黒龍、上る

第10話

「おはようございます、父上」



 うす青の朝の澄んだ冷気の中、母屋の廂に佇んで庭を眺める晴明に吉平は丁寧なあいさつをした。


 いったい、いくつなのかと誰もが不思議に思う。二十代からあまり変わらぬ優美で雅やかな容貌。年を取らない呪でもあるのかしらと、実の子の吉平でも不思議に思うくらい晴明はいまだに若々しい。


「うん? おはよう、吉平。お前、朝からどうしてそのような疲れ顔をして」


 顔だけ庭から息子へ向けて、晴明は少し目を細めた。吉平は淡く苦笑を浮かべ、父の隣、半歩ほど下がったところに立って庭を眺めた。



「はい。今しがた、変な夢を見てしまいました。自分では夢解きができません」


「ほう。どういう夢だった?」


「黒い龍と白い龍が……身をうねらせて私の目の前を何度もかすめてゆくのです。怖いわけではなく……だがこころがふわふわと落ち着かず……なぜかとても気になって不安な気持ちになったのです」



 晴明は少し驚いたように目を見開いて息子を見て、話を聞いてからくるりと視線を空に向けて、しばらくすると何度か小さく頷いた。


「――六日ほど前だったか。太陰(月)は二日ほどの月齢で、赤く染まって見えていた。折しも九坎日きゅうかんびに当たり、水を司る北の星の前を流れ星が横切った。気になったので式盤ちょくばんで占ってみたところ、黒龍が上る・・・・・と出た。その翌日には播磨から遣いが届き、その上昨日は巨椋池おぐらいけから知らせが届いた。なるほどな。それでお前の夢に現れたのか」


 ひとりふんふんと納得顔の父の横顔を仰ぎ見て、吉平は困惑顔で首を傾げる。いったい、何のことなのか全く理解できない。


「父上……まったく解せません……」


「うん? 黒龍、な。黒は北、水性を表す色だ。九坎の星も北で水を司る星だ。その意味は、尋常ではない水性の者が、お前に近づいてくることを意味するな。白龍の白は西、そして金性ごんしょうだろう? お前が生まれた時に私がつけたお前の守護だ。水に金……『相生』か。ふん、なるほどな。あれ・・はお前にとってよき競い手になるのだろうな」


「はい……?」


 ふふ、と意味深に微笑む父の笑顔に、吉平はますます首をひねる。まったく、夢解きしてくれていない。かえって謎が深まっただけだ。


「安心おし。悪い兆しではない。まあ、近々その夢の意味もおのずと知れよう」


「はぁ……」


 晴明は息子をやわらかなまなざしで見下ろして微笑んだ。吉平はそんな父の外では見せない、父親らしい慈愛に細まる切れ長の目を見つめる。




 透き通るような、灰色の瞳。


 人外の山奥の清廉な泉の水のような。


 その稀有な色のせいで、化生の者などと噂されている。


 すべてを見透かしてしまうような、思慮深い、神秘的な灰色の瞳。


 血のつながった実子の吉平も次郎も、ともに鳶色に瞳なのに――




「その龍の正体は、のちのお楽しみさ」


 晴明はいたずらっ子のようにくすりと笑った。


 吉平はあきらめて肩をすくめた。


「ううん……よくわかりませんが、父上が悪い兆しではないとおっしゃるのなら、心配することではないのでしょうね。では、私は用意をして出仕することにいたします」


「そうしなさい」


 吉平ははい、と会釈しながら返事をして自分の部屋のある西の対に戻って行った。




「よしひらっ!」


 大内裏の陰陽寮を出て待賢門へ向かう道すがら、吉平はなじみの声に呼び止められて振り返った。


 右手を高く上げてぶんぶん振りながら小走りにやってくる、ひょろりと背の高いやせっぽちの少年。


 二つ年上の親友・忠明ただあき。吉平よりも頭一つと半分ほど背が高い。ひとなつこいたれ目の、医学生いがくしょうだ。代々、和気わけ氏と医学の分野を二分する名門・丹波氏の長子で、祖父は医学を司る典薬寮てんやくのりょう長官かみはり博士の丹波康頼、父の重明は医得業生。


 忠明はおもに薬草に関することを専門に学んでいるため、普段は左京の南にある薬園にこもっているが、たまに講義を聴講するために典薬寮に出仕する。




「おう、忠明、今日は大内裏こちらか」


 吉平は駆け寄る友に立ち止まって微笑んだ。忠明が目の前に来ると、ふうわりと植物の青い香りが彼の袖から香ってきた。


「ああ。正世殿のお手伝いで、書物の整理をしていたんだよ。さっきやっと終わったのさ」


「では、もう帰れるのか。なぁ、うちに寄らないか? あとから綱も来るし」


「おう、寄るよ。珍しいものを持ってきたんだ。皆で食おう」


 忠明は左に抱えていた包みを吉平の目の前に差し出して解いてみせた。なにやら、いびつな形の黄色い実が姿を現す。手のひらにちょうど乗るくらいの大きさ。はんなりと甘い香りがする。


「なんだそれ? 甘いにおいがするな」


菴羅あんら(マンゴー)の実さ」


「それはそれは……いいのか?それ、薬園のものだろう?」


「うん。沙羅さらの親父殿がくれたんだ」


「ならば沙羅殿と食えよ」


「あいつが吉平たちに食わせろって言ったんだよ」


 沙羅とは薬園の責任者である渡来人の娘で、忠明の恋人である、自身も薬師である娘のことだ。吉平の幼馴染でもある。


 二人は他愛ない話をしながら大内裏を出て、壬生大路を上り、土御門大路に折れて東へ向かう。

 



「和気正世殿のお手伝いの書物整理って?」


「うん、鍼の技術書の整理さ。ほら、私の祖父も鍼博士だし、私個人としても興味があったのでこちらからお願いしてお手伝いさせていただいたんだ。なかなか勉強になったよ」


「直接、康頼おじい殿に伺えばよいのに?」


「だめ。この国独自の、誰にでも簡単に読み解くことができる医学書の編纂に最近は没頭されていらっしゃるから」


「ふうん、そうか。それにしてもあの頑固おやじの正世殿と、長時間よくご一緒できるね」


「はは。そんなの世間でよく言う他愛もない噂だよ。正世殿は寡黙だけれどよいお方さ。それでお前のほうは、もう陰陽寮には慣れてきたか?」


「ううん……どうも私はどんくさいから、よく保憲殿に叱られるんだ。今日は遅刻せずに安心したら、式占盤ちょくせんばんを落として壊して、光栄みつよし殿に叱られたよ」


「光栄殿は短気だからなぁ。ま、そうやって叱られるということは、逆に言えば期待されているということかな」


 忠明はそう言って苦笑した。




 陰陽頭の賀茂康頼の長子である光栄は得業生で、今年二十九歳。プライドが高く他者を見下すところがある。


 実の父子でありながら、保憲とはウマが合わず不仲である。陰陽寮でも浮いた存在であり、孤独を好む反逆児。


 しかし、よちよち歩きのころから子犬のようにまとわりついてくる吉平のことは、煙たがりながらもよく面倒を見てくれている。



「私が何かやらかすたびに、周りがみな同じことを無言で言う・・・・・のだよ。『お前は本当に、あの・・晴明殿の息子なのか』とね。でも光栄殿は、そんなことは今まで一度たりとも言わないんだ。失敗すると怒るけれど、父上を引き合いに出すことは、絶対にしないんだよ」


「祖父や父と比べられるのは嫌だよな。光栄殿もそのことはよくわかっていらっしゃるんだろうね」




 二人は他愛ない話をしながら西洞院大路まで差し掛かった。安倍家の西門の前まで来ると、忠明が門の前でうずくまる二人の童を先に見つけて吉平の肩をたたいた。


「吉平、お前んちの前に人がいるよ」


「うん? 本当だ。童が二人……次郎ではない、よな」


 吉平も忠明が示したほうを見て首をかしげた。うずくまる二人の頭上には、何やら無数のもやもやした霊気が重くのしかかっている。


 ふと、吉平たちに気づいた一人の童が顔を上げ、駆け寄ってきてすがるような瞳で吉平に訴えてきた。


「もし、あなたは安倍のご子息とお見受けいたします。私共は安倍晴明様を訪ねてまいりましたが、ここまで来てわが主の具合が悪くなりまして……お願いでございます、播磨からの者たちが参ったと、お取次ぎ願えますでしょうか。先ぶれは、巨椋池より送られているはずです、とも」




 見たこともない、どこか人離れしたきれいな顔立ちの童がそう告げる。吉平は何も答えられずにきょとんとしてしまう。忠明はそんな吉平の背後から脇をすり抜けて、うずくまっているほうの童に近づいてしゃがみ込み、その真っ青な顔を覗き込んで吉平を振り返る。


「吉平、晴明殿をお呼びしてきてくれ。それと花霞殿に床の用意を頼んで!」


「あっ? あ、ああ!」


 名を呼ばれて吉平ははっと我に返った。そしてひらりと門の中へ飛び込んでいった。


 忠明は小柄な童の手首を取り、脈を測ってからぐったりした童——玻瑠璃をひょいと抱きかかえた。


「私は医学生だ。この子を運ぶから、きみはこの子の笠を持ってついてきてくれ」


 忠明は珠王丸を振り返ってそう言うと、玻瑠璃を抱きかかえたまま立ち上がった。珠王丸は二つ返事でうなずいて玻瑠璃の笠を手に取ると、門をくぐって中に入ってゆく忠明の後ろに付き従った。


「それにしても、脈は正常なのに、なぜこんなに顔色が青いのだろう?」


 玻瑠璃の顔を覗き込み眉根を寄せる忠明に、珠王丸は苦笑して答えた。


「それは、医学ではどうにもできないことなのです。都はあまりにもいろいろなすだまが多すぎて……油断していたところに一気にのしかかられて。ここにたどり着くまでにどんどん吸い付いてきてしまい……ですから、晴明様でないと」


「あーあ、なるほど……」


 今度は忠明も苦笑した。彼は寝殿のきざはしの中ほどに、そっと玻瑠璃を降ろした。

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