旅立ち

第6話

—―夢の中。


 真っ白だな。




 これは、またあの例の夢か?




 はらり、はらり……


 ああ、やはりそうだったか……




 桜の花吹雪。


 くるくる、くる……はらり、はらり。


 小さな竜巻は、薄紅色の小さな竜になり天に昇る。



 ああ、花闇だ。


 花闇の中に、あの男が立っている。


 今日も美しいあの男。




 お前は、だれ?



 うん?


 なんか、いつもとはちょっと違うみたいだな。


 美しい男は扇の陰で妖しく微笑むと、低く静かな、どこか懐かしげな声でゆっくりと言った。



「都へ、行くのだ」



 男は玻瑠璃の右手を取り、手のひらの上にそっと小さな宝珠をのせると、跡形もなく姿を消した。



 都へ行けと……?




  


「……り。玻瑠璃……」


 水が流れる音。ああ、心地よい。川の音?


 いや、それだけではなく……それと同じくらい心地よい、珠王の声だ。



「うん? じゅおう、う……?」


「玻瑠璃!」


  太陽の光が一筋、入り口から降り注いでいる。


 枯葉を敷きつめた上に単衣を敷いた簡易な褥で、玻瑠璃ははっと息をのんで目を覚ました。


 玻瑠璃の名を呼ぶ珠王丸の声は共鳴している。昏く冷えた小さな洞穴の中。ぱちぱちと火の爆ぜる音と、焚火のあたたかさ。白梅と紅梅が炎をまとい燃え朽ちる昨夜の様を思い出して、玻瑠璃は頭を抱えて目を固く瞑った。


「しっかりしろ!」


 美月の血痕にまみれた山吹色の単衣の肩を、珠王丸は強く揺さぶった。我に返り目を開けると、鼻先で心配そうに彼女の瞳を覗き込む瑠璃色の瞳が見えた。

「――恐ろしい夢を見た」


 ふう、と息をつく。珠王丸は何も答えない。顔を上げ、悲し気にうつむく宝珠の精霊を見つめる。


「まさか、夢ではないのか?」


「……」


「珠王?」


「夢……では」


 玻瑠璃は自分の両掌をじっと見つめる。昨夜それらは美月の血でぬらぬらと光っていた。だが今は、きれいに拭き取られている。珠王丸が洗ってくれたのだろうか。しかし、山吹色の単衣の袖には赤黒く変色した血がべっとりと染みついていた。


「ああ……あぁ……あ」


 絶望のために両手で顔を覆う。珠王丸はそっと華奢な背中に手を添えて優しく撫でた。


「お前は昨夜、瘴気しょうきをたくさん浴びた。穢れが強すぎて、私は長くそばにいられない。とりあえず、川の水で身を清めてくれないか?」


 玻瑠璃は瞳を潤ませる。


「なぜ? なぜ突然、このようなことになった? 夢であればよかったのに……これがもしや、万寿様のおっしゃっておられた、不吉・・だったのか?」




 珠王丸は何も答えずに玻瑠璃を横抱きにして、洞窟の外に飛んでゆく。


 そこは平らな岩が幾重にも重なる岩場で、岩の隙間を川の水が流れていた。岩陰に玻瑠璃を降ろし、珠王丸は彼女の血に染まった単衣ひとえや小袖を脱がせる。


 衣をすべてはがされた玻瑠璃は、幼子のように泣きじゃくりながら岩の隙間の川水の中にざぶりと飛び込んだ。

 

 こまかな気泡が巻き起こる。如月だというのに、早春の寒さも心臓が凍りつような水の冷たさも感じない。重なり合った大きな岩の下の川は、どれだけ深いのか。


 二百以上数えても底には達しないようだ。気泡をまといつかせながら、玻瑠璃の体はどんどん深淵に沈んでゆく。


 幼いころから、どんな深さの水にどれだけ潜っていてもまるで平気だった。頭上を仰ぎ見ると、黒い岩のはるか上には、日の光が揺らめいで見える。


 玻瑠璃は水を蹴り、落ちてきた分だけ水流に逆らって上昇した。



 ざばり、と水面から頭を出す。


 安堵した悲しげな表情の珠王丸は岩場にしゃがみこみ、玻瑠璃が顔を出すのを見て新しい衣一式を差し出した。


 岩の上に上がった玻瑠璃に、珠王丸は熱風を浴びせて水分を飛ばしてやる。小袖(下着)を着て青の単衣を着ると、彼女は眉を顰めた。


「なんだ、これは?」


 手にした衣は白い水干だった。青鈍色の袴もある。それは、男童おのわらわの格好である。


「見ればわかろう。の子の格好だ。そのほうが道中、都合がよいゆえ」


「道中?」


「ああ。詳しくはお前がみそぎを終えてから話す。早う、身に着けてくれ」




 太陽は南中に差し掛かった。


 支度を終えた水干姿の玻瑠璃のために、宝珠の精霊は食事の準備をした。柏の葉を数枚敷きつめた上には、木の実や果実、川魚を焼いたものがのっている。食欲がないとうつむく玻瑠璃に無理やりそれらを食べさせて、邪気を払い身を清めさせた。


 そして彼女がようやく落ち着いて、頬にもはんなりと血の気を取り戻したのを確認して、珠王丸は彼女を洞穴の焚火のそばに座れせて話を始めた。



「私はお前とともに、この世に生まれ落ちた小さな宝珠だった」


「ああ、私が手の中に握り締めていたらしいな」


「そうだ。私はお前の分身。お前の一部だ。なぜ、いつから、私がこうして人のかたちを取り、人にはない力でお前を守っているのだと思う?」


「そんなこと……考えたこともなかった……」


「では、そもそもなぜ、お前は宝珠などを握り締めて生まれてきたのだろうか。みわ家の巫女かんなぎの血筋だからか? それにしてはお前には、あの血筋の大巫女たちにさえない特別な力が生まれながらに備わっているのはなぜだろうか?」


「……」


 左手の親指の先を噛んで、玻瑠璃は深く考え込む。


 物心ついたころにはすでに、珠王丸は人で言う十一、二歳ほどの少年の形で玻瑠璃のそばにいた。赤子の玻瑠璃が泣けばあやし、襁褓むつきが汚れれば取り換え、歌を歌ったり物語をしたりして寝かしつけた。そしてあらゆる危険から彼女を守り、いつくしみ育ててきた。


 珠王丸がなぜ玻瑠璃と一緒にいるのかなど、考えたことも疑問に感じたこともない。珠王丸がいることは玻瑠璃にとってはごく自然なことであった。また、自分がなぜ目に見えない者たちを見たり、精霊たちや動植物と話し、修行もせずに多少の術が使えるのかも、不思議に思ったことは一度もない。


 珠王丸は普段はきぬの巾着袋の中に入った小さな宝珠だ。


 生まれた時に握り締めていた大きさより、少し大きくなってスモモくらいになった。多少大きくなっても、人のかたちを取ればずっと変わらず童子姿のままだ。




 神家の代々の巫女たちの中にも、みえないものが見える見鬼けんきの才能を持つ者たちもいた。しかし、玻瑠璃のような突出した強力な力を生まれながらに備えたものはいなかった。


 では、祖父の血筋だろうか?


 八雲の夫は若いころは大峯山にて奥がけと呼ばれる壮絶な修行を遂げた修験者すげんざであり、播磨の国で一番能力が高いと言われた唱聞師しょうもじでもあった。唱聞師とは、朝廷に属さない民間の陰陽師のことである。



「お前が生まれた日の暁には、紫雲がたなびき七色に光る黒龍が、産屋のまわりをぐるぐると回ったのだ。竜が一声咆哮すると、産屋は瑠璃色の光に包まれて、そのすぐあとにお前の元気な産声が響き渡ったのだよ、ちい・・や」


 今は亡き祖父である当麻忠顕とうまのただあきらは、おさない玻瑠璃を「ちい」と呼んで溺愛し、彼女が生まれた時の話を何度も語って聞かせた。成人してからは「玻瑠璃」と名乗るように命名してくれたのも祖父だ。


「お前にはこの神家の巫女の血以上の何か特別な力があるようだ。人の何十倍も強い水性すいしょうを持ち、吉兆である瑞雲を伴った水性の化身の黒い竜まで、お前の誕生をことほぎしたのだ」



 幼い孫娘の特殊な能力をいち早く見抜いた忠顕は、自らが何十年もかけて会得した持ちうる限りの知識と方術を玻瑠璃に与えた。


 四書五経、宿曜すくよう八門遁甲はちもんとうこう、暦道、天文道、陰陽道、道教、密教、風水に薬草学、気功学……土が水を吸うように、教えられれば教えられるだけ、玻瑠璃は多くを吸収した。


 古神道は祖母によって教え込まれた。十二歳になる頃には、それらをすべて修め、ひととりの方術も使いこなせるまでになっていた。修行らしい修行をしたことのない童が、並大抵の術者ではかなわないほどの力を操れるようになっていた。




 孫娘に己の持つすべてを惜しみなく伝授し終えると、まるで使命を果たしたかのように忠顕は玻瑠璃が十二の年の秋に儚くなってしまった。


 しかし、そんな祖父でさえ、珠王丸についてなにも特別なことは言わなかった。




「私は……お前とともにこの世に生まれいでたときは、ただの宝珠でしかなかったのだよ。けれどお前が生まれた日に、都からあるお方がいらっしゃって、私に人のかたちを取る霊力を与えてくださったのだ。お前を守れとおっしゃって……」


 珠王丸は淡々と語った。


「はぁ? 都から? いったい、どこの誰が来たというのだ?」


 玻瑠璃は眉を顰めた。


 そんなことは誰からも聞いたことがなかった。祖父さえも何も教えてはくれなかった。祖母だって知っていたはずなのに、そのことには触れたことがなかった。




「そのお方はその時私におっしゃったんだ。もしも玻瑠璃が播磨で巫女として神家を継ぐのであればそれでよいが、万が一、何か良からぬことに巻き込まれて寄る辺のない頼りない身となれば、都の自分のもとへ、玻瑠璃を必ず連れてくるように、とな」


「おい、だからそれはどこの誰なんだ? 話が見えぬ。お前に人のかたちを取る力を与え、なぜに私を守らせた? 万が一とは、このようなわけのわからぬ凶事が起きることを、私が生まれた時点ですでに知っていたということか? その者は常人ではあるまい。どこかの山の坊主か?」


 玻瑠璃は珠王丸の澄んだ瑠璃色の瞳を見つめた。宝珠の精霊は、嘘偽りを言うことができない。


 珠王丸は玻瑠璃の清廉な灰色の瞳を見つめ返した。そして静かな、はっきりした口調で告げた。


安倍晴明あべのせいめい様だよ」




「は……?」


 玻瑠璃は我が耳を疑った。


「鬼も逃げ出すほどの神変じんぺん(超能力)の持ち主……」


「それが誰なのかは赤子でも知っているぞ。確か、おじじ殿が若き頃に高野山でお会いしたとおっしゃっていたな。そのころあのお方はほんの少年であったが、どんな修験者よりも強い神力と強大な守護を持っていて、おじじ殿はその気に圧倒されてしまったと……」


「そう、そのお方だ」


「なぜ、そのお方が私が生まれた時に播磨まで来て、人のかたちを取れるようにお前に力を与えたのだ?」


「それは御本人に、じかに訊いてみればよい。なぁ、玻瑠璃、都へ、清明様のもとへ参ろう。神家みわの邸もご祭壇も燃え失せてしまった。八雲様も美月殿も……もういらっしゃらない。もしもお前がまだ生きていると知れれば、証拠隠滅にあの男がお前を殺そうとしてくるに違ない。お前には今、住処すみかも、後見うしろみもない。たった十四のお前には、何をどうすることもできない。あの方を頼ろう。きっと、力になってくださるだろう」




 珠王丸の静かな説得に、玻瑠璃は膝の上で握りしめた両の拳を、爪が食い込むほどにさらに固く握りしめた。


「――私が生まれた時にお前に力を与え、私を守らせたなど……すべてを知っていて、頼ってこいなどと……まさか、私の父では……?」


「だからそれは、自分で訊けばよい。なぁ、ぐずぐずしてはいられないよ。昨夜私は、お前の寝床に紙の人がたに呪をかけて、お前に似せておいてきたのだ。清水親長はそれをお前だと思い込み、袈裟懸けにためらいなく斬り捨てたのだ。奴はお前を仕留めたと思い込み、火を放った。生きていると知られれば、なんとしても命を狙ってくるだろう。いや、もうすでに偽物だと気づかれたかもしれない。一刻も早く播磨を去り、あのお方の庇護下に身を置くべきだ。だから今回は何も言わずに、黙って従ってくれ」


 珠王丸は懐から赤い絹に包まれた一尺ほどの細長いものを取り出して玻瑠璃に差し出した。


 はらり。黄色い正絹のひもが解かれ、一振りの霊剣が姿を現す。


 銀製の鞘には見事な昇龍の彫刻が施され、両眼には真っ赤な紅玉がはめ込まれている。柄の部分にはその下半身がうねるように彫刻されている。


「これは、ご神体……!」


 受け取った右手がびりびりと痺れる。霊験の発する清廉な覇気は白い火花となって、右手から入って玻瑠璃のからだ中を駆け巡り、左手から放出されていった。神家の祭壇に祀られていた霊剣『雷神』である。


 パシン! と白い閃光がフレアアップした。


 玻瑠璃は歯を食いしばって落とさないように必死に柄を握り締めた。抑えがたい大きな怒りに打ち震える。


 彼女の怒りを霊剣がとらえ、同調したようだ。


「あの男……一生かけても、復讐してやる。私の大切なのもたちをすべて奪ったあの男。珠王よ、私は強くなりたい。あのくず野郎を、指先ひとつで殺せるほどに。だから、だから……」



 ぽとり。



 ぽと、ぽと。



 霊剣の鞘に、柄に、銀の彫刻の昇龍の上に、玻瑠璃の涙が零れ落ちる。


 彼女はゆっくりと呼吸を整えると、心を決めて静かに言った。


「お前の言うとおりにするよ」


 珠王丸は頷くと、泣いている玻瑠璃の黒髪を何も言わずに丁寧に梳いて、後ろで一つに束ねてやった。水干にくくり袴、髪をひとつに結わえれば、ようやく少年に見えるようになった。




 さらさらと、川辺に冷たい微風が渡ってゆく。


 山桜はまだ硬いつぼみをようやくつけ始めたばかり。


 はらり。はらり。


 牡丹雪が舞い降りる。




 都へ。




 とりあえず、都へ向かうのだ。

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