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第24話
ドアがノックされ、羽那ははっと我に返る。
小さな美術館のとある一室。
彼女は窓の外に広がる緑深い池泉庭園をぼんやりと眺めていた。
「羽那、あなたにお客様がいらしたの」
池でエサ取りの練習をしている愛らしいカルガモのヒナたちから従姉の弥生に目を向けると、羽那は小さなため息をついて苦笑した。
「わかった、今支度して行くわ」
今日は展覧会最終日ということもあって、一般の来観客たちに交じって、関係者も多く訪れている。
「そう言えば、あの富豪の襖、あれなかなか評判よ」
弥生はウインクしてそう言い残し、先に行っていると言ってドアを閉めた。
今回の展覧会は若手の書家数人の作品を一緒に展示している。
幸い、パンフレットにもチラシにもひとりひとりの全展示作が載っているわけではなかったので、展示会の最中に無理を言って展示物を変えたのだ。
依頼者の海外の富豪には許可をもらい、美術館側にかけあった。
幸い、融通の利く小さな美術館で担当者も話の分かる人だったし、館長もふすまを見てぜひ展示してくださいと言ってくれた。
(夢の中で会ったひとと一緒に歌を決めたなんて、きっと誰も信じてくれないでしょうね)
羽那はふ、と唇に淡い笑みを浮かべた。
襖はとても評判がよくて、依頼者の富豪が知り合いを連れてきたこともあり、似たような注文が入るようになってきた。
マネージャーの弥生は最近ずっと機嫌がいい。きっと襖が持ち主の「トコノマ」にはめこまれてSNSにでも載せられれば、もっと注文が来るに違いないと彼女は張り切っている。
ふう、と無意識に本日何十回めかのため息が漏れる。
衝動的に家を飛び出してサペレという会社に向かい、財前を訪ねてから一週間が経った。
幸いにも副社長夫妻は羽那を狂人扱いすることなく信じてくれた。
信じてくれたことは奇跡だったと思う。
しかし、当の本人はそこにいなかったばかりか、まさか今月の初めからずっと、病院のベッドの上で意識不明だったとは。
あれから副社長夫人からは連絡もないし、彼はまだ変わらず意識のない状態が続いているのだろうか。
展覧会が終わったら、ちょっとだけでも……お見舞いに行ってみようかしらと、ここ数日はそればかりずっと考えている。
ずっと考えてしまうのは、五日ほど前から「あの夢」を見なくなったからだ。
うたたねの中でも、夜の睡眠中でも、まったく見ないのだ。
夢の中で穏やかに微笑む、あのひと。その笑顔がだんだんと薄れてくる。
彼がいたから、あの襖は完成した。
いなくても完成したとは思うけれど、きっと出来は違ったはずだ。
今日の羽那は明るいグレーのベルスリーブの、シフォンのロング丈のドレスを着ている。
姿見の前で身なりを整え、化粧直しをして控室を出る。
吹き抜けの明るいロビーを横切って展示会場へと向かう。
特設の入り口で受付に会釈をして、展示スペースに入ってゆく。
他の書家たちの作品の間を縫って、彼女は奥へと進む。
平日の午後の早い時間なこともあって、それほど混雑しているわけではない。
美術館のスタッフや顔見知りに会釈をしながら、従姉の弥生がいるであろう羽那の作品の展示スペース辺りまで会場を進んでいく。
「あちらにいらっしゃるわ。スポンサーでね、ええと……サペレの、室町さんだったっけ? 彼女が……」
弥生は羽那を見ると笑顔で奥を指さした。隣の部屋は天井が高く開放感のあふれる部屋で、現在は羽那が海外の富豪の依頼で書いた襖が6本、コの字型に展示されている。
「わかった」
羽那は従姉に軽くうなずくと、そのまま奥へ向かった。弥生がまだ何かを言いかけていたけれど、心ここにあらずの羽那の耳にはちゃんと届かなかった。
室町さんとは打ち合わせと初日に会ったが、羽那より少し年下のショートカットの活発で明るい女性だ。
(彼女は、財前さんのこと知ってるかな? 訊いてみようか……)
艶やかな白い床に、羽那の黒いエナメルパンプスのヒールの音が響く。
人が、いない。
まるで人払いをしてあるかのように。
羽那は、奥の正面に展示されている襖の五メートルほど手前で足を止めて首をかしげた。
「?」
弥生は、そこに室町さんがいると言っていたけど……
とても細身で小柄なショートカットの元気な女性の姿はどこにも見当たらない。
代わりに、6本のふすまの正面に、ひとりの男性がこちらに背を向けて立っている。
サックスブルーのシャツにグレーのパンツ、ネイビーのジャケット。
どこかで見たことあるような後頭部。でも、わからない。
たぶん、体系からして年齢的には若いほうだと思う。
コツ、と羽那のヒールの音が止まると、その男性はゆっくり振り返った。
羽那は驚いて目を丸くした。
夢の中では毎日のように会っていた……というか、同じ家に一緒に住んでいたのに。
現実では、これがまさに初対面なのに。
羽那にはそれが誰なのか、間違いなくわかる。
「財前さん……」
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