ありえないこと

第20話

ぼんやりとうっすらと、瞼の裏に光を感じる。



仄暗く深い水底から、ゆっくりと浮上してきたような感覚。





「あっ! ねえ、ちょっと来て! 今、瞼がけいれんしたわ!」


あの声は……聴き慣れた声だ。


「本当か? ナースコール押してくれ」


ああ、あの声も……おなじみの声、だな。




頭上がにわかに騒がしくなる。


複数の人々の声。


ここは……どこだろう?




誰かが呼んでいるな。


「——ん、財前さん? 聞こえますか? 聞こえていたら二回瞬きしてください」


知らない男性の声。聞こえてるから……言われた通りしてみよう。


見慣れない白い天井。覗き込む白衣の男性と二人の……看護師?


あ。白衣の男性——医師か? 目が合った。短い紙に白髪が混じって、よく日に焼けた彼はにっこり笑った。彼らが視界から消える。白い天井だけがぼんやりと目に映る。




ぱちぱち。ゆっくりと瞼を動かす。




すると、次に視界に入ったのは、僕を見下ろす美しい顔がふたつ。


二人とも、嬉しさと困惑と感動で、今にも泣きそうな複雑な表情で僕を見下ろしている。


「財前……やっと目を覚ましたな……」


「財前さん……よかった……」




僕はにっこりと笑み返した。そして乾いたのどから声を絞り出して二人を呼んだけれど……それは声帯をひゅうひゅうをかすり出ただけで、ちゃんとした声にはならなかった。



「副社長……と、夫人……」




それでも、そのかすかすの声は二人には伝わったようだ。


副社長は指先で目元をぬぐった。副社長夫人は笑いながらぼろぼろと涙を流し始めた。二人が財前の手を握った。


「私……財前さんのお母さんに電話してくるね」


夫人が出て行く。


白い部屋には、副社長だけが残って財前を見下ろしている。


「財前。よかった。本当に助かってよかった」




副社長が、泣いている。


あの、藤倉瑛士が。


「みんな心配していたんだぞ?」


僕は寝たままかすれた声を絞り出す。


「僕……は、一体……」


「お前は親戚の遺品整理に山に出かけて……土砂崩れに巻き込まれたんだ。谷底で奇跡的に発見されたけどずっと意識不明で……」


ぎゅっと、握られた手に力が籠められる。


「ずっと、って……?」


「今週で、三週間になったよ」


「え……? さ、三しゅ……う、か、ん?」


驚いて叫んだつもりだったけれど、実際はうめいた程度だった。





そのあとは大変だった。母親と腰痛をコルセットでごまかした父親、姉に兄嫁に甥や姪たちが病室に押しかけてきて、みんながわんわん泣いた。


後日、後輩の片瀬、飲み友達の吉川和真やそのほか料理教室で一緒だった面々までもがお見舞いに来てくれた。






――財前が山に向かったあの日、昼前に線状降水帯が発生し、部分的に一日で一年間の降水量を上回る雨量が記録された。


故・財前多加彦氏の奥さんは嫌な予感がして心配になり、財前の実家に連絡を入れた。母は何度も財前に電話したがまったく通じず、大雨で土砂崩れが起きたというニュースで胸騒ぎがして警察に通報した。


その日の雨は一日中降り続き、翌朝止んだから捜索してみて、河原の土砂にのっかった感じで落ちていた車を発見、財前を救出してヘリで病院へ運んだらしい。



「幸いにも車の中に土砂は入り込んでなくて荷物も無事だったから、免許証と一緒に入っていた社員証で瑛士に連絡が入ったの」


副社長夫人の紗栄はそう言った。


ヘリで運ばれた病院は会社の近くの大学病院だった。完全介護だったが、いろいろなことは副社長夫人が面倒を見ていたくれたようだ。


副社長の仕事の補佐は総務部の人たちが交代で務め、財前が意識不明の間はみんなでカバーしあってきた。仕事終わりには個室なのをいいことに副社長や片瀬たちが見舞いに来て、早く目を覚ませと話しかけていたと聞いた。



目覚めてみると七月はほとんど終わりかけていて、梅雨もすっかり明けていた。



外傷はほとんどなかったが、土砂とともに転落した時に頭をひどく打ち、左足首を骨折していた。


意識が戻って三日後、脳波に異常はなかったので松葉づえをついて退院することになった。松葉づえとはいっても、意識のない間ずっと固定して寝ていたので、ほとんど治りかけていたことは幸いだった。


副社長夫妻に付き添われてひさびさの自宅へ戻ってくると、二人から話があると言われた。まさか、意識不明で寝ていた間に、クビになったのか? とへんな杞憂が頭をよぎったが、どうやら全く別のことらしい。



退院祝いの料理を作ってくれた副社長夫人は、真剣な表情で言った。


「ねえ、財前さん。『はなさん』って、誰のこと?」


いきなりの質問に財前は意表を突かれた。


「はい? はなさん? 誰だろう……?」


「お前が意識不明の間、何度かその名前を呼んでいたんだよ。俺も聞いたことがある」


副社長も隣でうなずく。


財前は首をかしげた。


「うーん……知らないような、知ってるような……懐かしいような……」


左上を見つめて考える財前を、二人は神妙に見守っている。待ちきれずに夫人が身を乗り出して言った。


「時々、笑ったり、誰かと話しているみたいに何かつぶやいていたり……私も何度か目撃したんだけど、お医者様はたぶん夢を見ているんだろうって。私たちの知る限り、誰も『はなさん』ていう人に心当たりがないんだけど……」


はなさん。


はなさん……



うん?




「!」


はっ、と財前は目を見開いた。



「羽那さん……!」

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