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第19話

声にならない悲鳴を吸い込みながら、羽那は目を覚ました。


見慣れた天井。


ここは……自分の家の、居間のソファの上。



「……」



羽那は飛び起きて、そしてローテーブルに載っているノートをつかみ取ると、空白のページに覚えている限りのことを一気にペンを走らせて書きなぐった。






山のアトリエ


見知らぬ……けど、親しい男→?


恋の歌を八首(仕事の呪い?)




ああ……何なの?


「彼」と交わした会話まで、ことこまかに覚えている。


一緒に選んだ、恋の歌。


一緒に見た、満開の桜と無数の蛍たち。


ほんの数日だけ、一緒にいたのに……もう何年も十数年も、一緒にいるような安心感……



「ざ」


かすれた声が午後の日が傾きかけてきた部屋に響く。


自分の声とは思えないような、酷くかすれた声。


「……い、ぜん、さん……?」



そう。


彼女の山奥のアトリエの庭に倒れていた、見知らぬ男性。


このところ、数日間彼女の夢の中に出てきた、あの男性。


「ざいぜん、なおや……」


彼の名前は、財前直哉。


やっと、名前が分かった。


彼はある大企業の副社長付きの秘書だと言っていた。


しかもその会社は、今度開催されることが決まっている彼女も出品する展覧会スポンサーのひとつだ。


夢の中ではそんなこと思い出せなかったけど(夢だから、あたりまえかもしれないけど)……




「!」


まさか?


半信半疑で、ラップトップの蓋を開けて検索してみる。


サペレ、副社長秘書。


副社長は有名人だから、すぐに無数に出てきた。でも秘書って……




「あっ!」




羽那はノートとペンをローテーブルに置くと洗面所へ向かった。


早く、一刻も早く、確かめないと。


起き上がってすぐあわてて移動したので、目の前が真っ赤になってちかちかする。貧血、こんな時に。


顔と髪を整え、部屋着からカーキ色のロング丈のサマードレスに着替え、トートバッグを抱えて部屋を飛び出した。


行先は、5駅ほど電車に乗ったところ。


株式会社サペレ。


行かないと!


本当に夢の中のあの人が、そこにいるのだろうか?



羽那ははやる気持ちに追いつくように、駅までの道を足早に急いだ。





(夢か現か寝てか覚めてか、なんて……)



もうすぐ、帰宅ラッシュが始まるだろう。でも辛うじて、まだ空いている。


電車の窓を流れる日常の景色をぼんやりと見つめながら、羽那は考え込む。




今まで、断片的に見ていた夢が、あんなにも鮮明に見えたのは初めてだった。


しかも内容が、ちゃんと時系列で進んでいた。


もしあの人が、本当に存在する人ならば……会わなければならない。


どうして?


何のために?





それは……






名刺をもらった広報部の社員に電話すると、あいにく不在とのことだった。


約束を取り付けてきたわけでもないし、受付でいきなり副社長付きの秘書を呼び出すのも非常識に思えた。しかも、実在する確証もないのにそんな無謀なことはできない。頭のおかしい女だと思われるのも嫌だった。


そうかといって、他に顔見知りの社員などいない。


夢の中で一緒に暮らしていた人が実在するのか確かめに来たなんて従姉の弥生が知ったら、スランプすぎて頭がおかしくなったと本気で心配させるかもしれない。



でも……


ただの数日続いた夢だと笑い飛ばすには、いろいろと引っかかることが多すぎる。


どうしてそんなにもリアルな人物設定ができていたのか。


やけに、胸騒ぎがして落ち着かない。


なんだか、とても重要なことがわかっていないように思えて、落ち着かないのだ。




羽那はまだ、ロビーのソファにいて迷っている。


恥を忍んで、受付に訊いてみるべきか。


でも、ストーカーだと思われたら、絶対に教えてくれないはず。


それどころか、警備員を呼ばれたら恥ずかしい。


でもここまで来たのなら、せめて財前直哉という社員がいるのかどうか、知るべきだ。



よし。



羽那は観念して当たって砕けてみることにした。



ソファから立ち上がり、受付に向かう。



羽那よりも若い――二十代前半か半ばくらいのかわいらしい受付嬢が、羽那を見てにっこり微笑む。


「こんにちは。ええと……約束はないのですが、副社長秘書にお会いしたいのですが。わたくし、御社でスポンサーをしていただいていて来週から東郷美術館で展覧会に出品する書家のひとりで、相楽羽那と申します。広報の室町さんを通してご連絡したかったのですが、本日室町さんはご不在とお聞きしまして」


我ながら苦しい言い訳だ。説明しすぎてかえって怪しさMAXかもしれない。


でも、一か八か。


ドキドキしながら受付嬢の反応を待つと、彼女は少しだけ悲しそうな困惑した表情を見せて「少々お待ちください」と言い、どこ何電話をかけた。


まさか、警備に通報されたわけじゃないわよね……?


内心の不安を表情や態度に出さないように、羽那は全身全霊で平静を装った。でも心臓はすでに口から飛び出そうだ。



三分ほど待っていると、エレベーターのドアが開いて一人の女性が出てきた。ネイビーのミドル丈のシャツドレス、短めの華奢な金の鎖に小粒のバロックパールと小粒のダイヤモンドが交互に付いたネックレス、黒のポインテットトウのパンプス姿の美女。


ぼんやりと見とれていると、受付嬢が席を立ち、その女性に向かって丁寧に会釈した。



美女は羽那をちらりと見ると、受付嬢に華やかな笑顔を見せた。


「こちらの方ですか?」


「はい」


受付嬢は恭しく頭を下げながら答えた。


「あとは私が応対しますね」


美女が微笑むと、受付嬢はまた会釈して席に着いた。




「相楽羽那さん、でしょうか?」


美女はくるりと羽那のほうを向いて、また華やかな笑みを見せた。


「はっ、はい!」


その華やかで絶対的なオーラから、この美女がただの社員ではないと羽那は直感で悟る。


「信じられない……」


ぼそ、と美女がつぶやく。よく聞き取れなかった羽那は首をかしげる。


「はい?」


美女はそんなきょとんとした羽那に満面の笑顔を向けた。


「あ、いえ。では、私がご案内しますね。こちらへどうぞ」


美女は右手でエレベーターを指し示して歩き始める。艶やかな大理石の床に彼女のパンプスのヒールの音が涼し気に鳴り響く。


羽那は慌てて彼女のあとについて行った。



これは……



どういうことなのかしら?

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