羅城門の鬼

第8話

夕日はそのほとんどが山の端に溶け込んでしまった。


そして、菫色の淡い夜があたりを暗く包み込んでくる。



童子姿の玻瑠璃と大男の武士姿の珠王丸は、黒くそびえたつ荒れ果てた巨大な楼門をぽかんと口を開けて見上げていた。




羅城門。




平安京と外界との境界点、南の楼門。


丹塗りの柱は色がはげ落ちて傷みが激しい。その巨大さゆえの耐久性の低さ、老朽化によって、建っているのが不思議な建築物。強風が吹けばぎしぎしと音を立てて揺らぎ、廃墟と言われても違和感がない。二階の楼閣には兜跋毘沙門天とっぱびしゃもんてんの木彫が鎮座して魔物の侵入を防いでいると言われるが、荒廃した楼閣には幽鬼、生霊いきすだま死霊しにすだま魍魎もうりょうや妖怪の類が棲みついて人に危害を加える。


疫病がはやりだすと、僧侶に引導を渡してもらい鳥辺山で荼毘だびに付す余裕のない、病死した遺体の処理に困った貧しい人たちがむくろを放置し始めた。


また、下層民たちが老衰の家族の遺体を捨て始めた。死肉をむさぼる動物や、死人の持ち物を奪おうとする輩もうろつくようになり、盗賊の類まで現れる。


ただ、朽ち果てる寸前の巨大なだけの建物。




「でっかいなぁ……」


玻瑠璃はあんぐりと口を開け、初めて見るぼろぼろの楼閣を振り仰いだ。珠王丸はあたりが暗くなって人影もなくなったため、大男の姿を解いてもとの姿に戻り、玻瑠璃の隣で呆れて深いため息をついた。


「こんなところに泊まろうなどと思う、物好きな奴はお前くらいだよ」


「面白い体験ができるかもしれないだろう?」


うるさすぎて・・・・・・、眠れないと思うよ」


「どうということはない。結界を張れば盗賊どもには姿は見られないだろうし、物の怪どもも手を出せない。まぁ、古くて汚くていい感じは一つもしないが、無料ただで泊まれるのだ。行くぞ、珠王」


玻瑠璃は軽い足取りで、風でかすかに軋む廃墟のような楼門に向かって歩き出した。珠王丸もしぶしぶ後に続いた。




朽ちかけたきざはしを慎重に上がる。



少女の軽い体重でも床板はひどく軋み、まるで死にかけた女の悲鳴のように闇の中に響く。


耳を澄ますと、暗闇のあちこちから囁き声や奇妙な笑い声が聞こえてくる。


「私たちに興味深々なのだな」


玻瑠璃は苦笑する。珠王丸を振り返った時、彼女の首にかけていた市女笠を何者かがさっと宙にさらった。


「あっ! やられた!」


それはふわりと流線形を描いて闇深い宙を舞い、梁の上にちょこんと、まるで自由意志を持った生き物のようにのっかった。





—―ひひひひひひひひ!





甲高い笑い声が頭上から降ってくる。玻瑠璃はいらだって舌打をした。


そしてすぐに、声が振ってきた闇に向かい右手の人差し指と中指をそろえて手刀を切った。




—―きゃっ!




かわいらしい悲鳴が響き、闇の奥底で何かがどさりと落ちた気配がした。笠は梁の上からひらひらと落ちてきて、見えない糸で手繰り寄せられたかのように玻瑠璃の手の中に戻ってきた。


「油断も隙もないな」


楼の上階の床は腐り、一歩進むごとにブカブカと上下する。梁には蜘蛛の巣が幾重にも絡まり広がり、あちこちに張り巡らされている。雰囲気的には確かに陰の気は強いが、噂になるような遺体の山はどこにもないし、死臭も漂ってはいない。ただひんやりとした冷気に満ちているだけだ。


あたり一面を見渡して、玻瑠璃は満足げに微笑んだ。


「ほら見ろ。噂はただの噂のようだ。これで宿代は必要なし。上等じゃないか? 珠王よ」


珠王丸はため息をついて負けを認めた。懐に手を差し入れて小さな袋を取り出して口を開けた。


「油断する前に、打蒔うちまきをしよう」


「うん。まずは結界を張るか。ちょっかいを出されるとうるさくて眠れないだろうから」


二人は床の傷みが少ない一角のほこりを払い、自分たちのための空間を清めることにする。


玻瑠璃は珠王丸から受け取った小さな袋の中から米粒をひとつかみ取り出す。それをぱらぱらと自分たちの周りに蒔く。


米は神聖なものなので、邪悪なものはそれより内側に来ることはできない。それだけでも効果は期待できるが、珠王丸はさらに呪を唱え印を結んだ。すると米粒は二人の周りで強力な磁力に引き寄せられた砂鉄のように、美しい完璧な円を描いた。




「あっ、あれを見ろ!」


楼の外、高欄の向こうの細い月の銀の光の前を、ゆらりと横切る何かを指さして玻瑠璃は珠王丸の袖を引く。


全身が半透明の葡萄色をした、若い女だ。


小袿をまとい、身の丈にありあまる髪をなびかせた悲し気な女。珠王丸ははっと息をのむ。


生霊いきすだまか」


玻瑠璃は頷く。


「ああ。誰ぞ恨む相手のもとへ向かうのだろう。おそらくは本人は家で眠りについていて、あのようなあさましい姿でさまよい出ているとは夢にも思っていないのだろうな。怖い怖い」


「ああいうものたちは、生きていようと死んでいようと、この楼門を通って行くのであろう。ここは霊道がある。我らに害はないであろう。さて、寝ようか」


珠王丸は竹のむしろとシカの毛皮を術で出した。横になる玻瑠璃に真綿のふすまをかけてやろうとしたとき、いきなり北側から小さな突風が吹き込んできて、あたりに強い妖気が一気に満ちた。


「玻瑠璃、起きろ!」


珠王丸は何か・・が入り込んできたことに気が付いた。しかもそれは、相当厄介な、とてつもなく強力なものだ。


玻瑠璃は言われた通りにはね起きた。そのただならぬ気配に無意識にぞっとした。初めて感じる、すさまじい霊力だ。なんと強大で凶悪な気。



 バラン……


 バラン、バラン、バラン……



 バララン。



五日月の頼りなげな銀の月のもと、嫋々じょうじょうたる高貴な琵琶の音が響き渡る。




 ベム、ベムベムベム……ベベン。




沈香の深い薫りが風上から妖艶に漂ってくる。


不思議と、もはや恐怖や危険は感じない。


二人は打蒔きの神聖な結界の中で身動きすることを忘れ、おぼつかない月あかりに浮かび上がった大きな人影が奏でる、力強くも繊細で崇高な音色にしばし聞き惚れた。



「こちらこそ訊ねたいね。この羅城門の噂を知らぬわけではなかろうに、楼上までのこのこと上がって来ては、鬼の領域を侵そうとするなどとは。ふつうの人間が考えつくことではない」


低く艶やかな青年の声が、くすくすと楽しげに笑いながら聞こえてきて、玻瑠璃はかっとなって声を張り上げた。


「なっ、おまえ! ひとの心を勝手に読むな!」


すなわち、琵琶の音を聞きながらこの男は何者だろうと考えていたことが、声にせずとも相手に悟られて玻瑠璃は焦ったのだ。


あはは、と高笑いが聞こえる。琵琶の音が止む。


星影の夜空を背景に黒い大きな影がゆらりとうごめいた。琵琶を手にしたまま、その人影は結界のすぐ外側まで寄ってきた。




玻瑠璃は息をのんだ。


まとう気は明らかに人のそれではない。だが彼は、完全にひとの形をしている。背が高い。六尺(百八十センチ)以上はある。


暗闇の中、何色なのかは正確にはわからないが、上等な絹の衣をまとっているが……デザインが多少古めかしいかもしれない。だが、明らかに身分の高い者だ。彼から漂う沈香の深い薫りにくらりとめまいを覚える。


そのみやびで美しい外見とはうらはらに、すざまじい迫力の強力な陰の気を全身からゆらゆらと放っている。



男は首を傾げて玻瑠璃を見下ろして唇の端を吊り上げた。


「おや。の子の格好をしているが、の子ではないか。しかもお前……」


鬼だ。美しい鬼。玻瑠璃は確信した。すさまじい気に反射的に震えあがっている珠王丸は、こわごわ答えた。


「わ、我らはただ、一夜の宿が必要なだけだ。別に、お前の住処を奪う気はない」


壮絶な美しさの鬼は、ちらりと珠王丸を見て目を細める。


「ふむ。こちらのちび助は宝珠の精霊か。お前たち、潮のがするな。鹿島からきたのか?」


「いいや、播磨だ」


かすかに震え続ける珠王丸とは対照的に、玻瑠璃は少しもお物おじせずに淡々と答えた。


鬼はそんな玻瑠璃を好ましく思ったらしい。美貌をほころばせて玻瑠璃を見つめた。


「小娘よ、お前は俺のことが恐ろしくはないのか? 常人にも、物の怪にも見えぬが。そちらの宝珠の精霊は先ほどから俺の気に震えあがっているというのに」

 

玻瑠璃は首を傾げた。


「怖くて震えているわけではなかろう。お前が必要以上に私たちを威嚇して強い殺気を振りまくから、穢れを嫌う宝珠ゆえ震えているのさ。私はなぜか、お前のことは恐ろしくない。お前は、鬼なのであろう? しかも相当な力を持つ、な。私は幼いころから鬼はよく見るが、不思議と嫌な目や危ない目に遭わされたことはない。それにお前は私たちを捕って食おうというわけでもなさそうだしな」


「ふん、わかっておるのかおらぬのかさっぱりわからぬが、面白いやつよ。お前、多少の術は使えるようだが、誰に習った?」


「まったく、都では術が使えれば誰に習ったのかがそんなに大事か? 祖父だ。当麻忠顕だ」


「おお。たしか、播磨の国の唱聞師しょうもじだな」


「へぇぇ。うちの亡きおじじ殿は、鬼にも名を知られているのだな」


高名こうみょうの術師のひとりではある。なるほど、では……お前か。ついに覚醒した・・・・・・・のか」


「は? 何を言う?」


玻瑠璃が訝し気に首をひねると、鬼はしげしげと彼女を眺めた。


「ふぅむ。それにしては、まだ気が完全に調ってはおらぬか」




珠王丸はあわてて鬼の言葉を遮ろうとする。


「あっ、ま、まだ! まだせ、せ、清明様にお会いせねばっ!」


鬼は珠王丸の必死の目配せに気づき、それ以上そのことについて触れるのをやめ、はらりと広げた扇の陰でふふふと笑みを漏らした。


「なるほどな。まぁ……同族の者・・・・に遭えば、いずれ調ととのうか。みやこも面白くなりそうだな。俺は野相やしょう。生前よりわけあって、あの世とこの世を行き来している。ここは俺の住処というわけではないが、好む場所ではある。今宵は気分がよいので、内裏うちからちぃと琵琶を拝借してきて、ここで弾き明かそうと思っていたのだ。まさか先客がいたとはゆめゆめ思わなんだ」


「今、それ……内裏から拝借してって、言わなかったか?」


 玻瑠璃は鬼が持つ琵琶に視線を落とした。鬼は琵琶の鹿頚ししくび(細い部分)を握りひょいと持ち上げた。


「この玄上げんじょうも、火事から命拾いしたとはいえ、飾るばかりで弾いてやらねばただの宝の持ち腐れよ」


「げ、玄上? 今、それ・・を玄上と呼んだ呼んだか?」



玻瑠璃は目をむく。


「ああ、こいつの名ゆえな」


「それ、国宝だよな……?」


「ああ、いかにも」


「……」


野相公は撥で四本の弦をべべんと弾いた。えも言われぬ美しい音色に、闇の中の無数の小鬼たちが、野相公の背後にわさわさと集まる。


野相公と向かい合う玻瑠璃と珠王丸は結界の中にいるので、小鬼たちはそれ以上は近づいてこられない。




 ベベン、ベン、ベン、ベン、ベン……


 バララン。




小鬼どもはうっとりと音色に聞き惚れて、くるくると踊りだすものまでいる。


「私は玻瑠璃。そしてこれは珠王丸だ」


玻瑠璃が告げると野相公は琵琶を奏でながらふと笑んだ。


「玻瑠璃、か。お前に合う佳い名だ。お前の魂は美しい。気に入ったぞ」




 ベム、ベム、ベム、ベム……




異国情緒にあふれた饒舌な音色。


玻瑠璃は感嘆する。鬼の奏でる国宝の琵琶の音など、めったに聴けるものではない。


珠王丸は懐から横笛を取り出して、野相公の琵琶に合わせて演奏を始めた。小鬼どもはさらにはしゃいで踊り始める。


二つの稀有な音色は絡み合い、うら寂しい京のはずれの青い闇夜に抒情的に溶け込んでゆく。


目を閉じて聞き入っていた玻瑠璃は、いつの間にやらすやすやと、深い眠りに落ちていた。





澄み切った冷たい暁の空気の中、玻瑠璃は珠王丸に揺り起こされた。



「玻瑠璃、玻瑠璃。なぁ、野相公がもう行くらしい」


「ああ? いつの間にか眠ってしまったか。朝?」


白みかけたうす青い闇の中、戸口にしどけない格好で佇む野相公はうっすらと笑みを浮かべた。小鬼たちのような霊力の弱い者たちは、とっくに姿を消していた。玻瑠璃は瞼をこすりながら言う。


「すばらしい演奏をありがとう。おかげでぐっすり眠れた」


「鬼を前にのんきに眠りこけるとは、まがうことなき大物だな。また会おうぞ、玻瑠璃。お前が清明のもとにおればおのずと顔を合わせる機会もあろう。あいつによろしく伝えておいてくれ。それと、俺に用事があるときは、六道の珍皇寺ちんのうじか、愛宕の社か、戻り橋に来い」


「わかったよ。お前は清明殿とは知り合いか?」


「ああ、まあ、そのようなものだ。では、またな」


野相公がふわりと袖を上げると、沈香が一陣の風に乗って薫った。そして彼の姿は幻のようにうすい闇に消え失せてしまった。



そして、白みかけた薄色の夜明けの楼上には、玻瑠璃と珠王丸だけが取り残された。




—―静寂。




 悪名高き廃墟には、清らかさが漂っていた。



「あいつ……鬼なのに、恐ろしくはなかったな。怒らせたらめちゃ怖そうだったが」


 玻瑠璃は大きく伸びをした。


「どこかで聞いた名だったな。大物に違いあるまい」


「京の鬼とは、あのように美しく典雅で品よきものなのかな。あんな美形なやつは初めて遭ったな」


「そうだな。さて玻瑠璃よ、朝日が昇る前に出よう。人目につくと厄介だ。我らが鬼と勘違いされる。本日こそは、目的の場所へたどり着くのだ」


「どこに行けばお会いできるのか知っているのか? 京はお前も初めてなのに」


「名高いお方だ。どこにお住まいなのかは私でも知っている」


「そうか」


「遣いを送ってあるので、お前の到着は御存じだ」


「遣い?」


「うん。巨椋池おぐらいけの雨龍が、水脈を通してみづちの精を送っておいてくれたのだ」


「ほう? 便利なのだな」


 玻瑠璃は大きなあくびをした。


 


 薔薇色の空がふうわりと青い夜を押し上げてゆく。


 真っ暗闇の朽ちかけた楼の中に、清廉な光が差し始める。


「ほんに、ボロだな、ここは」



 玻瑠璃があたりを見渡して苦笑する。


 朝の冷たい空気に、梅の香がほのかに漂っている。


 玻瑠璃の都での初めての朝は、こうして羅城門の楼上で明けた。

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