明殿。お願いがあります」


「なんだ?」


「私をあなたの弟子にしてください。修行して力をつけて……どうしても強くなりたい」


晴明は思慮深い灰色の瞳に好奇心を浮かべ、片眉をくいと上げた。


「ふん。お前、かたき討ちをするつもりか」


玻瑠璃は間をそらさずに深くうなずいた。珠王丸が不安げに傍らの玻瑠璃を見つめる。


「はい。何年かかってもよい、いつか必ず、おばば殿と姉さまのかたきを討つ」


「そうか」


「止めても無駄です。かたき討ちをするなと言うなら、どこへなりとも去って自力で修行するし、外法げほうでもなんでもいいから究めてやる」


「は、玻瑠璃! 何を言う?」


珠王丸がたまらず叫ぶ。晴明ははらりと扇を開いて、その陰でくすりと笑った。



「おい、おれがいつ、かたきを討つなと言った? なんとも気の強い奴よ。ところでお前、おれのことは八雲殿から何か聞いているのか?」


「いいえ、なにも。知り合いだとは今知ったばかりだし……」


「そうか。代々の優れた巫覡ふげきの家に生まれ、祖父の当麻殿に術を習い、すでにそのへんのヘタな修験者よりは神力が強くとも、お前はまだまだ未熟者だ。巫女としても、人間としても、な。幼き身一つで確かな後見も寄る辺もなく、しかも命を狙われているようだ。そんなお前がどこへ行くと? 女の身では山の神に拒まれる。あせってかたきを討とうとしても、邪悪な力に返り討ちにあって命を落としては、かたき討ちもあったものではないだろうな」




玻瑠璃は膝の上で握りしめた両こぶしにさらに力を込める。


こんなことは初めてだ。


目の前にいる人物は一見優男でいかついところなど一つもない。しかし、男の放つ気は、今までに誰からも感じたことのないものだ。全身にびりびりと伝わる彼の気の波動は、玻瑠璃をひるませている。


かなわない。本能が彼女にそう伝えてくる。


「……」


青ざめる玻瑠璃に、晴明はにっこりと微笑んだ。


「お前、いくつになったのだ?」


「はぁ……十四、です」


「裳着はすませたのか?」


「いちおう」


「そうか。うちには十五になる吉平と十二の次郎という二人の子がある。先ほど騒いでいた小柄なほうが吉平だ。お前を抱えてきたのはあれの友人で丹波忠明という、十六か七だったかな」


「ああ、白い小さな龍が烏帽子に絡みついていて、とてもきれいな気を発していた子か。やわらかくてやさしげな気だったな」


玻瑠璃の言葉に晴明はまた片眉を上げた。


「ほう、見えたのか。そう、優しすぎて弱い。他者に優しすぎて、自分のことには気が回らない子だ。幼いころからよく連れていかれそうになる・・・・・・・・・・・。だからあれには守り神をつけている。忠明のほうも今時珍しいくらい美しい気の持ち主だが」


「植物に囲まれて暮らしているのかな。緑色の、すがすがしい気を放っていた」


「ああ。それとこの近所に住んでいる、あれのもう一人の友人も珍しい気をしているぞ。渡辺綱という子なのだが、生まれながらの見鬼のようでな」


「へぇ。さすが都会には、いろいろな者がいるのだな。でも、晴明殿はどうして、うちのおばば殿とはどういった知り合いですか? おじじ殿には、昔高野山であったことがあると聞いたことはあったけれど……」


「八雲殿は都までも名の届く神力をお持ちのかただ。当麻殿も相当な神力の持ち主であられたが。八雲殿より先に、おれはお前の母と知り合いだったのだ」


「そ、それは、その、もしや晴明殿は私の父ということは……」


玻瑠璃が心もち身を乗り出して上ずった声で控えめに尋ねたが、晴明は数度、首を横に振った。


「残念ながら断言しよう。おれがお前の母に初めて会った時、あの人はすでに腹の中にお前を宿していた。もっとも、お前の瞳の色がおれと同じということで、吉平たちもお前がおれの子かと疑っていたようだが」


晴明は扇の陰でおかしそうに肩を揺らす。玻瑠璃は少々混乱する。


「で、では、あなたはなぜに、私が生まれたときに都からやってきて、私の宝珠をこうして珠王丸に変えたのです?」


「それは時が満ちて、お前の力が目覚めたときに教えるとしよう。だからそれまではおれを実の父と思ってくれてもよい」




彼のやわらかく静かな、それでいてそれ以降は質問を一切受け付けない強さが入り混じった口調に、玻瑠璃はなにか訊ねることをあきらめた。


それにしても、不思議な感じがする。


初めて会ったのに(正確には玻瑠璃が生まれたときに会っているようだが、もちろん記憶にない)、ずっと知っていたような妙に懐かしい感じ。


こちらが気後れするほどのすごい気の持ち主でありながら逆に心地よさを感じるのは……そうか、波長を合わせていてくれるからであろうと感じる。




「ここ数日間の、播磨からの慣れぬ旅路、それにすだまどもにあれだけ憑りつかれればさぞやしんどいことであろう。今日はもう休むとよい。用があるときには、そこら辺の紙切れや棒切れを使うとよい。おれの結界内であれば、簡単に式として使えるはずだ。では、案内させよう」


晴明は扇をぱちりと閉じた。するとすぐにさらさらとかすかな衣擦れの音がして、優美な美女が簀子縁に表れて控えた。


「お呼びでございましょうか、殿」


晴明はかすかにうなずいて、口をぽかんと開けて美女に見とれている玻瑠璃に言った。


花霞かすみという」


ふわりと、かすかに桜の香がほのかに鼻孔をくすぐった。まだまだ、桜の季節ではないに、と玻瑠璃は首をかしげる。


「花霞、これは玻瑠璃という。こちらの精霊は珠王丸。今日から東の対に住むので、世話を任せる」


「はい、かしこまりました」


やわらかな声色で答えて頭を下げ、花霞はふわりと花のかんばせを玻瑠璃に向けて微笑んだ。


ああ、この香り。桜の精霊なのか。


玻瑠璃は晴明に頭を下げ、歩き出した花霞の後についていった。珠王丸はもう少し晴明に話があるからとその場に残った。




渡殿を歩きながら玻瑠璃は先を行く花霞に遠慮がちに話しかける。


「あのぅ……ここは北の方(夫人)はいらっしゃらないの?」


この邸には人の女の気配・・・・・・が全く感じられない、と玻瑠璃は思う。


「はい。もうずいぶん前に、儚くおなりになりました。次郎君をお生みになられて間もなくだったようです。それ以来、殿は新しく女君をお迎えすることなく、お子様方と三人さまでお住まいでございます」


「こんな広い邸に、たった三人で?」


「ふふ。本日よりは玻瑠璃様をお入れして、四人さまでございます」


花霞ははんなりと微笑んだ。


南庭の一番日当たりのよい一角には、桜の木が数本植えられている。その中のひときわ大きな、池に枝を広く張りだしている古木を指して玻瑠璃は訊ねた。


「あれ、あの大樹。あれはお前でしょう?」


花霞は微笑んだまま袖の陰でうなずいた。


「はい、左様です」


「私の播磨の家の庭には、梅の木のおじじたちがいたよ。白麿と紅麿といって……」


玻瑠璃ははっと息をのみ押し黙る。炎の中から聞こえてきた、苦し気なうめき声たち……


うつむいた玻瑠璃にやさしげなまなざしを向け、花霞は穏やかな口調で静かに告げる。


「玻瑠璃様、水性すいしょうのおかた。あなたさまは、草木にはなくてはならないおかた。あなたの気の波動は私たちにとって、水や日の光と同じくらい心地よいものなのです。火は私どもにとりましては死を意味します。しかし根は土に守られております。その梅たちもきっと生きながらえて、また会うこともかないましょう」


玻瑠璃は泣きそうな顔で桜の精を見上げた。梅たちの末路を語ってはいないが、玻瑠璃の思念から起こったことを察したようだ。


彼女はぐっと悲しみを飲み込んで、鼻にしわを寄せてくしゃりと笑んだ。


「うん、そう願いたいな……」




「おい、吉平」


忠明と綱が帰って、高欄に寄りかかりぼんやりと庭を眺め物思いにふけっていた吉平は、父に名前を呼ばれていることに全く気付いていなかった。


「吉平?」


肩を叩かれてびくりと我に返り、振り返って怪訝そうな晴明の顔を見上げると、吉平はのけぞって両手をついた。


「うわっ?」


「おい……なんだお前、実の父に」


晴明は苦笑して息子を見下ろした。


「あっ、す、すみません!」


「ちょっと、いいか?」


晴明は手を差し伸べる。吉平はその手を取って立ち上がる。晴明はふと微笑む。まだ追い越されることはないが、ずいぶんと背が伸びたものだと思う。


「はい……なんでしょうか」


「先ほどの童は、玻瑠璃と言ってな。播磨の知人の家のむすめなのだ」


「ええ? む、むすめ、ですか?」


「なんだ、男の格好をしていたから男だとでも思っていたか? 鈍い奴め。忠明はちゃんと女として扱っていたぞ。まあいい。とにかく、代々続く由緒正しき巫覡の家系の子だ。見鬼でもある。祖父は天狗も恐れる験力の修験者で唱聞師しょうもじだった。あの子は生まれながらの強い神力を持つ。お前の良き競い手となるだろう。国で突然の不幸があり、寄る辺なき身となった。年も近いことだし、ああ、お前の一つ下か。仲よくしてやってほしい」


「あの……一つだけ、よろしいでしょうか」


「うん? なんだ?」


「その……あの、あの子は……私の、い……妹、なのでしょうか?」

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