予感

第3話

ちっ。



 玻瑠璃は舌打ちする。


 新月の夜は心が騒いで、気を集中することができない……





 翌朝。朝餉を済ませたあと、玻瑠璃は庭に面した渡殿で梅の精霊たちと珠王丸と一緒にいた。


「――うむ。それで、亀殿がお越しになってまでお知らせくださろうというのは、どのような不吉の兆しであったのか」


 白梅が訊いた。


「それがよくわからないらしいのだ」


 玻瑠璃が唇を尖らせた。


「それは心もとないのぅ。あれ玻瑠璃殿、美月殿がこなたへやってくるようだ」


 紅梅の言葉に玻瑠璃は、母屋へとつながっている渡殿を振り返る。やがて萌黄色の袿を着た、華奢な少女がやってくるのが見えた。


 玻瑠璃よりも二つほど年上。本当は従姉いとこだが、生まれた時から姉妹のように一緒に育ってきた。年齢の割には小柄で玻瑠璃と背丈も変わらない。結婚していてもおかしくはない年齢であるが、祖母の後継になるべく巫女の修行を第一としていた。女らしく物静かで思慮深い。


 気が強く負けず嫌いで怖いもの知らず、男童のような傍若無人な玻瑠璃とは正反対である。




「玻瑠璃。八雲様が私とあなたをお呼びよ」


 美月は黒目がちの穏やかな瞳でやわらかく笑んだ。萌黄色の袿のせいではないが、彼女の体からは黄緑色のオーラが発せられている。ひとを安心させるやわらかな気だ。美月は年齢の割には思慮深く、普段から感情の起伏を表に出すことがなく、それゆえに彼女の気はつねに安定している。それこそが神家の大巫女の資質であると、祖母の八雲は言う。


 玻瑠璃もその点では祖母に同意している。そして物心ついたころから、この姉には頭が上がらない。




 みわ家は完全なる女系の家系だ。


 そしてある一つのルールがある。




 この家の娘たちは、いかなる場合であっても、自らの意思で伴侶を選ぶ。身分も職業も関係なく、娘が選んだものであればどんな相手でも受け入れる。神家の女たちは伴侶を持って子を生したとしても、その能力を失うことはない。


 つまり、相手がだれであっても娘が生まれることは必須であり、またその娘が母親の能力を受け継ぐことも必須なのである。父親が誰であっても、必ずそうなる。


 実際、代々の神家の娘たちは漁師いさりお国司くにのつかさ、刀鍛冶、都の高位の貴族、皇族、はては盗賊の首領まで、さまざまな職業や身分の男たちとの間に血と能力を継いできた。


 祖母の八雲は高野山の修験者を夫として、千景と水鏡を産んだ。千景は医師との間に美月を儲けた。水鏡は—―なぜか相手の素性を誰にも明かすことなく—―鹿島で巫女をしている間に玻瑠璃を産んでまもなく亡くなった。


 どんな男を伴侶としても反対する者はいないのに、水鏡は玻瑠璃の父親については母にも姉にも何も告げることはなかった。




 寝殿(母屋)。


 ご神体の霊剣が祀られている祭壇前に坐した神家の大巫女である八雲は、几帳の向こう側の下座に座った二人の孫娘を振り返った。向かって左手に坐すのは次期跡を継ぐ姉の美月。安定した黄緑色の気をふうわりと漂わせている。そして向かって右側に坐すのは妹の玻瑠璃。生気に満ちた、驚異的な神々しい青白い気を放っている。 


 八雲は二人に気づかれないようにかすかに吐息した。玻瑠璃の霊力は、成長するごとに年々強くみなぎってきている。制御の仕方を教えなければならないが、そろそろ神家の大巫女の能力をもってしてもそれが難しくなってきている。もはや、「あのお方」を頼るしかあるまいな。



「おばば殿、最近はなにもやらかしてはいないと思うのですが、お説教でしょうか?」


 玻瑠璃ははきはきと悪びれない口調で言った。


 するりと衣擦れの音をさせ、八雲は几帳の陰から出てくると二人の孫娘の前に坐し、玻瑠璃をぎろりと睨んだ。


「なぜ説教だと思う? 説教されるようなことをしたのか」


「いいえ、だから……心当たりがなくて」


「心当たりが多すぎるのであろう。説教ならば美月もともに呼び出すはずがあるまい?」


「あっ、そうですね。確かに」


 玻瑠璃はあははと力なく笑った。美月は小さくため息をついて肩を落とした。




 八雲が動いたことで、白檀のかおりがふわりと立ち上った。小柄で華奢な老婆は、六十七歳になってもまだ四十代くらいにしか見えない。白髪交じりになっても若いころの美しさを十分に保っている。その身に数えきれないほど神を降ろし、悩める人々にご神託を下してきた。時には帝が秘密裏に御幸みゆきされたり、大貴族がお忍びで訪れてくることもある。秘密裏と言えば、出雲の大社おおやしろから神降ろしの依頼が来ることもある。



「まったく……お前は成人したという自覚がまるでないようだ。少しは美月を見習わぬか。お前たちを呼び出したのは、ほかでもない。明日、都から新しい播磨のかみの代理が下ってくる。この社に参拝するとのことだ。歓迎の宴をせねばなるまい。お前たちも紹介するので、心しておくように。とくに玻瑠璃」


「新しい守の代理、ですか?」


「どんなお方です?」


 美月と玻瑠璃は首を傾げた。


「清水康頼やすよりというお方だと聞く。都では小一条の大納言師尹もろただ殿の家司けいじを長年務められておられたようだ。信心深く心安らかなお方だとか。美月は次代の当主としてご挨拶するように。玻瑠璃は……よいな、くれぐれも粗相のなきように」


「はい……」


 二人はそれぞれ神妙に頷いた。


「よいおかお前たち、わが神家は常陸の国に鎮座まします鹿島の大神おおかみタケミカヅチ命――アマテラス大御神の御甥の武神を、飛鳥の昔よりまえからこの地にお祀り申し上げてきたのだ。我らは古代の誇り高き和邇氏わにうじ支族である大氏おおうじの子孫なのだ。地霊ちだまを鎮め、あらゆる航海の安全を祈願してきた。お前たちはまだまだ未熟者たちだが、代々の偉大な巫女かんなぎの血を受け継いでいる。家の名に恥じぬよう、日々修行に励むがよい」



 いつものお説教が始まると、そらきた、と玻瑠璃は声に出さないようにつぶやいた。そして袖の中に手を入れて、ひそかに印を結んでしゅを唱えた。


 祖母が視線を伏せた間にさっと立ち上がる。するとその場にはまだうつむきながら神妙にお説教を聞く玻瑠璃が姉とともに座っている。そんな自分を振り返って舌先をぺろりと出すと、本物の玻瑠璃はこっそりとその場を抜け出した。


 紙を切って作ったひとがたに術をかけ、自分に似せておいてきた。廊下の柱の陰からそっと自分の偽物を覗き見る。祖母は二人の孫娘を前に滔滔とうとうと神家の巫女としての心得を語り続けている。どうやら全く気付いていないようだ。



「おい。そんなことに使うために亡きおじじ殿はお前に術を教えたわけではないぞ」


 陽だまりの渡殿の欄干に座って伸びをしている玻瑠璃に向かって、珠王丸はあきれた口調で声をかける。欄干の上で脚をぶらぶらさせて玻瑠璃は首を左右に傾げる。


「だがなぁ。おばば殿のアレが始まると長くてな。どうせ居眠りして叱られるなら、あとでばれて叱られるほうがましだ。大氏だのタケミカヅチだの、もういい加減聞き飽きたのだ」


「あそこで神妙にしているお前が実はただの紙切れだとばれた時には、『お前が甘やかすから』と私まで八雲様にお説教を食らう羽目になるのだぞ」


 珠王丸は憂鬱そうに深くため息をついた。


 彼はもともとは玻瑠璃が握り締めて生まれてきた小さな宝珠だった。それをある人物・・・・が人のかたちを取れるように呪をかけた。宙を飛び、いくつかの術を使うことができる。完全なひとがたをとれば能力のない人間たちにも見ることはできるが、普段は力を温存しているため、能力のある人物にしか見えない。


 神家で彼の姿が見えるのは、玻瑠璃のほかには八雲と美月だけだ。



「それよりもなぁ、珠王よ。昨夜、万寿様がおっしゃったことだが」


「うん? 不吉の兆しとやらか?」


「そうだ。まさか、先ほどおばば殿のおっしゃっていた、新しい守の代理にかかわるかな?」


「なぜさ?」


「都からくるのだ、とすれば丑寅の方角からくるのだろう?」


「だが、その清水康頼という男は、善人との評判が高いのであろう? 新任早々に神拝に訪れようとするあたり、不吉の兆しには思えぬがなぁ」


「守の目代もくだい(代わり)だから、遙任ようにんなのであろう? 神拝に真っ先に訪れるのは義務であろうよ」


 遙任とは、税を納めるための資源が豊富な地の国司(長官)に任ぜられた皇族の代わりに、貴族がその地へ赴任することである。神拝とは、国司が新たな任地に赴いた際にその土地の神に参拝することである。



「なんかこう、胸がもやもやとざわつくのだ。清水、という名を耳にした時から……」


「ふうん。お前の気のせいだといいが」


「そうだな」


 玻瑠璃は庭に目を向けた。そう、気のせいだといいが……」

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