絶
第5話
夜のとばりが降りる。
紺色の空には青白い冴え冴えとした青白いスバル。
星明かりの黒い庭の白梅と紅梅は、花をつけた枝を風もないのにふるふると振るわせている。
「おい、白麿。なんだかとても嫌な気分だ」
この宵に、最初に言葉を発したのは紅梅だった。
「おう、紅麿。わしもなんだか悪寒が止まらぬ。こんなことは生まれて初めてだ」
白梅が震える声で答える。
「幾度の大嵐も飢饉も干ばつも、落雷の時でさえ、これほど嫌な気分はせなんだ」
「なにやらひどくおそろしい」
「嫌な感じだ」
「ああ、嫌な感じだな」
次に異変に気付いたのは、宝珠の精霊だった。
安らかな寝息を立てて眠る玻瑠璃の細い首にかけた絹の袋が、暗闇の中で青白く発光した。それは彼女の懐の中からふうわりと蛍のように浮かび出て、その枕もとで童子の形になった。
「玻瑠璃、玻瑠璃。なぁ、起きろ」
珠王丸は玻瑠璃を揺り起こそうとする。彼女は寝ぼけたまま迷惑そうにかすれ声で答える。
「なンだ、珠王……? まだ寝たばかりだぞ……」
宝珠の精霊はすばやくその抗議の声を遮って静かにするようにたしなめる。
「声を潜ませろ。目を覚ませ。なんだかとてつもなく、嫌な胸騒ぎがする。邪悪な気を感じる」
「ええ?」
玻瑠璃はゆっくりと上半身を起こす。小袖の上に単衣を羽織る。
「人の気か?」
「ああ、人だな。術を使う奴だ。あまりにもよこしまで……恐ろしくはないが、震えが止まらぬ。大巫女の結界を壊して侵入してきたな。それに別の、なんだから気持ちの悪い結界を張ったようだ。家じゅうの者の動きを封じようとしている。早く、ここから出ないと」
「近頃よく聞く、
「いいや、盗賊にいては数が少ない。ほんの三人ほどか。すごい強力な術だ」
「何だ? いったい……」
「ああ……まずい、まずいぞ。玻瑠璃、ご神体を持って、身を隠さねばならない」
珠王丸はぶるりと大きく震えた。彼の様子から玻瑠璃もこの異常事態を認めた。
「大変だ、おばば殿と姉さまを起こさねば」
玻瑠璃は珠王丸の水干の袖をつかんだ。
「あっ!」
珠王丸の中世的な美しい顔がゆがむ。
「何だ? 珠王?」
「み、美月殿……!」
玻瑠璃は息を飲み込む。ついに彼女にも不吉な胸騒ぎがし始めた。褥の上から転がるように妻戸を開け、渡殿に飛び出す玻瑠璃を追い、珠王丸も続く。
銀色の三日月が傍観している。
梅の木たちの声はしない。
玻瑠璃は闇の渡殿を、美月の部屋目指して急ぐ。家じゅうの音という音が全く聞こえてこない。夜中とはいえ、不自然なほどに何も聞こえない。
『声を出すな』
珠王丸の声が頭の中に聞こえてくる。
はやる心を必死で抑えながら、玻瑠璃は頭の中の声に従う。
真冬の渡殿の凍てつく寒さが何も感じない。少女の軽い足音が全く響かないのは、彼女の宝珠の精霊がその音を消しているためだ。
全速力で走っているつもりなのだが、なるほど、珠王丸の言うように、誰かが何かの呪をかけているらしい。全身にもったりと重い何かがまといついて、もがけばもがくほどうまく進めない。
美月の部屋の前までやっとたどり着く。
心臓を鷲掴みされたような衝撃で、玻瑠璃は部屋の中に踏み込めない。不安と恐怖。
一か所だけ格子が上げられていて、
中からは、明らかになじんだ姉ではない、誰かほかの者の気配がする。
「――‼」
玻瑠璃は叫びそうになるのを必死にこらえた。彼女の体がふわりと宙に浮いた。珠王丸が彼女の体を抱え、天井近くまで持ち上げて隠形の呪を施した。
『玻瑠璃、危険だ。何かが、
『姉さまは? お願いだ、このまま中に入ってくれ!』
珠王丸は玻瑠璃の願い通り、彼女を抱えて格子の隙間から内側へ入り込んだ。
『なんだ? これは?』
玻瑠璃は目を見開く。
美月の部屋の中は、調度品が壊れて散乱している。まるで大きな竜巻が通り過ぎた後のようだ。几帳や屏風が壊れて倒れ、畳は曲がり、文机や鏡、香炉や櫛匣があちこちに散らばっている。部屋中にはおどろおどろしい殺気がみなぎり、不快な感じが体にまといつく。
心臓が今までにないくらい激しくばくばくと波打っているのは、玻瑠璃の本能が危険を知らせているためだ。奥のほう、寝所の几帳の陰から、かすかな衣擦れの音がする。
明かりがともっているとはいっても、部屋の四隅に置かれた灯台のかぼそい光だけである。そして几帳の後ろに、別の明かりがほのかに見える。
『あの光のほうへ行ってくれ』
玻瑠璃の願い通り、珠王丸は天井近くを奥の几帳の裏側まで飛んでいく。
ゆらり。
几帳の裏側で、大きな影が動く。明らかに、小柄な姉の陰ではない。折れ
男だ。
舌打ちと大きなため息。
「――死んだか」
玻瑠璃の心臓が一瞬止まる。全身の血が一気に引いてゆく。
ゆらり……
几帳の向こう側の灯台の明かりに、太刀の陰が揺らめいて見えた。
玻瑠璃の胴を支える珠王丸の腕がびくりと動く。穢れを嫌う宝珠の精霊は、無意識にガタガタと振るえる。
男は太刀を振り上げる。その切先が、几帳の上からのぞいて見えた。
—―びゅんっ!
宙を切り裂き、刃がうなる。なにかにざくりと刺さる音。
その直後、再び刃が宙を斬りうなる。そして几帳に赤いしぶきがぱらぱらと流線形に散らばった。
『‼』
珠王丸はガタガタと震え続けている。恐怖からではなく、血の穢れへの拒否反応だ。
次の瞬間、血しぶきに染まった基調が乱暴にけり倒された。ばたん、と派手な音がして、血に染まる太刀を握り締めた男が姿を現す。玻瑠璃は思わず叫びそうになった。
清水親長。新しい守の目代の息子。
不機嫌そうな苦々しい表情に、殺気立ってギラギラと光る目。
はた、はた、と切先から血が床に滴り落ちる。
親長は不機嫌そうな表情で握りしめた太刀を宙に振り上げ、それを一気に振り下ろした。
パラパラパラッ……
突然降りだした大粒の雨の音のような音がする。床に、褥に、三尺の几帳に、御簾に、あらゆる調度品に血しぶきが飛んだ。珠王丸は穢れに触れないようにと必死で血を避けたが、それは天井にも飛び散って玻瑠璃の左の頬にも数滴付着した。
男は露払いした太刀を夜具で拭うとそのまま握り締め、衾(掛布団)にぺっと唾を吐き捨てると、大股で部屋を出て行った。
『まずいぞ、玻瑠璃、あいつはお前を探しに行った』
『珠王……降ろせ』
『そんな暇はない。早く逃げなくては!』
『頼む。ほんの少しでいいから……降ろしてくれ』
『……』
珠王丸はため息をついて玻瑠璃をそっと床に降ろした。
玻瑠璃は部屋の奥、倒れた几帳をまたいで寝床へ走る。
「ねえ、さ、ま……?」
立ち込める鉄の匂い。玻瑠璃は息をのむ。
血しぶきの倒れ、請われ、乱れた調度品に埋もれ、細く白い手が見えている。そして夜の小川のような、千々に乱れる艶やかなぬばたまの黒髪。
「あ……あ……あ、あ……」
襟元がはだけ乱れた小袖の胸が真っ赤に染まっている。細い首にはくっきりと指の跡。海老染めの袴のひもは解かれ足元に丸められ、小袖の裾は腿のあたりまでめくれ上がり、手首や脚にはところどころ打撲や切り傷がある。白い頬は殴られて腫れ上がり、唇の端からは血が流れていた。
まるでぼろきれのような無残な姿の美月が、恐怖に目を見開いたままのひきつった表情で息絶えていた。
玻瑠璃は震える手を遺体に伸ばす。
血にまみれた、まだほんのりとぬくもりの残る体にぶるぶると震える手で触れようとする。
「なぜ……っ、なぜ、このような……」
玻瑠璃の灰色の目からはとめどなく悲しみが零れ落ちる。玻瑠璃の来ている山吹色の単衣の袖が、美月の血に染まる。
「玻瑠璃ッ、逃げるんだよ! あいつが火を放った! お前のことを探し回ってる! ご神体の前で、八雲様のこと切れていた! つぎはお前だよ!」
いつの間にか寝殿の様子を見てきた珠王丸が背後から玻瑠璃の肘を強く引いた。あたりはきな臭く、白い煙が立ち込め始めている。
「えっ?」
涙でぐしゃぐしゃの顔を上げ、玻瑠璃は珠王丸を見つめた。今耳にしたことを理解しきれていないまま、彼女は混乱していた。放心状態で呆然とする玻瑠璃を珠王丸は無理矢理抱えあげ、ひと瞬きのうちに部屋を出て渡殿から上空へと飛び出した。
「あ、あ……あ」
玻瑠璃は放心したまま、火の手が上がった住み慣れた家を見下ろした。がたがたと震えが止まらない。
「はー……る、り、ど……のぉぉぉぉ……」
「じゅぉぉぉ……ま……る……ぅぅぅ」
白梅と紅梅をはじめ、庭の木々や邸の眷族の精霊たちの悲痛な叫び声が響いてくる。炎に飲まれる断末魔の叫び声。
珠王丸はなるべく聞かないようにして玻瑠璃を抱きかかえたままぐんぐん上空へと上がってゆく。
白梅と紅梅が、その枝枝に炎をまとい燃え盛る様子がはるか足元に見える。
玻瑠璃もまたその様子を見下ろしていた。彼女の灰色の瞳からはほろほろと涙が零れ落ちていた。
「ゆるせ、玻瑠璃よ」
珠王丸が中重にそう呟くやいなや、玻瑠璃は星夜の空の上で目の前が真っ暗になり、意識を失ってしまった。
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