第18話

羽那はしばらく考え込んでからふいに顔を上げて財前を見た。彼は少し驚いて目を見開く。



「財前さん」


「は、はい?」


「本当に……なんとお礼を言えばいいのか……」


「え?」


「あなたが今、この山奥に一緒にいてくれなかったら……まだ桜の歌で悩んでいたかもしれません」


「いや、大したことは何も……」


「いいえ。自分とは違う誰かの感性が、こんなにも頼りになったことはありませんでした。本当にありがとうございます」


今度は財前がぼんやりと考え込む。


「僕は……自分の感性なんて、最近の生活の中では全く意識していませんでした。まさかそれがあなたのお役に立てるなんて」



アブラゼミの声が聞こえる。


相変わらず「散り終わらない」満開の桜の大樹のむこうでは、緑深い山の稜線がなだらかに見える。




(正気を失っている感じ……)




もしそんなことがあるとすれば、今だ。


初めてカノジョができたのは高校二年生の時。放課後に手をつないでいろいろなことを話しながら、わっざとゆっくりと街中を遠回りして帰った。楽しくて、浮かれてはいたけれど……正気を失うほどでは、なかった。


大学の時にバイト先で知り合った子はちょっと変わり者で、予想を上回る奇行が多く、別な意味でドキドキさせられた。サークルで知り合った後輩に告白されて付き合ったこともあったけれど、気持ちが盛り上がる前に「思っていたのとは違った」と言われてフラれたし、友達の紹介で出会った女子大の子にはモノばかりねだられてうんざりして別れた。その中の誰にも「正気を失う」ような好意をいだいたことはない。


社会人になって初の会社の同期にほのかに好意を持ったけれど、歓迎会の飲み会で酒癖が悪くて大暴れしているのを見て気持ちが萎えた。


いいなと思った後輩の子が、歯に口紅をべったりつけて笑いかけてきてぞっとした。


転職してすぐに告白されて付き合った麻希には……陰で浮気をされまくっていたのに全く気付かなかった。


もちろん、気づかなかったくらいだから、「正気を失っている感じ」なんてなかった。




は、と財前は驚きで目を見開いた。



(僕は……)



初めて、わかった。



(正気を失うほど、誰かを好きになったことがなかったんだ!)




「やっぱ、残念な男なのね、先輩って」


片瀬が冷たく整った表情を崩さずにフッと冷笑するのが目に浮かぶ。


「財前さんはさぁ、なんでもまじめに考えすぎ! 出会いなんて、フィーリング第一!」


吉川和真が肩をすくめてやれやれと首をふる姿も浮かぶ。


「せっかくかわいく産んであげたのに、なぜいつまでも一人も捕まえられないの?」


呆れて口を尖らす母親も思い浮かぶ。




(「正気を失う」っていうのは……べつに、情熱的で激流にのまれるような感じとは限らないんだな……)





「——あの。財前さん? 聞いてました?」


そっと右の手首に触れられて我に返り、心配そうに自分を見上げる羽那を見て財前はつとめて平静を装おう。


「あ、はい? もう一度お願いできますか?」


「ええ。おかげさまですべての歌が決まったので、明日にでも、山を下りて戻ろうと思います。だから、戻る準備をしてくださいと……」


「明日、ですか。はい、わかりました」


明日。


この不思議と心地よい山奥の小屋での二人だけの生活が終わる。


なんだか物寂しいが、羽那の意欲的なキラキラと光る目を見ると早く仕事をさせてあげたいと思う。




いや……もしも、この山を下りたら……そのあとは、彼女にまた会えるのだろうか?


しかも、これは現実なのか夢なのかもわからないのに。


真夏の山の景色の中で、散らない満開の桜があるのは現実とは思えないし、青白い光の蛍だって、現実に存在するとも思えない。


一体、どうなってしまうのか全く見当もつかないけれど……


「羽那さん」


「はい?」


「山を下りて日常に戻っても……あなたにお会いすることは、できるでしょうか」




羽那は一瞬目を大きく見開いた。


そしてそれから、花がほころぶようにうれし気に笑顔を見せた。


「はい、もちろんです。襖が完成したら財前さんに真っ先に見ていただきたいですし、近々始まる展覧会にも、ぜひ来ていただきたいですし、それに……」


彼女はうつむいた。そして一瞬の時を置いて、顔を上げ財前を見つめてはにかんだ笑顔を見せた。


「これからも、できるなら……く、……たらなと……」


「えっ?」




財前はびくりと身を震わす。


目の前の羽那の姿が、掠れてゆく。


声も姿も、何もかもが深い霧の中に埋もれて行くように見えなくなる。



「羽那さん!」



叫んでも、何も返ってこない。


ひゅ、と息を飲み込む。



(いやだ、だめだ!)



声も出なくなる。


目の前が花吹雪で何も見えない。


花びらで、窒息しそうだ。


財前は必死で花びらをかき分けて息を吸う。けれど、大量の桜の花が口をふさぎ、鼻をふさぎ、やがて彼の呼吸を奪った。




羽那さん――!!




彼は空けているのか閉じているのかわからない目の前が真っ白になり、やがて意識を失った。

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