巨椋池

第7話

梅の香がはんなりと漂う鳥羽の街道。



 水干姿の美しい少年をつれたいかつい中年の大男の武士もののふが、颯爽とした足取りでみやこを目指している。



 少年は年の頃は十二、三。ほっそりと小柄であてやかな感じ。市女笠を目深にかぶっているので誰もその要望を見ることはできないが、笠の下からのぞく愛らしい口元は、すれ違う人々にその美貌をたやすく連想させる。


 何人かの旅人は何とかしてこの少年のかんばせを拝もうと躍起になり、横から顔を覗き込もうとするが、傍らの大男にぎろりと睨まれて断念する。



 二人は普通に歩いているように見えるが、気を抜くといつの間にやら見えなくなって、はるか先を行くのが見える。彼らの一歩は常人の数十歩分である。


 少年とともにいる武士はかなりの大丈夫おおおとこだ。三日月のような大陸渡りの大太刀をき、どこから見ても一分の隙もない。それどころか、わざと全身からすさまじい殺気を発して、誰も近づけないようにしている。


 夕日にあたりが朱に染まる頃に、この奇妙な二人連れは川を越えた。




「賀茂の川を越えたな。みやこが近くなってきたようだ」


 少年は息を乱さずに涼し気な口調で言った。


「おう。日が落ちるころには、入り口あたりには着くだろうよ」


 大男がしわがれ声で答えると、少年はふん、と鼻を鳴らした。


「だが本日中に訪ねるのは日が悪い。今日までは天一神なかがみが、我らの目指す方角にいるようだからな」


「仕方ない。どこかでもう一泊せねばな」




 天一神とは、全世界を統べる天、地、人のかみの中で、地皇ちのかみのことを言う。戦の神であり、十六日間は天の宮城みやしろである紫微宮しびきゅうに、それ以外の日は五日ないし六日ごとに人の世界の八方角を移動している。


 この神がいる方角に行くことは不吉なので、それを避けることを「方忌かたいみ」、どうしてもそこに行くのであればいったん別の方向にとどまってから向かうことを「方違かたたがえ」と呼ぶ。



「では羅城門らじょうもんをくぐったら、まずは野宿する場所か宿を探さねばな」


 大男の言葉に、少年はくすりと笑んだ。


「なぁに、どちらも大差ない。昨夜、巨椋池おぐらいけ雨龍あまりょうが教えてくれただろう? 野宿だろうが安宿だろうが、お上りさんは寝入ったら最後、追剥やら盗賊やら人買いやらに襲われて終わりだよ。都は怖いところだと、さんざん脅されたのだ」


「では、どうするというのだ? 京には知人はいないのだ。寺にでも泊めてもらうか?」


「ふん、坊主どもも信用ならないな。だから、羅城門でいいではないか」


「は? お前、正気なのか? あそこは鬼が棲むというではないか。しかも邪気や餓鬼のような小者ではない、人を食らうというやつが!」


「面白そうではないか。さぁて、どんなやつが出てくるだろうか。京の人食い鬼とやらを、この目で見てやろう。なに、人買いや盗賊に比べたら、鬼のほうがよほどましだろうよ」


「うぬぬ。お前もつくづく、物好きよのぅ」


 大男はうなった。少年は目深にかぶった市女笠の下で、くすくすと声を出して笑っている。


「なぁ、珠王よ。巨椋池のぬし殿が教えてくれた通りならば、かなり手荒い歓迎を受けそうだがな」


「ああ、玻瑠璃よ。生霊いきすだま死霊しにすだま魍魎もうりょうや餓鬼どもがお前を見つけたら、すぐに惹き付けられてくるだろうよ」




 大きな日輪が、まるで二人を飲み込むように赤々と輝いている。


 梅の花の香が、冷えてきた夜気に震えるようにふわりと漂った。




 播磨の国を発ったのは二日ほど前だった。


 珠王丸はいかつい大男に姿を変え、童子姿の玻瑠璃を連れて街道を急いだ。常人の数十倍の速度で歩けば、その日のうちに京に到着するはずであった。


 しかし、途中の難波なにわよど交野かたのなどの行く先々で、土地神や精霊たちに呼び止められて歓待されて足止めを食らったために、思いのほか時間がかかってしまっていたのだった。


 精霊たちはすぐに、宝珠の精霊と特別な力を持つ人の子の気配に気づいて声をかけてくる。水の精霊である魑魅ちみたちや川の主、同じく水の精霊の罔象みずはたち。たいていは水に関する精霊たちに呼び止められるのは、玻瑠璃の強い水性のせいなのかもしれない。


 なかでも昨夜遭った伏見の手前の巨椋池の主――雨龍には、えらく気に入られた。



 巨椋池おぐらいけ



 平安京は風水で言う四神相応しじんそうおうを意図して作られた魔方陣都市である。北に玄武げんぶ、南に朱雀すざく、東に青龍せいりゅう、西に白虎びゃっこ。四神が都を取り囲んで守護している。桓武帝は長岡京からの遷都の際に、川の流れを変えたり、道や池を人為的に整備して、完璧な魔方陣を作り出した。


 巨椋池とは四神で言う南の朱雀に当たる巨大な池のことである。



 昨日の夕暮れに巨椋池に差し掛かった時、にわかに空に黒雲が立ち込めて、雷光が縦に空を割り、池の水面に突き刺さった。そしてそこから巨大な赤い龍が天に向かって昇り始めたのだ。


 恐ろしいほどに低い地鳴りが響いて、大地が揺れた。赤龍は小さな点になるほど上昇したかと思うと、そこから一気に降下してきた。池のほとりの草むらに呆然と佇む玻瑠璃と珠王丸の頭上でぴたりと止まると、牛車よりも大きな顔を二人の目の前に近づけて、金色の炯眼けいがんでぎろりとねめすえた。


「何者か。人の子であって、人にあらず。童子よ、お前のその気は、ただならぬ。大男のほうは、宝珠の精霊と見えるが」


 ごうごうと威嚇音を発しながら誰何すいかする赤い龍にひるむことなく、いつもの生意気な口調で玻瑠璃は平然と答える。


「私は神玻瑠璃みわのはるり。播磨の国のみわの社の巫女かんなぎの血筋のもので、こちらは察しのとおり宝珠の精霊で珠王丸という。近頃遭った不幸により、寄る辺を失くしたために、安倍晴明殿を頼って参るところだ」


「なんと?」


 赤い龍は金の炯眼を見開いた。玻瑠璃の澄んだ灰色の瞳が、ひとかけらの畏れも浮かべずに龍の炯眼をじっと見つめ返している。



—―わたしを畏れぬとは。




 龍は驚愕をひゅいっと飲み込んだ。


 そしてだんだん身を縮めたかと思うと、二人の目の目に妖艶な人間の美女となって降り立った。そして自分たちの周りに結界を張り、誰にも何にも邪魔されない清廉な空間を作った。その結果以内の気の美しさに玻瑠璃は思わずうわぁ、と感嘆した。


「私はこの巨椋池の主の雨龍あまりょうだ。人でありながら、お前の気はどこか懐かしく好ましい」


 雨龍とは、名の通り雨を降らせる龍のことだ。古来より性別はメスだと言われていると、玻瑠璃は古書で学んだ。赤い龍とは言っても、その赤は七色に光り輝く不思議な色のうろこだ。彼女は玻瑠璃たちに豪華な夕餉を提供し、都の様々な人外の情報を教えてくれた。



「――これは神泉苑の昇龍に聞いたのだがな。今上帝はもはや長くはないらしい」


 人で言えば年のころは二十代の後半であろうか。傾国と言っても過言ではないほどの艶冶な美女に変じた雨龍は、世間話のように機密事項を口にした。

「はて、病ともきかぬが?」


 元の姿に戻った珠王丸が首を傾げる。


「いや、七年前に内裏が焼亡したことは播磨の田舎でも伝え聞いておろう? 今上はそれ以来、気に病むようになってな。遷都以来、初めての内裏焼亡だ。自らの不徳のせいだと責め始めたのだ。そのうえ昨年は大洪水で都の南半分が浸水して、ようやく水が引いたと思いきや汚水で疫病がはやりだした。人は知らぬであろうが、まあ、水無月の大祓おおはらえまではもつまいよ」


「ふうん。それを人である私に話してしまってもいいのか?」


「お前は誰彼構わずべらべらと触れ回るような輩ではあるまい」


「それはそうだな。それで、京はどのようなところなのだ?」


「うん? 今の都、平安京はな、かつては大湿原だった地に作られた。だから陰の気が強い。賀茂川の流れを西へ寄せ、四方には岩倉を築き一切経いっさいきょうを埋め、スサノオ命を守護として将軍社を四つ祀る。鬼門には比叡山延暦寺、その手前には十重二十重とえはたえに鬼門封じを施し、裏鬼門にも厳重な守りを置いている。この都は外部からの侵入はたやすいが、決して滅ぶことはないという呪がかけられているのだ。あまりにもよく整えられた魔方陣なだけに、かえって我らには棲み心地が良い理想郷のようなところだな」


「なるほど。魔物も多いということだな」


「その通り。お前のような神変を持つ者には、さて暮らしやすいかどうか。せいぜい頼られないようにうまくあしらわねば、己の心身がもたぬぞ」


 雨龍が金色の小袖の細い指先を唇に当てて嫣然と微笑むと、玻瑠璃は鼻で笑った。


御霊ごりょうと呼ばれる類もいるのであろう?」


「そうだ。菅公(菅原道真)などは浄蔵じょうぞうが死ぬ前に調伏したとかいうが、はたしてどうだかな。七年間に内裏が焼亡したときに、悪霊どもが一緒に焚き上げられたと喜ぶ能天気な坊主どもも多いようだが、それは気休めだ。内裏、つまり最強の守護を施された聖域が燃え失せたということは、そこだけぽっかりと虫食いのように無防備な穴が空いているようなものだ。菅公とて地獄の底から戻ってきておるわ」


「ふうむ。私は菅公は嫌いではない。別にいてもいいや。今は亡き浄蔵はまだ十七かそこいらの若造のころに、藤左大臣時平公とうのさのおとどときひらこうに憑いた菅公を祓おうとして、一度失敗したことがあったらしいな。おじいになって相当な法力を得てから祓うことに成功したそうだが、戻ってきたら死人にはもう祓えない、さぞや悔しいことであろうな」



 玻瑠璃ははははと笑った。




 三年前に鬼籍に入った有験うげんの高僧・浄蔵は、高名な学者の三善清行みよしのきよゆきの八男であった。


 玻瑠璃のように幼いころから不思議の力を持ち、十代で親の反対を押し切って仏門に入り、密教を極めた後に陰陽道、修験道にも精通した大魔術師である。


 生前は、その法力には並ぶものなしと言われていた。死んだ父親を一条の橋の上で生還させたという伝説がある。そのため、その橋は今では「戻り橋」と呼ばれているそうだ。托鉢は自らの足で出向くことなく、山の上から都めがけて鉢を飛ばせば、それは人々からお布施を集めて浄蔵の手元に戻ってきたらしい。


 今上帝の父である醍醐天皇と藤原時平公を恨んで絶命した右大臣菅原道真公が、怨霊となり当人たちやその血筋を呪い殺すのを命を懸けて調伏したと言われている。



 菅原道真公は幼少より神童と謳われ、若くして文章博士もんじょうのはかせとなった。藤原北家が要職を独占していた朝廷において、右大臣まで上り詰めた優秀な人物だった。宇多天皇の信頼が厚く、まつりごとでの発言権も大きかった。



 当時の藤原北家の氏の長者(最高権力者)は、時平公。まだ若く野心と慢心にあふれた時平は、目の上のたん瘤的存在の菅公を失墜させようと企んだ。親ほど年の離れた右大臣に無実の罪を着せ、年の近い新帝・醍醐天皇を丸め込み、菅公を九州の大宰府に左遷させてしまった。


 菅公は時平公を恨みながら絶望の中で亡くなった。そして怨霊となって都に戻り、自分を裏切った者たちを呪い殺したという。


 時平公の陰謀に加担したものたちは、ある者は落雷を受けて死に、ある者は狩りの最中に底なし沼にはまって死に、ある者は疫病で、ある者は突然の夭折を遂げた。時平公と醍醐天皇は心を病んで狂い死にし、その血を受け継ぐ者たちも害を被り続けた。




 浄蔵は十七歳の時に病床の時平公に請われて怨霊の調伏に挑んだことがあった。しかし調伏する前に、なぜか途中でやめてしまったという。そのことに関して浄蔵は誰にもなにも話さなかった。書き残すこのもなかったため、本人が亡くなった今、真相は誰も知らない。


 そして三年前に自らの寿命を悟った浄蔵は、菅公の怨霊に再び対決を挑んだ。七十三歳のこの世で最強の大魔術師は、怨霊をあの世に道連れにしたと言われているが……



「まぁ、菅公のような大物にいきなり出くわすことはあるまいが、小者でも数が集まれば結構厄介だ。いちいち相手にせずに、見ても見ぬふりすることだ」


 雨龍の忠告に、玻瑠璃は素直に頷いた。


「わかった。なるべく留意しよう」


 珠王丸ははぁ、とため息をつく。


「玻瑠璃は怖いもの知らずなので、一度痛い目に遭わねばわからないのです」


 雨龍は笑った。


「そのようだな。だが都にはたちの悪いものも多い。くれぐれも油断するな。そのうちあの独特の磁場にも慣れて力も安定しようが」


「大事はないさ。祓いくらいはできる。多少はな」


「誰に倣ったのだ?」


「祖父だ。当麻忠顕」


「おお、聞いたことのある名だ。お前の父は何者だ?」


「さぁな。母は巫女だが、誰にも私の父の名を明かさずに、私を産んで間もなく亡くなってしまったのだ」


 ふうんと雨龍は頷いて金色の瞳で玻瑠璃をじっと見つめた。



「お前のその瞳は……父譲りか、母譲りか?」


「母は栗色の瞳だったと言うから、おそらくは父譲りであろうな」


「ふむ。お前の気は常人とはかけ離れている。もしやお前の父は、人ではないのやもしれぬな」


「どうでもいいさ。今私が一番関心のあることは、強くなってある男を殺すことだけだ」


「誰だ? 手伝ってやろうか? 人ならば落雷で一発だぞ」


「他力は無用だ。私一人の力で、祖母と姉の復讐を遂げるのだ」


「強い娘よ。お前が気に入った。都で何か困ったことがあれば、神泉苑の昇龍を頼れ。私からよく頼んでおく。深泥ヶ池みぞろがいけにも龍女がおるが……お前を見たらその若さと美貌に嫉妬して厄介なことになりそうだから、そこには近づくなよ」


 玻瑠璃はあははと笑った。雨龍は真顔で玻瑠璃に言い聞かす。


「よいか、玻瑠璃よ。宝珠を握り締めて生まれてくる人の子など、稀有なのだ。お前は人であり人でなく、もしかすると我らに近しいのかもしれぬ。私はここに移り住んで三百年、今までここを通る人間に声をかけたのはお前が初めてだ。なぜかお前には心惹かれる。よくも悪しくも、お前は我らを惹きつける力があるようだ」


「わかったよ」


 玻瑠璃は素直に頷いた。



 雨龍は、何とも言えぬ甘い顔で苦笑した。

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