夢かうつつか
1
第17話
決して、自惚れなんかではないけれど。
羽那の様子が、少しだけ変化したと思う。
昨夜どさくさ紛れに財前が羽那の手を取ったまま、ゆっくりと小川沿いの小道を戻ってきた。お互いに何も話さずに、ただただ、桜の花が舞い散る様子や蛍の飛び交う様子を眺めながら歩いてきた。
羽那はどうなのかはわからないけれど……財前は花吹雪にも蛍にも関心が行かずに気もそぞろで、ただつないだ手だけに意識が集中していた。
羽那の手は小さくてふわふわしていて、力を入れればけがをさせてしまいそうだし、かといって意識しすぎて緩めすぎればするりと抜けて逃げられてしまうかもしれなかった。どちらも避けたい。だから微妙な力加減を意識して、ひたすら何気ない風を装った。
幸いなことに、ただ握られているだけではなくて、羽那の指も少し曲げられて財前の手に引っかかりやすいようにされて……いるような気がした。
きっと、不快ではなかった……とは(かろうじて)思う。
部屋に戻って横になってもいろいろと考えてしまい眠れなかった。
それで今朝は少し、遅く目が覚めた。
はっと飛び起きて時計を見ると、やはり九時を回っていた。短期居候の身でありながら、図々しくも寝過ごすとは。
庭の井戸で顔を洗い寝癖を整えて戻ると、ちゃぶ台の上には朝食が用意され、ふきんがかけられていた。羽那を探すと、彼女は床の間を開け放って字を書くことに集中していた。
普段のほわんとした柔和なイメージはどこかに封印された、厳かで神聖な表情。
どちらの彼女も魅力的だ、と財前は遠巻きにしばし見惚れる。
彼女の集中力は途切れる様子がないので、とりあえずそっとその場を去り、財前は朝食を済ませ、食器を洗い掃除をし、羽那が裏の清水で冷やしておいたやかんから麦茶を注ぎ、再び羽那のもとへ向かった。
「お疲れ様です」
一時間ほど前とさほど変わらない様子でひたすら筆を滑らせていた羽那は、少し好かれた様子で顔を上げ、やんわりと表情を崩した。
「あ、ありがとうございます……」
財前の差し出すコップを両手で受け止める。
指先が触れると、微妙な緊張感をお互いに感じる。
「寝坊しました。すみません。それと、朝食、ありがとうございました」
財前が苦笑しながらぺこりと頭を垂れると、羽那は麦茶を一口すすりながら左手を細かく振った。
「あ、いえ、ゆっくりしてくださって構いませんよ」
なぜだか、羽那もぺこりと頭を垂れる。
二回ほどぺこぺこと頭を垂れ合って、ふと目が合う。そしてお互いに乾いた笑いを浮かべる。
「羽那さんは朝から……もう仕事されてたんですね」
「これは……雨の歌と蛍の歌のイメージトレーニングです」
「残るは夜の歌だけですね」
「そうですね。一息ついたら、考えます」
「お手伝いしますよ」
「あ、ありがとう……ございます」
羽那はふいとうつむいて視線をそらした。耳が、ほんのりと赤い。財前はどきりとする。
(もしも彼女も僕に好意を持ってくれていたら、嬉しいのに)
でも、単に気まずいだけかもしれない。恋人らしき存在は一度も話題に上らないし気配もないので、いないでほしいと願う。
麦茶で一休みした後は、昼近くまで二人で歌を探す。
「襖に描かれた夜の絵は、高い位置に小さな満月が描かれているので、月が出てくる歌でもいいと思うんです」
「夢、もいいですか?」
「うーん。良し! としましょう!」
「じゃあまずは、小野小町」
財前は『古今集の恋歌』という本に目を落としながら歌を読み上げた。
思ひつつ
夢と知りせば
覚めざらましを
(あの人のことを思いながら眠ったので、姿を見ることができたのかしら。それが夢の中だと気づいていたなら、目覚めないでいたのに)
「やっぱりそれ、最有力候補ですよね。私もしおりを挟んであります」
羽那が柔らかく笑む。
「ふーん。なるほど。解説によると、昔の人は好きな相手が夢に出てくると、その人も自分のことを思ってくれている証拠だと考えていたらしいですね」
「素敵ですね。好きな人に夢の中で会うために、衣を裏返しに来て寝る、というおまじないもあったみたいです」
「小野小町は、裏返しで寝たのかな?」
「どうでしょうね。ええと、夜とか夢がテーマだと、結構悲しめな歌ばかりですね。あ、これ、悲しいけどきれいな感じですよ」
逢はぬ
我さへともに
(会えない夜がやまない雪のように積もり積もってゆけば、私も時とともに、雪のように消えてしまうのに)
「ホントに、悲しい歌ですね。忘れられることを『消える』と表現するのって……」
羽那の表情が曇る。財前は焦ってぱらぱらと本のページを必死にめくる。
「あっ、やっぱり、夢系にしましょうか。これは?」
きみや来しわれや行きけむ
おもほえず
夢か
(昨夜はあなたがいらしたのか、私がそちらへ出向いたのか。あれは夢だったのか、現実だったのか、眠っていた時のことだろうか、起きていた時のことだろうか。まったく、私にはよくわからないのです)
「これは詠み人知らずですが、『伊勢物語』で神に仕える斎宮との禁断の恋の部分で出てくるので、その斎宮の女性が詠んだのかもですが」
「『か』の繰り返しが、素敵です」
「ちょっと正気を失ってる感が出ていていい感じですね」
「正気を、ですか?」
「恋愛って、そういうものでしょう?」
「……あぁ、なるほど」
羽那はぼんやりと畳のへりをぼんやりと見つめながらこくこくとうなずいた。
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