誓いと水晶の谷の竜

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第21話

「今日は子爵は家の用事で来ていないみたいだね」


二人分のお茶の用意をもって北の塔を訪ねてきたイェルが焼き菓子をほおばりながら首を傾げた。


「昨日家から封書が届いて、三日ぐらい来られないかもって言っていたわ」


いつものように「見えない者たち」が準備したお茶を優雅に啜りながらヴァラは小さく頷いた。


「ハイデは? まさか、まだ私に怒っていてご機嫌斜めなの?」


何気なく訊いているが相当気になっているヴァラの様子にイェルは淡く苦笑して首を横に振る。


「まさか。父上に呼ばれたんだよ、彼女自身の結婚のことで」


「そう。あの子、あの薬……使った?」


「実際そんな度胸があると思う?」


「ううん。でもあんな必死だったから。そのためにケンカになったんだし……」


「使うとなるといろいろと迷いだす、ハイデらしいよね」


二人はくすっと笑った。




「あの子の嫁ぎ先は、黒い森の公国の公子だったよね」


「うん。リヒャルト公子、私たちより五つ上で、将来有望だといわれている」


「ハイデは未来の公妃か。悪くないね」


「でもさ、リヒャルト王子って、相当な浮気ものだってもっぱらの噂なんだ。外見は悪くないからね。絵姿を見たけれど柔らかい雰囲気でさ、でもあの生まれながらの騎士のフランツと比べると、どうも好感が持てないらしい」


「それなら、あの二つの薬を使えばいいわ。ハイデ自身も。毎日お互いにほれ薬を一滴くらいずつね」


「彼女にとってのめでたしめでたしは、フランツに想い人がいなくて、亡くなった姉上の代わりに彼に嫁ぐことだったけれど……」


「フランツはもうすぐバルの侍女と婚約するみたい。ちょうど時期的によかったのかも」


「もっと早くに手を打てば、未来は違っていたかもね。まあ、奥手なハイデらしいけどね」


黒い森の公国は藍の国の東隣の国で、豊富な鉱山資源と宝石の加工技術を持つ。公子に嫁げば、未来の大公妃となれる。


「心配はいらないわ。公子が浮気したら、私が仕返しをしてあげるから」


「たとえばどんな?」


「そうね……動物にしか惚れられなくするとか、おしりに大きなおできを出現させるとか?」



二人はお腹を抱えてくすくすと笑う。そしてイェルがはっと顔を上げてヴァラを凝視する。


「あっ、そういえばそれ、ヴァラのほうはどうなの? 最近はずっと子爵と一緒にいるけど……」


「そうね……まだ夢の中の呪文もすべて解明できていないけれど、その前に彼を落さないとね」


「本当に、いいの? 彼には婚約者がいるから、たとえむこうもヴァラのこと好きだとしても……結婚はできないよ」


「イェル。私は魔女よ。それは大きな問題ではないわ」


すまし顔でカップのふちを指先でなぞるヴァラに、イェルはふん、と鼻を鳴らしあごを上げる。


「本当にそう思う?」


「……何が言いたいの?」


唇を尖らせたヴァラに同い年の異母弟おとうとは眉根を寄せた。



「きみはただの魔女じゃない。一国の王女でもあるんだ。魔女だから好きになった相手を落して一人前になればそれでそのあとは好きに生きていいなんて、父上は認めても私たちきょうだいは認めないよ。一番許せないのは、ヴァラが呪いを解いたらどこかへ出ていこうと思っていることだ。父上が自由に生きていいとおっしゃったことを、ヴァラはなんか誤解しているんだよ」


「イェル……」


ヴァラは目じりを下げて弟の手に自分の手を伸ばしてそっと握った。


「あの日、私の誕生日の夜にバルがヒューを連れてきたときから、毎日会うたびにずっと一緒にいたいって思う。父上にお願いして、シュタインベルク侯に今のヒューの婚約を強制的に解消させてもらうことはできなくもないわ。それで私がヒューの呪いを解けば、私たちには都合がいいわね。でも、もし侯爵がそれを迷惑だとお考えなら? 忌み嫌われている魔女姫など、王家のお荷物をしつけられて迷惑だと思われるかもしれない」


「どうしてそこは弱気なの? それこそシュタインベルク侯に暗示でも魔術でもかけて納得させなよ。王家のお荷物って、なに? 誰がそんなこと言ったの? 父上もきょうだいたちも、みんなきみを愛しているよ。王妃やほかのお妃たちだって、ヴァラのおかげで子供たちが死なないから、心から感謝しているんだ。そのうえきみは絶世の美女で性格も最高で、私たちきょうだいには最愛の存在なんだよ?」


「イェル……」


「それにね、きみと一緒にいるときの子爵の様子を見れば、誰だって彼がきみに恋してることくらいわかるよ。きみのほうだって、彼のこと大好きなんでしょう? それなのに幸せになる道を選ばないなんておかしいよ」


イェルは自分の手に重ねられていたヴァラの手に、もう片方の手を置いて両手で包んだ。


まだまだ幼いところが目立っていて、自分が彼を守らなければならないと思っていたヴァラは少し驚いた。


同じくらいだと思っていた同い年の弟の手の大きさは、いつのまにか彼女の手をすっぽりと包み込むほどに大きくなっていた。


彼はヴァラの指先に口づける。


「時々、感じるんだ。呪いを解いたあと、もしかしてヴァラは自分のことを用なしになると思っているのかなって。魔女ではあるかもしれないけれど、それと同時に、私たちの血のつながった大切なきょうだいなんだからね。お願いだから、どこかへ行かないで。じじばばになっても、ずっとこうしてきみと、お茶しておしゃべりしていたいから」




ヒューが家の用事で戻れなくなってから三日が経った。


北の塔のバルコニーに続く窓辺の椅子で、ヴァラは目を覚ました。


いつもしているように、夢の中で見た魔法円や頭の中に残る呪文を忘れないうちに書き留めてゆく。


先ほど見たもの、聞いたもの。たぶん、それですべて。


ここ数年の昼間の夢の中で見たものや聞いたものはすべて記憶している。


膨大な情報ではないし、繰り返し同じことが復習のように出てくることもあったためだ。小さな手帳の中には、重複しつつも情報はすべて書き留められた。そしてそのすべてはヴァラの頭の中にも記憶されている。


たとえ手帳をなくしたとしても、もう彼女は困ることはない。


手帳を閉じて膝の上に置くと、彼女は窓の外をぼんやりと見つめてため息をついた。




三日前、ヒューの父のシュタインベルク侯爵から届いたあの封書には、一体何が書かれていたのだろう? 


もしや彼は父侯爵から、第七王女の解呪の手伝いを反対されたのだろうか。


仮にも王太子の命令であるから、侯爵が反対して辞めさせることはないとは思うけれど。では、なにかよくないことの知らせだったのだろうか。


あまり多くは書かれていなかった文面をたどるヒューの視線は、すこしの驚きと困惑とがかすかに浮かんでいた。


三日ほど城に来られないかもしれない、と彼は言った。


用事は何だったのだろうか? すでに今日はその三日目だ。



あれからあの魔術師の幻影は現れない。イギーが部下たちに命じてクラム侯とその屋敷を見張ってくれているが、ここ数日は大きな動きは見られないようだ。


「おぉーい、ヴァラ!」


部屋の入り口のドアの脇のベルがからんからんと音を立て、窓の下から聞きなれた声が聞こえてくる。


ヴァラははっと我に返り、窓を開けバルコニーに出て、手すりから下を覗き込んだ。案の定、イェルが両手で口元を囲ってこちらを見上げて声を張り上げていた。


「ねえ! 兄上が執務室にすぐに来てくれって! ここで待ってるから、降りてきて!」


わかったわ、と答えてヴァラは毛玉のようなふわふわ雪を従えて石のらせん階段を下りてゆく。

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