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第21話
「さ……がら……はなさん……」
財前は呆然としたままつぶやいた。それを聞いた夫人は副社長と顔を見合わせて、二人はうなずき合った。
「これ。財前さんのジーンズのポケットに入っていたのよ。なんか関係ある?」
夫人がテーブルに置いた紙を、財前は手に取ってみる。和紙だ。無造作に四つ折りににしてあって、結構ぼろぼろになってそっと紙を開いてみる。すると、そこに書かれた文字を見て一瞬心臓が止まった。
きみや来しわれや行きけむ
おもほえず
夢か
「!!」
流麗な筆書きの文字。繊細でいて同時に伸びやかでところどころ力強い。
この手跡を……見たことがある!
「どうしてこれがここに……?」
「それ、誰が書いたのかわかるか?」
「もちろん……わかりますよ。これは羽那さんの手跡です」
財前の言葉を聞いて、副社長と夫人はうなずき合った。
「彼女に関して、他に知ってることはある?」
夫人の言葉に戸惑いながらも財前は首を縦に振る。
「ええ。書家で……あっ! そうだ!」
彼は事故現場で自分と共に救急隊によって持ち帰られたバックパックを探り、財布から二つ折りにしたチケットらしきものを出す。
それは片瀬にもらった展覧会のチケットだ。
「やっぱり……そうだ。どうりで見覚えのあるような名前だと思ったんだった。これ、ウチの社でスポンサーになってる、今開催中のちいさな美術館での展覧会のチケットです。ほら、ここ。ここに載っているのが、コレを書いたひとです」
財前はチケットに載っている羽那の名前と和歌の書かれた紙を交互に指し示した。
「どうしてそれで、それがその人が書いたものだってわかるの?」
夫人の問いかけに財前は苦笑して答える。
「わかりますよ。彼女の文字は……結構たくさん、見てきたので」
副社長夫妻はまたお互いに顔を見合わせて納得がいかないままため息をつく。
「財前」
「はい、なんでしょうか」
「その人と面識はあるのか?」
「えっ? ええ……あると言えるか、ないと言うのが正しいかよくわかりませんが、実は……」
財前はおそらく、土砂崩れに遭ってから病院で意識不明で寝ている間の出来事を、二人に話して聞かせた。
現実には起こりえない、変な話。
どこまでが現実で、どこからがそうでないのかさっぱりわからない話。
意識不明中に脳が混乱して見せた夢だったと言えばそれまでだが、そうとは言い切れない、腑に落ちない点も多かった。
何故実際には面識のない羽那の書いた和歌を、財前は持っていたのか。
そして……
「実はね、財前さん。まだ話してなかったんだけど」
夫人は財前が目覚める前の出来事について話し始めた。
財前が意識を取り戻す二日ほど前。
副社長室に一階の受付から内線が入った。
「相楽羽那様とおっしゃる方が、お約束はないそうですが財前さんにお会いしたいと来社されています」
ちょうど財前の病院に寄ってから来た副社長夫人の紗栄も夫の退社時間を待ってソファで本を読んでいた。
「相楽羽那さん? 初めて聞く名前だな……」
副社長・藤倉瑛士は首をかしげた。財前からはそんな名前の人物について何か聞いた記憶はない。
「はなさん? はなさんですって?」
紗栄は受話器を握る夫に驚愕の視線を向けた。
「なに?」
瑛士は受話器を手で押さえて妻に問いかけた。
「このところ……財前さんが寝言で呼んでる名前が……はなさん、だったでしょう?」
「あぁ。そういえば」
「ちょっと、私が今下に行って、その人をここへ連れてくる。どういう間柄なのかは、その人に訊いてみればいいわ。ちょっと待っててって、言っておいて!」
「あっ、紗栄……」
瑛士の呼び止めをスルーして、紗栄はすでに副社長室を出て行った。
受付に立っていたのは、カーキ色のロング丈のサマードレスを着て髪をアップにした清楚な感じの女性だった。
紗栄は彼女を連れて、副社長室へ戻った。
「サペレの副社長の藤倉と申します。こちらは妻の紗栄です」
副社長室のソファ。
瑛士は名刺を差し出した。
「あ、はい、わ、わたくしは書家の相楽花那と申します」
羽那は瑛士の名刺を丁寧に上取ってテーブルへ置くと、トートバッグから名刺入れを取り出し、自分の名刺を差し出した。
和紙に筆で書かれた、名前とオフィスの住所、電話番号、メールアドレス。
向かい側に並んで座る二人を見て、羽那は心底感心する。華のある人たちとは、まさにこの人たちを言うのだろう。
「うちの秘書を訊ねてこられたとか」
瑛士はわざと「財前」ではなく「うちの秘書」と言った。
「はい……約束は、ないのですが……」
膝の上に置いた両手の指をもじもじと組み替えながら、羽那は決心して切り出した。
「おかしな話なのですけど……私は彼には、直接お会いしたことはないんですが……」
初対面の人たちにそんなことを話せば、ただの頭がおかしい女だと思われるかもしれない。
でも、話さなくては。彼に会うためには、この人たちを味方に付けなくては。
羽那は緊張で声を震わせながらも一生懸命に説明し始めた。
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