巨椋池
第7話
梅の香がはんなりと漂う鳥羽の街道。
水干姿の美しい少年をつれたいかつい中年の大男の
少年は年の頃は十二、三。ほっそりと小柄で
何人かの旅人は何とかしてこの少年のかんばせを拝もうと躍起になり、横から顔を覗き込もうとするが、傍らの大男にぎろりと睨まれて断念する。
二人は普通に歩いているように見えるが、気を抜くといつの間にやら見えなくなって、はるか先を行くのが見える。彼らの一歩は常人の数十歩分である。
少年とともにいる武士はかなりの
夕日にあたりが朱に染まる頃に、この奇妙な二人連れは川を越えた。
「賀茂の川を越えたな。
少年は息を乱さずに涼し気な口調で言った。
「おう。日が落ちるころには、入り口あたりには着くだろうよ」
大男がしわがれ声で答えると、少年はふん、と鼻を鳴らした。
「だが本日中に訪ねるのは日が悪い。今日までは
「仕方ない。どこかでもう一泊せねばな」
天一神とは、全世界を統べる天、地、人の
この神がいる方角に行くことは不吉なので、それを避けることを「
「では
大男の言葉に、少年はくすりと笑んだ。
「なぁに、どちらも大差ない。昨夜、
「では、どうするというのだ? 京には知人はいないのだ。寺にでも泊めてもらうか?」
「ふん、坊主どもも信用ならないな。だから、羅城門でいいではないか」
「は? お前、正気なのか? あそこは鬼が棲むというではないか。しかも邪気や餓鬼のような小者ではない、人を食らうというやつが!」
「面白そうではないか。さぁて、どんなやつが出てくるだろうか。京の人食い鬼とやらを、この目で見てやろう。なに、人買いや盗賊に比べたら、鬼のほうがよほどましだろうよ」
「うぬぬ。お前もつくづく、物好きよのぅ」
大男はうなった。少年は目深にかぶった市女笠の下で、くすくすと声を出して笑っている。
「なぁ、珠王よ。巨椋池の
「ああ、玻瑠璃よ。
大きな日輪が、まるで二人を飲み込むように赤々と輝いている。
梅の花の香が、冷えてきた夜気に震えるようにふわりと漂った。
播磨の国を発ったのは二日ほど前だった。
珠王丸はいかつい大男に姿を変え、童子姿の玻瑠璃を連れて街道を急いだ。常人の数十倍の速度で歩けば、その日のうちに京に到着するはずであった。
しかし、途中の
精霊たちはすぐに、宝珠の精霊と特別な力を持つ人の子の気配に気づいて声をかけてくる。水の精霊である
なかでも昨夜遭った伏見の手前の巨椋池の主――雨龍には、えらく気に入られた。
平安京は風水で言う
巨椋池とは四神で言う南の朱雀に当たる巨大な池のことである。
昨日の夕暮れに巨椋池に差し掛かった時、にわかに空に黒雲が立ち込めて、雷光が縦に空を割り、池の水面に突き刺さった。そしてそこから巨大な赤い龍が天に向かって昇り始めたのだ。
恐ろしいほどに低い地鳴りが響いて、大地が揺れた。赤龍は小さな点になるほど上昇したかと思うと、そこから一気に降下してきた。池のほとりの草むらに呆然と佇む玻瑠璃と珠王丸の頭上でぴたりと止まると、牛車よりも大きな顔を二人の目の前に近づけて、金色の
「何者か。人の子であって、人にあらず。童子よ、お前のその気は、ただならぬ。大男のほうは、宝珠の精霊と見えるが」
ごうごうと威嚇音を発しながら
「私は
「なんと?」
赤い龍は金の炯眼を見開いた。玻瑠璃の澄んだ灰色の瞳が、ひとかけらの畏れも浮かべずに龍の炯眼をじっと見つめ返している。
—―
龍は驚愕をひゅいっと飲み込んだ。
そしてだんだん身を縮めたかと思うと、二人の目の目に妖艶な人間の美女となって降り立った。そして自分たちの周りに結界を張り、誰にも何にも邪魔されない清廉な空間を作った。その結果以内の気の美しさに玻瑠璃は思わずうわぁ、と感嘆した。
「私はこの巨椋池の主の
雨龍とは、名の通り雨を降らせる龍のことだ。古来より性別はメスだと言われていると、玻瑠璃は古書で学んだ。赤い龍とは言っても、その赤は七色に光り輝く不思議な色のうろこだ。彼女は玻瑠璃たちに豪華な夕餉を提供し、都の様々な人外の情報を教えてくれた。
「――これは神泉苑の昇龍に聞いたのだがな。今上帝はもはや長くはないらしい」
人で言えば年のころは二十代の後半であろうか。傾国と言っても過言ではないほどの艶冶な美女に変じた雨龍は、世間話のように機密事項を口にした。
「はて、病ともきかぬが?」
元の姿に戻った珠王丸が首を傾げる。
「いや、七年前に内裏が焼亡したことは播磨の田舎でも伝え聞いておろう? 今上はそれ以来、気に病むようになってな。遷都以来、初めての内裏焼亡だ。自らの不徳のせいだと責め始めたのだ。そのうえ昨年は大洪水で都の南半分が浸水して、ようやく水が引いたと思いきや汚水で疫病がはやりだした。人は知らぬであろうが、まあ、水無月の
「ふうん。それを人である私に話してしまってもいいのか?」
「お前は誰彼構わずべらべらと触れ回るような輩ではあるまい」
「それはそうだな。それで、京はどのようなところなのだ?」
「うん? 今の都、平安京はな、かつては大湿原だった地に作られた。だから陰の気が強い。賀茂川の流れを西へ寄せ、四方には岩倉を築き
「なるほど。魔物も多いということだな」
「その通り。お前のような神変を持つ者には、さて暮らしやすいかどうか。せいぜい頼られないようにうまくあしらわねば、己の心身がもたぬぞ」
雨龍が金色の小袖の細い指先を唇に当てて嫣然と微笑むと、玻瑠璃は鼻で笑った。
「
「そうだ。菅公(菅原道真)などは
「ふうむ。私は菅公は嫌いではない。別にいてもいいや。今は亡き浄蔵はまだ十七かそこいらの若造のころに、
玻瑠璃ははははと笑った。
三年前に鬼籍に入った
玻瑠璃のように幼いころから不思議の力を持ち、十代で親の反対を押し切って仏門に入り、密教を極めた後に陰陽道、修験道にも精通した大魔術師である。
生前は、その法力には並ぶものなしと言われていた。死んだ父親を一条の橋の上で生還させたという伝説がある。そのため、その橋は今では「戻り橋」と呼ばれているそうだ。托鉢は自らの足で出向くことなく、山の上から都めがけて鉢を飛ばせば、それは人々からお布施を集めて浄蔵の手元に戻ってきたらしい。
今上帝の父である醍醐天皇と藤原時平公を恨んで絶命した右大臣菅原道真公が、怨霊となり当人たちやその血筋を呪い殺すのを命を懸けて調伏したと言われている。
菅原道真公は幼少より神童と謳われ、若くして
当時の藤原北家の氏の長者(最高権力者)は、時平公。まだ若く野心と慢心にあふれた時平は、目の上のたん瘤的存在の菅公を失墜させようと企んだ。親ほど年の離れた右大臣に無実の罪を着せ、年の近い新帝・醍醐天皇を丸め込み、菅公を九州の大宰府に左遷させてしまった。
菅公は時平公を恨みながら絶望の中で亡くなった。そして怨霊となって都に戻り、自分を裏切った者たちを呪い殺したという。
時平公の陰謀に加担したものたちは、ある者は落雷を受けて死に、ある者は狩りの最中に底なし沼にはまって死に、ある者は疫病で、ある者は突然の夭折を遂げた。時平公と醍醐天皇は心を病んで狂い死にし、その血を受け継ぐ者たちも害を被り続けた。
浄蔵は十七歳の時に病床の時平公に請われて怨霊の調伏に挑んだことがあった。しかし調伏する前に、なぜか途中でやめてしまったという。そのことに関して浄蔵は誰にもなにも話さなかった。書き残すこのもなかったため、本人が亡くなった今、真相は誰も知らない。
そして三年前に自らの寿命を悟った浄蔵は、菅公の怨霊に再び対決を挑んだ。七十三歳のこの世で最強の大魔術師は、怨霊をあの世に道連れにしたと言われているが……
「まぁ、菅公のような大物にいきなり出くわすことはあるまいが、小者でも数が集まれば結構厄介だ。いちいち相手にせずに、見ても見ぬふりすることだ」
雨龍の忠告に、玻瑠璃は素直に頷いた。
「わかった。なるべく留意しよう」
珠王丸ははぁ、とため息をつく。
「玻瑠璃は怖いもの知らずなので、一度痛い目に遭わねばわからないのです」
雨龍は笑った。
「そのようだな。だが都にはたちの悪いものも多い。くれぐれも油断するな。そのうちあの独特の磁場にも慣れて力も安定しようが」
「大事はないさ。祓いくらいはできる。多少はな」
「誰に倣ったのだ?」
「祖父だ。当麻忠顕」
「おお、聞いたことのある名だ。お前の父は何者だ?」
「さぁな。母は巫女だが、誰にも私の父の名を明かさずに、私を産んで間もなく亡くなってしまったのだ」
ふうんと雨龍は頷いて金色の瞳で玻瑠璃をじっと見つめた。
「お前のその瞳は……父譲りか、母譲りか?」
「母は栗色の瞳だったと言うから、おそらくは父譲りであろうな」
「ふむ。お前の気は常人とはかけ離れている。もしやお前の父は、人ではないのやもしれぬな」
「どうでもいいさ。今私が一番関心のあることは、強くなってある男を殺すことだけだ」
「誰だ? 手伝ってやろうか? 人ならば落雷で一発だぞ」
「他力は無用だ。私一人の力で、祖母と姉の復讐を遂げるのだ」
「強い娘よ。お前が気に入った。都で何か困ったことがあれば、神泉苑の昇龍を頼れ。私からよく頼んでおく。
玻瑠璃はあははと笑った。雨龍は真顔で玻瑠璃に言い聞かす。
「よいか、玻瑠璃よ。宝珠を握り締めて生まれてくる人の子など、稀有なのだ。お前は人であり人でなく、もしかすると我らに近しいのかもしれぬ。私はここに移り住んで三百年、今までここを通る人間に声をかけたのはお前が初めてだ。なぜかお前には心惹かれる。よくも悪しくも、お前は我らを惹きつける力があるようだ」
「わかったよ」
玻瑠璃は素直に頷いた。
雨龍は、何とも言えぬ甘い顔で苦笑した。
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