予言

第2話

二つ(真夜中)。



 二月きさらぎになったばかりといは言え、夜中はまだまだ凍える寒さ。


 新月の星夜だ。


 玻瑠璃はため息をついた。小袿こうちぎを羽織るとしとねから抜け出して、物音を立てないようにそっと部屋から簀子縁すのこえんに滑り出た。



「なんだ、玻瑠璃殿。眠れぬのか?」


 青い闇の庭の右手から、白梅の精が話しかけてくる。樹齢二百年の大樹の化身である。


「ああ、またの夢を見たんだ、白麿しろまろよ」


「おう、またか。玻瑠璃殿よ」


 今度は左手から、紅梅の精が話しかけてくる。こちらは樹齢百八十年。


「うん、そうだ、紅麿べにまろ


「例の男の夢であろう。自分のは、夢解きはできぬのかのぅ」


 白梅がしわがれ声で囁くように静かに言った。


「さぁな。さっぱりわからん」


「はて、なにゆえに一度もあったことのない男の夢をそう何度もみるのか」


 紅梅がすこし高い声でゆっくりと言う。


 少女は簀子縁にしゃがみこみ、浅いため息をつく。


「ああ、そうだな。あんな優美な男、こんな田舎ひなでは見たことがない。都の公達だろうか……いつも、何もしゃべらないのだ。ただ微笑んで、私に宝珠を差し出すだけなんだ」


「人であるのか、あやかしであるのか」


 白梅の言葉に紅梅が笑う。


「ほっほっ。どちらにしても、未来の背の君(夫)ではあるまいか」


 紅梅の言葉に今度は玻瑠璃が腹を抱えて笑う。


「あはははは。馬鹿を言え、紅麿よ。まさかな、あのようなあてやかな公達が、私の背の君なわけがなかろう? 都から遠く離れた播磨のこの田舎で、どう探せばあのような公達が現れて、どうしたら私のような田舎ひな者の小娘を見染めるというのだ!」


 玻瑠璃の言葉に白麿はしゃがれ声で楽しげに答える。


「何を申すか、お前は美しくなるぞ。あと二、三年もすれば、播磨一、いや、都にまで評判の美しい女君となろうぞ。どのような高貴の姫君にも、皇女にも負けぬほどにな」

「ほっほっ。白麿殿は、玻瑠璃殿が可愛くて仕方がないようだ」


「なにを、紅麿よ。お前とて玻瑠璃殿が可愛くて仕方がないくせによ。お前がつねに甘やかすから、玻瑠璃殿がいつも八雲殿にお小言を食らうのだ」

「それは、わしのせいではなかろうに」


 梅の精たちの言い合いがおかしくて玻瑠璃がくすくすと笑っていると、真っ暗な渡殿の奥の暗闇の中から、少年の透き通った囁き声が近づいてくるのが聞こえる。




「玻瑠璃、玻瑠璃……」


 いくぶん不安げなその呼び声に、玻瑠璃は何か嫌な予感が胸をよぎった。


「何だ? 珠王じゅおう


 暗闇の中から、白い水干姿の童子がふうわりと宙に浮いたままやってきた。その体からはいくぶん青白く発光しているように見える。


 うなじの上で一つにくくった長い白い髪、透き通るような瑠璃色の瞳。この世のものとは思えないほどに、麗美な容貌をしている。


「おう、珠王丸殿」


「なんだ、慌てておるのぅ、宝珠の精よ」


 白梅と紅梅がやってきた宝珠の精に声をかける。外見は普通の人間と違いはない珠王丸は、ふわふわと宙を漂いながら玻瑠璃の目の前まで飛んでくると、右手の人差し指の先にぽうと青白い光をともして梅たちに答えた。


「やあ、白麿、紅麿。おい玻瑠璃、お前を起こしに来たんだよ。今すぐ釣り殿まで来ておくれ。万寿まんじゅ様が鹿島よりお越しになったのだ」


「万寿様が?」


 珠王丸が指先にともした青白い炎の放つほの暗い光のもとで、玻瑠璃は大きな灰色の瞳を見開いた。


「ではすぐに参ろう。白麿、紅麿、またな」


 庭の梅の木たちに別れを告げると、宙を浮いたままの珠王丸に手を引かれた玻瑠璃はぬばたまの黒い闇深い渡殿を、海にせり出した釣殿へ向かって急いだ。



 播磨の国。



 みわ家の邸は、入り江にせり出すように建てられている。古代いにしえよりその地で社を代々祀る、巫覡ふげきの家系だ。


 氏神はタケミカヅチのみこと。高天原から降臨してオオクニヌシ命に国譲りを迫った雷の武神である。社に祀られているご神体はひとふりの霊剣。神家は男子がめったに生まれない女系であり、数世代ごとに姉妹の中で一人、卓越した霊力の者が生まれ一家を統べる大巫女おおきかんなぎとなる。


 玻瑠璃は神家の娘であり、今の大巫女の二番目の孫娘である。


 大巫女には二人の娘がいた。玻瑠璃の母は次女の水鏡すいきょうで、未婚のまま誰にも相手のことを明かさずに玻瑠璃を生んですぐに亡くなった。長女の千景ちかげは地元の医師を夫として美月みつきという娘を産み、亡き妹の子である玻瑠璃を実の子とともに育てた。


 そういうわけで、美月と玻瑠璃は従姉妹いとこであるが実の姉妹のように育った。千景は二年前に病で亡くなり、以来、神家は祖母で大巫女の八雲と、二人の孫娘たちが暮らしている。



 時は康保四年、渡来人の母を持つ桓武天皇によって平安京に遷都されて百七十年余り。



 年が明けて十四歳になった玻瑠璃は裳着もぎ(女子の成人式)を済ませたがひと月前に済ませたが、本人にはまだ成人した落ち着きも自覚もなかった。


 巫女かんなぎの修行もそっちのけで精霊しょうれいたちと遊び歩いては、祖母の八雲から逃げる毎日を相変わらず送っていた。


 しかし、彼女には生まれながらの稀有の能力が備わっていた。母の腹より生まれ出た時、右手に小さな宝珠を握り締めていたのだ。赤子の手のひらに収まる、猫の目玉ほどの大きさの、しずくのような形をした半透明の水晶のような。透き通った白いものにも、七色の光をにじみだしているものにも見える。


 その化身が、人のかたちを取りつねに玻瑠璃のそばにいて彼女を守護している珠王丸なのだ。


 本人にしてみれば何の不思議もないごく普通のことなのだが、龍の頭の中からいづると言われる宝珠を手の中に握り締めて生まれてくることからして、ごく普通とは言えない。動植物と話せることも、鬼や精霊たちを見ることができることも特殊な血筋というだけでは片付かないだろう。


 しかしそれはみわの家に生まれたおかげで、持って生まれた特別な力として感嘆や尊敬、羨望は受けても、不気味がられ、虐げられることはない。


 姉の美月も巫女としての能力は高いほうだが、玻瑠璃はずば抜けている。しかし祖母の八雲は後継には美月を据える気でいて、それについては美月も玻瑠璃も納得している。


 良くも悪くも美月の能力は歴代の大巫女に匹敵している。けた外れの力を持つ玻瑠璃は、神家の大巫女の器では収まりきらないであろうと、八雲は見破っているからだった。




 潮騒が心地よく響く。



 冷たく清らかな海風が、玻瑠璃の頬や髪をなでる。


 暗闇の渡殿の突き当りは、満点の星空を従えた黒い海が広がっている。海にせり出した釣殿は、星の舞台のように見える。



「おい、そんなに急いで引っ張るなよ珠王。おじじ殿は逃げなさ」


 玻瑠璃は息を切らしながら、自分をぐいぐいと引っ張ってきた宝珠の精に抗議の声を上げた。


 掴んだ手を強く引っ張り返された珠王丸は唇を尖らせて、あるじの小さな手を解いた、と同時に、艶やかな黒い床からひどくしわがれた陽気なのんびり声が聞こえた。


「ほほ、ひさかたぶりよのぅ、玻瑠璃殿」



 磯の香り。


 玻瑠璃は声の下あたりの床に屈みこみ、懐かし気に微笑んだ。


「ほんになぁ、万寿様」


 玻瑠璃が床に座りこむと、三尺(約九十センチ)ほどの大きさの巨大なアカウミガメが、ぬらぬらと闇に光る甲羅を動かして潮の香りをさせながらのんびりと首をもたげた。


「いやはや、たまの遠出はしんどいのぅ」


 ぜいぜいと枯れた呼吸音とともに、大ガメはため息をついた。


「鹿島からは陸路人の足でも半月ほどかかります。万寿様はいつもの海流に乗って、のんびり居眠りしながら流れてこられたのでしょう?」


 玻瑠璃はくすりと笑って首を傾げた。


「それがのぅ。嵐のせいで、大きなうねりがあちこちにあってのぅ。ついつい流されすぎて、思ったよりも遅くなってしもうた。わしも、寄る年波には勝てぬ」


 大ガメは苦し気にしわがれ声で答えた。


「それは難儀なことでした。それで、新月の夜にこうしていらしたのには、何事か異変があってのことでしょうか? 鹿島あちらはお変わりなく?」


「おお、相変わらずよ。こうしてはるばるやってきたのはのぅ……」


 大ガメはひゅうひゅうと上を鳴らした。星影の青い闇の中、玻瑠璃と珠王丸は老いた大ガメの次の言葉を息をひそめて待っている。


「実は、つい先日、不吉の兆しが播磨こちらに流れるのを感じたのだ」


「不吉の兆しとは? 万寿様……」



 玻瑠璃は眉をひそめた。


 玻瑠璃と珠王丸は、床の上の大きなカメのほうに身を乗り出した。


「いや、はっきりとはわからんのだが、どうやら玻瑠璃殿、そなたの身の上になにやらよからぬことが起きるようだ」


「は? 私に? では、何をどうすればよろしいのですか?」


「人の世で起きる森羅万象は、我が手には負えぬでのぅ。わしにはどうすることもかなわぬ。珠王丸よ、玻瑠璃殿をどうかよろしゅうお守りくだされ」


 床から一尺ほど浮いたまま座している珠王丸は、大ガメの言葉に神妙に頷いた。


「心得ております。したが万寿様、それはやはり人がもたらす何か不吉のものでございましょうか」


「うぅむ。丑寅うしとら(北東)からやってこようぞ」


「丑寅か……鬼門だな、珠王」


「うん。都の方角でもあるな」


 玻瑠璃と珠王丸は頷きあった。




「玻瑠璃殿にとってはただの不吉ではあるまい。絶から胎への大変革期となろうぞ」


「詳しくはいつごろ、起きるのです?」


「ごく近いうちに起きるであろう。そなたは生まれ持っての強運の主ゆえ、命を落とすことはゆめゆめあるまいが。備えておくのじゃ。さぁて、わしは鹿島に戻ろうぞ。今の時期はいろいろと忙しくてのぅ。珠王丸や、わしを下ろしてくれぬか」


 ひゅうひゅうと喘ぐ大ガメをひょいと持ち上げると、珠王丸は海に突き出すきざはしの上をふわりと飛んで、その巨体を黒々とたわむ波間にそっとおろしてやった。

 

 ちゃぷんという水音とともに、気持ちよさげな感嘆の声が聞こえる。


「はぁぁ、やはり水の中は良い良い。では玻瑠璃殿、確かに伝えたぞ」


「はあ。よくわかりませんが、ご忠告感謝いたします」


 玻瑠璃は欄干から身を乗り出して、海面に浮かぶ大ガメを見下ろした。カメはやがて黒い海中に姿を消した。




 海の上に浮いたままの珠王丸は、カメの沈んでいった海面を見つめたままの玻瑠璃を見た。

 

 星影のもと、まだあどけなさの残る美しい顔は作りもののようにこわばっている。珠王丸はふわりと宙を移動して彼女に近づくと、そっと優しげに玻瑠璃の頭を撫でた。


 彼女ははっと我に返り、自分の心配そうにのぞき込む宝珠の精に穏やかな笑みを向けた。


「まったく……何なのだろうな、珠王よ。あのおじじ殿があんなことをおっしゃるのは、これが初めてであろう? しかもわざわざ老体に鞭打って鹿島からはるばるいらっしゃるとは。もしや、私が最近よく夢に見る、あの貴人がなにか関係しているのではないか……」


 珠王丸は宙で胡坐あぐらをかいたままくるりと一回転した。


「さぁなぁ。でも私も、変な胸騒ぎがするよ。きっと、よほどのことなのだろう」


「そうだな……」


 それには振り出しそうな満点の星々。静かに、一定のリズムを保っている穏やかな潮騒が青い夜空に溶けてゆく。

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