異能の少年

第9話

突然、黒く艶やかな、大人の手のひらほどもある大きさのうろこが目の前に飛び込んできた。




うわぁぁぁ!




ほんの鼻先を、大きな黒い胴体がしなやかにうねりながら横切って行ったので、吉平は思わず驚愕の声を上げて小さなあごをのけぞらせ、しりもちをついてしまった。


ふう、と息をついて立ち上がろうとすると、今度は逆側から七色に光る白いうろこの巨大な胴体が横切った。



わ、わ、わっ、う……わぁ!



立ち上がりかけた吉平は、再びしりもちをついた。



ブン……ブン――!



遠く、近く、耳の奥から響く、地鳴りのような低い……心地の良い鳴動。



これは、何の音だ?



ブン――ッ!



紐のような縄のような、しなやかな長いものが、宙を切り裂く。


あっ、あれはヒゲ、か?


もしかして、あれは……




黒い龍。


そして、白い龍。




二頭の巨大な龍たち。



あぁ……なんと、美しい生き物たち……






「あっ!」


吉平は声にならない悲鳴を飲み込んで目を覚ました。


見慣れた天井。


上半身をしとねから起こし、ゆっくりと深呼吸する。


「夢、か……」


彼は寝乱れた小袖の懐に手を入れて、自分のやせっぽちな鎖骨と胸の間にそっと手のひらを当てた。




今年十五歳になったばかり。


まだあどけなさが抜けていない。


手足の関節がきしきしと痛むのでいずれ男らしくなろうが、年の割には華奢で小柄なほうだ。の子と言っても通用しそうな優しく繊細な顔立ちは、父の幼いころによく似ていると言われることがある。


陰陽寮おんみょうのりょう学生がくしょうの中では最年少であり、中性的な美しい外見から「姫」とからかわれて呼ばれることがあるが、一方ではしっかりと父の能力を受け継いでいて、その実力はどの学生よりも優れていた。



昨年の秋の名月の日に、賀茂家で元服して「よしひら」という名前を授かった。


常人が数十年も修行せねば得られぬ特別な力を、彼は生まれながらに当然のように身に着けていた。だから元服したての十四歳の少年が親の七光なしに陰陽学生おんみょうのがくしょうになることを許されたのは、何の不思議もなかった。



将来は父のような陰陽師になることが、吉平の目標である。


いや、いつか異能の力で父を超えること。


それが彼の人生の目標である。



超えるのだ、偉大な陰陽師である父、安倍晴明を。




「お目覚めですか? お手水ちょうずをお持ちいたしましたよ、吉平様」


几帳の陰から、ほっそりとした若く美しい女が角盥つのだらいに水を張って持ってきた。


「ああ、花霞かすみ


吉平は女に微笑みかけた。


生みの母が弟を産んですぐに儚くなってからは、この女房(侍女)が母親代わりとして、吉平と三つ年下の弟の次郎の世話をしてくれている。この十年余り、彼女の少女のように瑞々しい容貌はすこしも衰えることはない。それは彼女が晴明の式神で、庭の桜の大樹の精霊でもあるためだ。



外はまだ暗い。灯台の明かりのもと、額につぶつぶと汗ばむ吉平を見て、花霞は心配そうに小首をかしげた。


「うん、悪夢というよりはむしろ吉夢だと思うのだけど……ねぇ、父上はいらっしゃるのかな?」


「はい。昨夜は陰陽寮にお出かけになり、半刻ほど前にお戻りになっていらっしゃいます」


「父上のことだから、まだ起きていらっしゃるだろうから、お休みになられる前にちょっとだけお話ししたいことがあると伝えておいて」


「かしこまりました」


花霞は優雅にお辞儀をするとさらさらと軽やかな衣擦れの音をたてて出て行った。枕元には彼女が準備してくれた、本日着る青色の狩衣と香色(くすんだ黄色)の指貫がきちんと折りたたまれて平たいはこに入れて置かれている。


吉平は目を閉じて、再びゆっくりと深呼吸した。




ブン―—ッ!




あ、まだいるのか……



くうがうなる。



吉平の頭上では、黒龍と白龍が絡み合っては離れ、離れては絡み合っている。



美しいなぁ……





安倍家は大内裏の北東、東西に延びる土御門つちみかど大路と南北に延びる西洞院にしのとういん大路の交差したところに建っている。


周辺には大貴族の豪奢な邸が立ち並ぶ。


飛鳥や奈良の昔には皇后を輩出するほどの名家であった安倍家だが、吉平の曽祖父のころからはぱっとしない下級役人の家に成り下がっていた。


今ではせいぜい、七位から五位くらいの地下じげの身分を頂く程度だ。地下とは、内裏への昇殿を許されてはいない下級貴族のことだ。吉平の父、晴明も正七位下、占いや祓を司る陰陽寮に属する天文博士である。



昇殿も許されていない下級役人がなぜ、高位の貴族たちの住む高級住宅地に居を構えているのかという疑問は、しばしば人の口の端に上がる。


一町かける半町(百十メートルx五十五メートル)ぶんもの広大な敷地には、寝殿という母屋を中心として東西に対の屋が少々非対称に建てられていて、長い廊でつながっている。




西の対の屋からはさらに廊が伸びて、池にせり出した釣り殿がある。


南庭には普通の寝殿造りの邸にしてはかなり大きな敷地の四分の一ほどを占める池が広がり、西の対の釣殿の下までつながっている。中心には、築山を頂く小島が浮かんでいる。築山には晴明が星を観察するための天文台が造られているて、小島へはいくつかの平らな岩が橋として連なっている。


東の対の屋からも廊が伸びて泉殿へつながっているが、こちらは西の釣殿に比べればいくぶん短く、非対称となっている。それぞれの対の屋や寝殿の周辺には、山野の薬草や様々な観賞用の花木が瀟洒に植えられている。


邸も池ももともとあったもので、増改築は天文台以外はいっさい施してはいない。誰か身分の高い風流人が、趣向を凝らして作らせたのであろう、古めかしいが趣がある。


周りの高位の貴族たちの大邸宅ほどの華美なつくりではないものの、手入れが行き届いた心和む感じなのだ。




元の持ち主が誰であったのか、いつから晴明がなぜそこに住むようになったのか、詳細は定かではない。


彼は身分は低いが稀有の神力を持つ者であるがゆえに、内裏の鬼門(北東)に住まい、何らかの守護を施しているのだろうと考える者もいるし、今上の二代前の醍醐帝の別邸を何らかの密約を受けて拝領したのだとか、今上の兄で前帝の朱雀上皇から何らかの褒美として賜ったのだとか、いろいろと噂されているがどれも推量の域を出ない。


主の晴明は役人としては地下であり収入も周りの大貴族と比べれば多いとは言えないが、安倍家はつねに潤っている。




陰陽寮の仕事は主に四種に分類され、それぞれに専門職が活躍している。


ひとつは呪術と占術を司る陰陽道、ふたつめは方位や吉凶日を占う暦道、みっつめに時刻を監理する漏刻、そして星の動きを観測して吉凶を占う天門道である。


統轄するのは陰陽頭おんみょうのかみ


そしてそれぞれの部門に博士をはじめ、専門職員がいる。ほかには漏刻以外のそれぞれを学ぶ学生たちが各十名ずつ。学生たちの上には得業生とくぎょうのしょうと呼ばれる、さらに優秀なものたちが数名ずつ存在する。



吉平は陰陽の学生として学んでいる。若年ながらその異能を認められたのだ。


父である晴明は定員六名の陰陽師のうちの一人であり、天文博士でもある。吉平の尊敬してやまない、偉大な存在。幼少のころからすでに並ぶものなき異能を持ち、現在の陰陽寮頭である賀茂保憲の父、忠行に十にも満たない童のころから弟子入りした。


今の吉平の年のころには高野山で修験道を極め、二十代の前半では大陸へ渡り密教も極めてきた。彼の神力は誰もが認めるが、自身はそれを利用して出世や栄華を極めようという欲望はまったくないらしい。




奈良時代に制定された『大宝律令』により、陰陽道のその神力は天子と国家のためのみに行使することが定められた。建設途中の長岡京を捨ててまでも平安京遷都を強行した桓武帝は、母方に半島の渡来人の血を引くがゆえにその呪術の威力を畏怖し、厳しく管理させた。


しかしそれから百七十年余り、現在はそれを私的に利用する大貴族も少なくはない。陰陽師の「副業」は公然の秘密状態だ。そして一方では「陰陽師」は国家公務員であるが、民間にはそれとは名乗らないが「唱聞師しょうもじ」と呼ばれるものたち、法師、方術士、と呼ばれる術師たちが多く存在する。



大貴族から裕福な平民まで、物の怪に悩まされるものたちはそういった術者たちに頼る。「陰陽師」に私的な依頼ができるのは大貴族に限られているため、晴明の「副業」も一件当たりの報酬が大きくなる。


大きな声では言えないことだが、彼の「依頼者」には大寺院の高僧、大臣クラスの貴族、皇族や帝までも名を連ねている。鬼や悪霊の祓い、地鎮や卜占、得体のしれない怪異の解決などで、誰にも知られたくない案件を解決するには、安倍晴明ほど頼れる術師はいない。




普段は清明は、陰陽寮で兄弟子の賀茂保憲に請われ天文博士となり、学生たちを指導したり星の動きを観察して吉凶を占ったりしている。彼よりも四つ年上の保憲は、出世欲も名誉欲もない弟弟子を歯がゆく思っている。しかし晴明は何を言ってもどこ吹く風だ。


星の観測という職業柄、晴明は夜勤が多い。学生たちに講義するときや会議に出席するとき以外は、朝から出仕することはめったにない。だからその空き時間を利用して、殺到する秘密の依頼をのらりくらりとさばき続けている。



「これ以上出世したら、おれは忙しすぎて死んでしまうよ」



そう言って吉平の父はにやりと笑う。彼にとって珍しい怪異に遭える「副業」は、趣味のようなものである。


あまり出世すると時間が無くなり、副業ができなくなる。そううそぶく父であるが、吉平はその言葉の裏の、息子たちへの愛情にはちゃんと気づいている。


息子たちが一人前になるまでは、なるべくそばにいて成長を見守りたい。母親がいない分、寂しい思いをさせたくない。世間ではその異能を気味悪がられて狐の子だの化生の者だのと噂される晴明は、態度にこそあらわさないが実は世間のどんな親ばかな親たちよりも親ばかな父親なのだ。


 

吉平は物心ついたころにはすでに見鬼であった。父の式神たちが子守役をしていたことも、何の疑問も持たず当然のことと思っていた。


鬼や亡霊、付喪神つくもがみも見えたし、それらは身近な存在だった。それらが「見える」だけでは不十分だと、父は吉平に大貴族の子息たちにも劣らぬ知識を身につけさせた。


四書五経、道教、古神道、陰陽道を、四、五歳ごろから自ら教え込んだ。おかげでそこいらの修行僧よりは神力が強い。


それでもまだまだ、半人前の未熟者だと父は言う。


弟の次郎も吉平ほどではないが、見鬼の才を見せ始めている。彼もまた、ここ数年、父からの教育を受けている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る